第二十一節 東の決意
「――ッ――‼」
飛び散る緋の色。傷に厭わず全力で退いた冥希を、東も敢えて追おうとはしない。
「……ッ!」
地を踏みしめた冥希の身体が、揺れる。……身に負わされた幾重もの切り傷。時に深く、時に浅く刻まれたその様は、致命傷に至る数歩手前と言うほどの重体。それでもなお膝を付かず構えを保つ冥希に、東はどこか痛ましい視線を送る。
ただ小太刀に依る一撃。それによって突如軽傷から重傷へと転じた冥希と対照的に、幾許の猶予も無かったはずの東は今、大した難無しに立っていられるまで回復している。完全にではないものの、先ほどまで疑い様もなく致命傷であった損傷は最早軽微と言えるほどの痕が残るのみ。
「……よっと」
最早隠しておく必要もない。先刻切り付けたにも拘らずまるで血の付いていない小太刀を今一度自身へと振るい、東は身体から残された負傷の一切を消し去った。
夜月家の保有する唯一の呪具、『死椿』。六刀の中で例外的に使い手から忌避されるその妖刀は、冥希が推測していた通り、血を吸うごとに自らの性能を上げる能力を持つ。その効力は刀のみならず刃を振るう者――より多くの血を自身に吸わせてくれる使い手に対しても有効。
恩恵を受けるために吸わせる血は敵味方、人異形、生者死者の区別を問わない。ただその身を潤す血を捧げることにより『死椿』は使い手と共に力を増していく。……更なる血を得るため、使い手の精神を徐々に破壊衝動へと染め上げながら。
呪われた力を手にしてでも、人に害為す異形を切り伏せる――。それが代々『死椿』を受け継ぐ者たちの訓辞であり、覚悟。今東は正しくその呪具こそを手にしていた。……劣勢からの反撃を強力に補助するそれは冥希との差を埋める一つの手立てであり、紛れもない切り札。
しかしこと今回に限って言うならば。……東が覚悟と共に手にした妖刀は、あくまで本命の為のお膳立てでしかなかった。
――『梅切』。一見して何の変哲もないその小太刀。些かの脅威も感じられない刃は、実のところ宝刀の中でもかなり特異と言える能力を秘めている。医術者でもあり鍛冶師でもあった刀工が作り上げたとされるそれは人を切ることはなく、傷を切るのだ。
厳密に語れば傷を消滅させている訳ではなく、『梅切』の刀身内部へと移し取っているに過ぎない。故に癒せる傷の重さには限度があり、限界を迎えた状態で振るわれた刃はそれまでと逆に、自らの内に移された傷全てを切り付けたものに対して放出する。現に冥希がその身を以て体感したように、それは正しく決定打となり得る一撃。
だが――。
「……」
冥希が結果としてその一撃を受けることになった要因は。実のところ、決して初見では予測が付けられないような『梅切』の能力にあったのではない。
『梅切』が小太刀である以上、その一振りを当てるには通常以上に相手に接近する、即ち冥希の剣を掻い潜って近間へ潜り込む必要がある。……考えるだにまず不可能。気配でも窺わせれば即座に冥希はその意図を読み取り、『梅切』の刃に身を晒さぬよう努めただろう。そも【逆波】がある以上、接近に成功したとしても東の側に一刀を振るう余地があるかは大いに疑わしい。
自ら【無影】を仕掛けた際、東が如何な持ち手を繰り出して来ても完全に対処できるだけの自信が冥希にはあった。……東とてそのことは理解していた。冥希の持つ自信が見込み違いなどから来る不遜でなく、凡そ的を射た分析であるということ。――自身がこの『梅切』の一撃を当てるには、冥希の攻撃に己の身を晒す必要があることを。
そしてそれは即ち、必殺の意図を以て放たれた十の【無影】を受けるということに他ならない。……常道には程遠い。奇手奇策の類ですらない。最大限に留意し『死椿』で斬撃の威力を削いだといえ、それでも東が冥希の技を受けて死ななかったのは詰まる所ただの幸運である。即死して何らおかしくは無かった――。そんな状況に自らを飛び込ませようというその思考は、部分だけ取り出して見れば正に自殺と何も変わらない。死地を超えるのではなく、死地に身を委ねたその愚考を、冥希が終ぞ予測できなかったと言うだけの話に尽きている。
「……己が力量でなく、天運を当てにするとはな」
呟く声が耳に届く。……かつての東であれば、どうあっても自身の力で状況を打開することに固執しただろう。その結果真に望みを失うとしても、それならそれで良かった。戦いとは自らと相手との力のぶつかり合いに相違ないと、そう断じて止まなかったあの頃ならば。
「……十年も刀を握ってねえと、色々と見えてくるもんがある」
告げる。自らの本心が、目の前の友に届くように。
「刀ってのは自分の為だけに振るうもんじゃねえ。あの時からもっと、誰かの為に振るってりゃあ良かったってな」
「……」
冥希は応えない。項垂れたまま血を流すその姿は力の回復を待っているようにも、東の言葉に聞き入っているようにも見える。
「お前はどうだよ冥希」
それを可能な限り気にすることなく、東は友へと問いを投げ掛けた。
「今のお前の剣には、一体何が宿ってんだ?」
「……黄泉示の為か」
静かに零された言葉は此方の動機を見透かしていて。込められた皮肉気な語気を、東は否応なく感じ取る。
「家族ごっこが随分と板に付いてきたらしい」
「……俺が言えた義理じゃないことは分かってる」
痛感を以て言う。……それは、自分が永遠に奪い去ってしまったこと。
「お前がこうなっちまった原因に一枚噛んでることも間違いねえ。その責は、俺が死ぬまで負ってかなきゃならねえことだ」
苦悩を胸に改めて向けた眼差し。……自らの抜かり。あの日以来幾度となく反芻し、悔やみ続けてきた事実を、今一度強く噛み締めて。
「――済まなかった」
東は深く。蔭水冥希に向けて頭を下げた。
「ずっとお前に謝りたかった。紫音が死んだと聞いた、あの日から」
零れるのは偽りのない詫び言。剣客として最大級の隙を晒すにも拘わらず、東はひたすらに頭を下げ続ける。
「赦してくれとは言わねえ。お前の気が収まらねえなら、俺の命で良ければ幾らでもくれてやる」
だから。
「――世界を滅ぼすなんて真似は止めろ」
敢えて顔を上げ。強く力を込めた眼で、東はそのことを告げた。
「……協会の婆さんたちと交渉してきた」
剣を片手に懐を弄り。内ポケットから取り出したのは、一枚の印紙。
「俺たちの『救世の英雄』としての称号を剥奪する代わり、今回の件で組織はお前に手出ししねえことになってる。協会だけじゃなく、残り二つの署名もある」
東だけではない。エアリー、レイルが共に要求を突き付けてくれた結果。……前回の本山襲撃で冥希の手による死者がゼロ人であることも幸いしての結果だが、押されたその印と署名とは紛れもなく本物だ。
「……あいつはデカくなったが、幾分まだ若い」
彼のことを思い出しながら言う。
「今ならまだ間に合う。父親として、黄泉示のとこに戻ってやれ」
――俺のような偽物ではなく、本物の父として。
「……」
周囲では未だ喧騒が続いている。……両者の間だけを、痛いほどの閑寂が包み込んでいた。
東はただ冥希を見遣っている。――思いの丈は伝えた。……自分はただ信じているのだ。蔭水冥希ならば、きっと――。
「……己の命なら幾らでもくれてやる、か」
揺れる冥希の頭部。力のこもらぬような言葉を、零すようにして発し。
「――お前らしいな。東」
「――!」
次に上げられた双眸。両眼に宿る光の冷たさが、東に事の全てを物語っていた。
「小さな輪や情に拘り、大局が見えていない。だからこそ、より大きなものに覆される」
構えることさえままならないような重傷の中で。今にも崩れ落ちそうな状態の中で東を見据えつつ、冥希は微かに笑うように口の端を歪めた。
「――お前を恨んだことは一度もない」
「――っ」
はっきりと言い切った一言。そのたった一言が、東の予測の全てを覆す。
「お前も紫音も難敵を前にして己のやれることを尽くした。……それが全てだった」
何かを思い出すように。最後の言葉は、どこか自らに言い聞かせるように。
「あれらはただの切っ掛けに過ぎない。私が、この道を選び取ることになったわけの」
「っ」
「それに――」
これまで東の覚えている中で、冥希が一番冷たい眼をした。
「お前に言われずとも、黄泉示の事は考えてある」
「――」
告げられたのは最も想像から外れた言葉。
「……どういうことだ?」
「……」
問い掛けに冥希は応えない。変わらぬその無言に、じれったい感覚が募ってくる。
「……ならなんで一度斃したはずの『アポカリプスの眼』なんかに属してやがる? どうして自分の息子を放ってまで、世界を滅ぼそうなんてことを考える?」
「……」
思いのままに投げ掛けた問いの羅列。それに一瞬、冥希は影の射す表情を覗かせて。
「……お前には分からないだろう」
決別とも言えるその言葉を、口にした。
「……何?」
「――『アポカリプスの眼』の名前が出たな。良い頃合いだ」
問い返した東の声を届いていないかの如く聞き流し。息をその都度絶えさせながらも、冥希は半ば強引に話を切り替える。
「お前の言う通り、『アポカリプスの眼』はかつて私たちの手によって一度壊滅した組織」
「無視してんじゃねえぞ、冥希!」
声を荒げるものの、東にも分かる。冥希は既に、自分との対話を見据えてはいない――。
「目的が同じという事情だけならば、わざわざ十年前の遺物を掘り出してくる必要はない。ならばなぜこの時になって新しく、それも同じ六人の人間が『アポカリプスの眼』を名乗ることになったのか……」
「……っ」
東は聞く。ただ対話が為せないからという理由だけではない。冥希の口にするその内容が、彼らが語っていた中身と無視できない類似を見せ始めたからだ。
「……いや、レイル辺りは既に気付いているのではないか?」
思考を読むように付け加えられた一言――。押し黙る東を目にし、力ない笑みを零しながら冥希は言った。
「――『アポカリプスの眼』の構成員は皆、名前を持つ。各々与えられた力に応じた、名前をな」
――〝見よ〟。
言葉の終わり際に冥希が口にする、それは紛れもない詠唱。
「例を挙げれば、私と永仙がかつて戦った《赤き竜》。奴は魔術と武術を高いレベルで扱う混合型の技能者だったが、それは何も奴自身がその力を持っていたからではない」
〝滅びの時は来た。今〟
「この名――《赤き竜》の名前こそが、持ち主に力を与えるのだ」
〝赤き竜が、全てを――〟
「させるか――ッ‼」
事態の急変に気を飲まれていた東。直前で我に返り『死椿』を構え直す。――どう考えてもあの詠唱の完成を見過ごすという選択はあり得ず阻止するに限る。重傷の身である冥希に対して東自身は未だ『死椿』による強化を受けた状態。この距離なら確実に、自分の方が速い――!
「……呪法・【六界】」
踏み出したその確信の最中で、聞き慣れぬ文言が東の耳に飛び込んだ。
――直後。
「――ガッッ⁉」
肉の内から皮膚を突き破るようにして、東の体躯。その至る箇所から鮮やかな紅が迸る。これまでに体感したことのない激痛。予想外の苦痛に、意識が一瞬飛びそうになる――。
「グ――ッ!」
咄嗟に『梅切』を突き立てることで辛うじてその激痛を中和する。――何だこれは? いつの間にこんな――。
「――【完全治癒】」
「――っ」
――しまった。詠唱に引き摺られるようにして、東が上げた視線の先――。
「……」
元から持ち得ていた強者としての存在感は一段と増し、最早魔人と言える域にまで達している。東の目に映るのは冥希。言葉を信じるならば、《赤き竜》の力を得た冥希の姿。今し方唱えた魔術の影響か、『梅切』にて負わせた幾重もの裂傷。それが瞬く間に消え去っていく――。
「呪法、【六界】――」
やや通るようになった声で、冥希が言葉を発す。
「蔭水の呪護法の中で、この術だけはお前に見せたことがなかったな」
「……」
全霊の警戒と緊張を保った姿勢で冥希と相対する東。……『梅切』の効力により、こちらも負わされた傷は回復している。いわば両者とも負傷の度合いで言えば十全。振出しに戻った形。
にも拘らず事態がこれまでとは比較にならぬほど悪くなっている現状に、東は内心で悪態の吐露を禁じ得なかった。今自らと相対しているのは、これまでに目にしたことすらないほどの力を秘めた難敵。――戦う以前から感じ取れる。変わらぬその外見に隠された、暴威と呼べる力の鼓動を。
「魔力を纏わせた刃で傷を負わせ、混入させたそれを引き金に敵自身の魔力を暴走させる」
先刻死闘を繰り広げた相手と対しているとはとても思えない、獅子が野鼠を前にしたような気負いの無さで、冥希は自分から先ほど東の身に起きた異変の絡繰りを顕にする。
「――その小太刀。傷は癒せても、内部に達した異常までは消し去れないか」
「……」
無駄だと知りながら、東は反応を表に出さないことに努める。――冥希の分析は的中している。『梅切』の能力はあくまで外的な損傷に限られたもの。病魔や呪い、それに類するような状態変化については解除できない。
「魔力の少ないお前に対して効果が薄いと言え、動きを止められるだけで充分だった」
冥希の刀が自身へと向けられる。……東は動けない。結末を知り、現にその光景を目にしている最中であっても、なお。
――眼前に聳え立つ魔術の壁。冥希へ続く空間を分け断つのは、激しく滞留する炎熱、雷撃、突風――。三種の障害を纏うそれに、東は近付くことすらできないでいる。――魔力を喰らう刃、『紅桔梗』の力を以てしても突破は難しいだろう。これだけの魔術を、付け入る機先すら与えずに発動するとは……。
「そして――」
漆黒の刀身が躊躇いなく自らの芯を貫く。……零れ落ちた鮮血と共に溢れ出すのは、これまでにないような濃密な邪気。――暗黒の魔力。霧の如くに流れ出るそれが、急速に冥希の全身を包み覆い込んでいく。
「……これでお前の勝ちの目は、完全に消えた」
――【咎武罪装】。蔭水の血族のみが持つ固有技法。自傷を契機に自らの血肉に宿る暗黒の魔力を解放し、身と刀に高密度で纏わせることで大幅な能力の強化を図る。黄泉示が扱う【魔力解放】などはこの技法の予備段階、修練用の児戯でしかない。
そして単純な能力値の強化だけでなく、個人ごとに異なった特異な能力を付与する点にもこの技法の特徴がある。その内容は文字通りの千差万別。各人の傾向性を反映すると思われるそれにより冥希に与えられる能力を、東はこれ以上ないほどによく理解していた。……【感情抑制】、並びに【超速思考】。
思考の妨げとなる感情の起こりを抑えると共に、基本となる思考速度そのものを大幅に上昇させる能力。――彼は過つことがなくなる。その徹底して正確無比な、しかし機械以上に冷徹に映るその戦い振り。迷いも躊躇もなく下される正しき判定は、かつて彼の味方であった者たちをして《無慈悲の救済》の異名を付けさせたほど。……東たちと出会い、後年に見られる戦い振りとは違う。周囲から疎んじられ、だが圧倒的に強かったと言われるその時代。
そこに今、冥希自身と永仙が両掛かりで死闘を演じたという《赤き竜》の力が加わっている――。
「お前たちとの戦いの記憶も、私にとって全て過去の残滓に過ぎない」
望み無し。その色しか見出だせない東に対し、冥希が告げた。
「無為な希望を残さぬよう……お前たちには、ここで消えてもらおう」
「――っだからその態度が、訳分かんねえつってんだろうが‼」
滾る思いで自らの士気を研ぎ澄まし。
『救世の英雄』。……夜月東は、《赤き竜》と化した友へと駆け走る――。




