第二十三節 暗闇
――その変化を受け止めたのは当然、後方にいるリアたちだけではない。
「……ッッ⁉」
戦場に立っている者全てに共通する認識。それに従って千景は目を向ける。バーティンらが上った高台の更に上。洞窟の入り口がある丘陵の上に、立っているのは。
「――ふう」
惚けた顔をした中年の男。俯瞰される者たちからの重苦しい視線を一手に受けつつ、なおも異質に平然とした声を発す。
「間に合ったようだね。良かった良かった」
その異様の更に隣。晴れ渡る空を背景にしたその位置に、ソレはいた。
「……」
――闇より深い黒紫。
澄み切った景色の中でそこだけが。異常な色の濃霧を纏うかのように暗く染め上げられている。底なしに湛えられ渦を巻く、邪気の雲。
「……」
中から一本の腕が伸びる。広げられた掌が握られると、それだけで払われぬと思われた暗雲が微塵に消え去る。その裏に、一つの脅威を残して。
多くの襞が付けられた布地。邪気と同じ色を目に映すのは、時代錯誤を思わせる簡素な衣服。……華美な装飾も威圧的な拵えも何もない。それでもただ、そのあるだけを以て理解できた。
「『永久の……魔』」
誰かの呟き。零されたその一言がこれ以上ないほどに言い表している。今彼らの直面している状況、絶望的なその全て。
そして彼らが見ている景色は、決してそれだけを意味するものではなかったのだ。
「……あ……く……」
「……」
二人の足下に残骸の如く転がっているのは……封印を阻止するべく向かわせたはずの組織の切り札。
――『№0』、並びに『十三番目の使徒』。辛うじて意味を成さない声を上げている『№0』と異なり、『十三番目の使徒』は息絶えてしまったかのように微動だにしない。……完全なる敗北。僅かに届く呻きと沈黙は、対照的ながら見る者の目全てに同じ感覚を突き付けた。
「――」
「馬鹿な……」
緋神が目を見張る。目に映るものが信じられない。平時の理性的な面影など欠片もなく、胸に湧く感情のままにフェイディアスが一歩後ずさったとき。
「――退きなぁッッ‼」
その横をリアの絶叫が駆け抜けていく。――『永久の魔』たちの正面。空間転移によって一瞬で中空に出現したリアとアイリス――。
「――『ヘレナの聖釘』」
明示と共に投げ付けられた三本の釘。それらが男と『永久の魔』とを囲むように地面に突き刺さり、刹那にその力と動きとを封じ込めに掛かる。――大地を震撼させるほど強烈な力の波。
「おおッッ――⁉⁉」
「【魔滅の王】――‼」
男の驚愕とほぼ同時に発動させられていた術式。その場に縛り付けられている男と『永久の魔』。双方の敵味方が主立った動きを見せないうちに、現われた闇にその二人の姿が一瞬にして飲み込まれた。
――魔術協会が混沌の魔女打倒を標目に作り上げた最強の魔導書、『禁忌の鍵』。
それにより発動可能となる禁呪【魔滅の王】は、別位相に存在する暗黒の世界へと繋がる『門』に対象を飲み込み、あらゆる活動を停止させた状態で無限に暗黒の中を漂わせる効力を持つ。『門』を通じた〝別世界への追放〟がその基本的な原理であり、通常の如何なる護り、加護でも防ぐことは敵わない。追放自体はコンマ一秒以下の時間で終わる他、『門』の持つ特異な吸引力により回避も理屈の上では不可能となる。費やす魔力の大きさと発動の困難さから、一度しか使えぬ大技。
「……ちっ」
風の制御によって幹部たちのいる崖下へ舞い降り――アイリスとの連携によりそれを遣り遂げたはずのリアから打たれる舌。乾いた口内から、飛ぶはずの唾は飛ばされることなく。
「こいつはまた、何とも――」
悪態を吐いた直後、誰の目にも分かる異変が起きた。
「なっ……⁉」
再度。傷口が開くように空間から溢れ出したのは漆黒の闇。闇と空間との境目に手を掛け、内より永久の魔が姿を現す。……平然と。押さえつけられたその裂け目から続いて現われたのは――。
「――いやあ。焦った焦った」
しまったという風に頭に手をやっている男。先ほどまでいた場所に降り立ち、掻き消えていく闇の残滓を指先で揉み消して、ふぅと息を吐いたのちに眼下のリアたちを眺め遣る。
「恐ろしい術法だね。これと言い彼女たちと言い、貴方たちのやることにはつくづく驚かされる。しかし――」
隣に立つ永久の魔を頼もしげに見て。再び、男が一同を睥睨した。
「それでも『永久の魔』には届かない。……貴方たちの足掻きを終わらせるためにこそ、彼はここにいるのだから」
「……ッ」
男の宣告を留めつつリアは奥歯を噛む。その術理によってあらゆる対象を異界へと追放するはずの【魔滅の王】。それが何ゆえに破られたのか、術者であるリアにはとうに答えが出てしまっていた。……本来ならば。
法則に従って刹那に閉じられるはずの『門』が。――閉じ切っていなかったのだ。考え得る原因など一つしかない。あの『永久の魔』が、内部から『門』の開閉を押さえ付けていた……。
魔術法則を捻じ曲げるほどの圧倒的な力。創意も工夫もなく、ただ止められたから止め、開けられたから開いただけのこと。……対策も弱点も利用できる手も思い付かない。圧倒的に無造作なそれは、絶望的なまでの力の差を突き付けるもので。
「――巻き添えはごめんだね」
戦場の随所から。その脅威を見て取った『アポカリプスの眼』らが早くも撤退を始めている。……組織側の誰も、その動きを追うことは出来ない。
――分かっているからだ。敵である自分から僅かでもあれに近付くことは、紛れもない死を意味していると。
「……全員戻ったかな」
男の横へと並び立つ面々。傷を負いながらも全員が存命。ただ一人、蔭水冥希だけの姿が見えない。
「では、頼みますよ」
「……」
そのことを見止めて指示を出す男。応えるようにして『永久の魔』が腕を翳す。――その手の中に握られた黒紫の剣身。人間全ての負の情念を注ぎ込まれた、見通せぬ暗暗色――。
「――【波動断罪】」
呟いた『永久の魔』が剣先を大地へと突き立てる。直後。
「……ッッ‼」
姿を現す異変。地を削り取りながら進み行く瘴気。数百メートルの高さを優に超える、圧倒的な力の大波に――。
――為す術もなく。リアたちの姿は、飲まれていった。
「――俺が爺を殺る」
鞘から剣を抜き放ちつつ、後方へ向けて言う黒騎士。
「お前らは他を適当に片しとけ」
「……標的はそこのお爺さんだけのはずでは?」
やる気充分と言った台詞に対し、対照的な態度で返す女性。胸元を大きく開けた服装も、他二人と比べればまだまともな格好に見えた。
「か弱い子どもたちを殺すなんて詰まらないことは、しなくたっていいじゃないですか」
「生憎同情心なんてもんは持ち合わせてないんでね。それに、見た目以上に骨があるってこともある」
何だ――? 声を出した女性に、気付けば視線を惹かれている自分に気付く。……今はそっちを見ている場合じゃない。注意すべきは黒騎士のはずだ。視線を逸らした俺の視界で、軽くこちらを一瞥し終えたと思しき黒騎士が続けて口を開き。
「ま、やる気がないなら良いぜ。ヤマト、やるぞ」
「……ツカレタ」
「は?」
「オイカケッコデツカレタ。ダカラ、キョウハヤルキナイ」
まるで駄々っ子のような台詞。動きを止めた黒騎士が、繁々と軍服の少女を見る。
「……お前、なんか変なもんでも食ったのか? お前は疲れねえだろ」
「ヤダ。ツカレタ」
「あらあら。可愛いですね……ヤマトちゃん」
……なんだ?
急に目の前で繰り広げられる下手なコントのような遣り取りに、向ける態度を見失う俺たち。レイガスと郭も動かず――。
「――俺が蛇なら、やっぱり蛙は食わねえな」
急転する声色。息を吐いた黒騎士がこちらへと向き直る。
「折角こっちが茶番打ってやってるってのに、逃げもしねえんじゃ面白みがねえ。何せここが最後だ。この機を逃したら次は何時になるか分かりゃしねえし、精々愉しませてもらわねえとな」
――最後。まるで遊戯であるかの如く殺気を纏う黒騎士に最大限の注意を払いながらも、不吉な予感を感じさせるその言葉に意識が引き付けられる。それは、つまり――。
「――聖戦の義、執行機関」
レイガスの声が耳に響く。
「既にそれらを潰してきたということか」
「その通り。呑み込みが早くなってきたようで何よりだぜ、爺さん」
レイガスが自身の言葉にまともな反応を返してきたのが嬉しいのか、どこか満足げに頷く黒騎士。……やはりそうか。『アポカリプスの眼』は三大組織と敵対関係にある。話に依れば、魔術協会以外の二組織も留守を幹部に預けていたはずだ。その隙を狙って、この三人が……。
「生憎どこもてんで歯応えがなくてな。退屈してたんだ。お前らには期待してるぜ」
「……っ」
細かに。隣りにいるフィアの震えが伝わってくる。リゲル、ジェイン、郭の緊張も。前にいるのは三大組織の幹部を平然と殺せるような連中。その絶望的な事実が、俺たちから余裕の一切を奪っている中――。
「……」
「お?」
俺たちの前面に立っていた、レイガスが更に一歩踏み出す。その所作に期待を込めたような面持ちで眉を上げる黒騎士。
「一つ、訊かせて欲しいことがある」
「――!」
そのまま限りなく自然な口調で、黒騎士へとあろうことか質問を投げ掛ける。……ただ一人。
――最初こそ違ったといえ、レイガスだけはこの空気の中で平常の行動を取ることができている。そのことを思い出すと同時に、正にそれこそが俺たちの命を繋ぎ止めているのだと直感する。……理解できないが、この黒騎士は殺す相手との会話を楽しんでいるような嫌いがある。仮に恐怖でまともな受け答えができていなければ、退屈な連中と見做されて即座に殺されていたかもしれない。
そんな俺の推測を裏付けるように――。
「――良いぜ」
言葉を受けた黒騎士は迷うことなく肯定の返事を返す。
「旅立つ前に疑問の一つくらいは答えてやる。間違って後で恨んで出て来られても困るからな」
「ガイゲは相変わらずですね。ねえ、ヤマトちゃん」
「……ウン」
そんな仲間の態度をどう思っているのか、まるで気にしないように少女の方へ話し掛ける女性。少女の方は一言答えたきり、それ以上話そうとはしていない。二人とも殺すべき相手の前にいるとは思えない態度だが、俺たちからすればそれは逆に喜ばしいことでもある。
思えばレイガスの側からこの三人に話し掛けるのは初めてのこと。何か狙いがあるのか――?
「『アポカリプスの眼』を再編し、三大組織の本拠地を一度に異空間へと移した」
それを理解しようと頭を働かせながら、なるべく邪魔にならないように息を潜める俺の前で。黒騎士の言葉に直接の反応は見せず、しかし許可を出されたことを呼び水として、質問の内容を語り始めるレイガス。
「『永久の魔』を復活させ、更にはお前たちまでこの時代に喚び戻している。……規模から考えても、恐らくは全て同一人物の手によるものだろう」
……そうだ。レイガスの言葉に内心で頷く。そのことには凡そ疑いようがない……。
「全ての糸を引く……裏にいる人物とは、何者だ?」
「ほう、そう来たか」
まるで普段の会話のように。分かると言うように頷いた黒騎士。
「随分と正直だな。ま、別段口止めされてるわけでもねえ。死に逝くジジイの最期の願いとあっちゃ、答えてやりてえところだが――」
一瞬溜め息を吐くように目を細めた、それはまるで謝罪のようにも見える仕草で。
「生憎こっちもそこまで理解できてるわけじゃなくてな。答えられるんのは精々、分かり易い背景や後ろ盾のある奴じゃねえってことくらいだ」
念のためと言った顔で後ろに視線を送る。二人もまた、それ以上はないような表情をしていた。
「つうことで悪いがそれが答えだ。不満があんだったら、追加で一つや二つ質問しても構わねえが」
「……いや、充分だ」
「そうかい。諦めがいいようで何よりだぜ」
言葉の終わりと共に黒騎士が剣を構える。鋭く研ぎ澄まされ磨き抜かれた切っ先。その鈍い銀の煌めきを目にして、処刑人を前にした罪人のような言い難く嫌な感触が湧き上がってくる。
「やれやれですね」
死神と呼ばれた女性は気乗りしないようだったが、それでもやや立ち位置を側方に変え、気負いのない瞳で俺たちを俯瞰するような姿勢を取る。……武器も取り出していない、凡そ脅威になり得るとは思えない自然体。しかしそれと同時に鳥籠の中に捕われたかのような、言い知れない居心地の悪さを覚えていることに自分たちが何かマズイ状態に置かれていることを直感する。……その真横で軍服姿の少女もまた、古式な軍刀をコートの下から取り出していた。鞘に収められた刀身は、まだ抜かれてはいないが……。
「――郭」
「はい」
敵方のその動きに応じるようにして。レイガスの言葉に対し郭が後ずさり、俺たちと同じ位置にまで後退する。対照的に更に前へと歩み出たレイガス――。俺たちが動いていないことから結果的に一人だけ、突出して注意を集めるような形になる。止める間も無く淡々と歩を進め、黒騎士から六歩と離れていない位置。目の前と言える位置にまで到達した。
「おい――」
「……何だ? てめえから殺して下さいってか? そこまで順番を守りたけりゃ叶えてやってもいいぜ」
リゲルの声を背景に掛けられるのは変わらぬ嘲り。互いに一触即発の距離にあって、黒騎士の方は全く脅威を感じていないらしい。……始まるのか? まるで見込みのない戦いがそれでも始められることを予感して、余りの緊張に俺が唾を飲んだ――。
「――そうだな」
済ませた耳に響くのは、黒騎士に応えるレイガスの落ち着き払った声音。
「この世に先に生を受けた者として、後代より後に死ぬことは具合が悪い」
今まで目にしてきたレイガスからは考えられないようなその内容に、思わず俺が耳を疑った。
「――ッ‼」
――瞬間、俺の真横にいた郭が動く。魔力の動く気配。恐らくは声なき詠唱に連れて。
「っ⁉」
立ち処に現われたのは俺たちの分身。郭を含めた五人の姿を模る幾つもの虚像が、この空間一杯に広がりそれぞれ異なる動きを見せている。……これは、以前の模擬戦の時に見せられた――。
「【時の加速――・三倍速】!」
同時に響くのはジェインの声。あらゆる行動速度を三倍に引き上げる【時の加速】が、レイガスを除く俺たち全員に掛けられ。
「――行きますよ」
静かに。有無を言わせない口調で声を掛けて来た郭に生まれる逡巡。一瞬移した視線に映る背中は、先ほどから新たな動きを見せてはいない。
「……レイガスは?」
「……それが師匠の意志です」
――置き去りにしていくのか?
葛藤が起こる。衝突の多かった相手だとはいえ、それは余りにも――。
「長くは持ちません。死にたいなら残って下さい」
「――行こう」
言い残して駆けていく郭の後にジェインが続く。
「今が唯一のチャンスだ。此処で逃げ切れなければ、恐らく僕らに機会はない」
「――」
なおも迷っている俺たちの隣で、リゲルが歯噛みするように顔を歪め。
「ッ死ぬんじゃねえぞ……!」
駆け出した。小さくなっていくその姿に、静かに立っている背中をもう一度振り返り。
「――行こう」
「……」
「――フィア」
「……はい」
最後まで迷いを見せていたフィアも俺と共に走り出す。走る最中になおも後ろを気にしながら。
――レイガス。
ただ一人黒騎士たちの前に残った人物の安否を気に掛けながらも、俺たちは長い廊下をゲートに向けて全力で駆け抜けて行った――。




