第十三節 今日は買い物へ
「――」
「……黄泉示さん」
浅い微睡の中、優しく掛けられる声に、名前を呼ばれる。
「……起きて下さい、黄泉示さん」
肩に小さな手触り。僅かに身体を揺すられたような気がした――その感触で、目を覚ます。
「お、おはようございます。黄泉示さん」
「……」
ベッドの傍らに立っている人影。……フィア。その事を見止めて、ああ、などと喉奥から声を絞り出す。……朝か。だが……。
「どうして、部屋に……?」
真っ先にその疑問が頭に浮かぶ。思い返してみれば、鍵を掛けることはしていなかったが。俺の問いにフィアは、ええと、と一つ間を置いて。
「お買い物に行くんでしたよね? 今日は……」
……そうだ。
日用品などを揃えるため、デパートに行こうと俺の方から提案したのだ。買い揃えなければならない物もある。どうせ行くつもりだったのだから、大した手間でもないと……。
「その、待っていたんですけど、結構遅い時間だったので、そろそろ起こした方が良いかと思って。勝手に部屋に入ったのは、申し訳ないんですが……」
「……時間?」
気になった言葉に記憶を探る。目覚ましを掛けておいたはずだ。それが鳴ってないなら、まだ……。
「……」
枕元から手に取った時計は、六時半ごろを指したまま止まっている。……電池切れ? 眠たい眼を擦りながら、訊いた。
「今、何時だ?」
「えっと、さっき見たときは、十時過ぎでした」
それは確かに遅い。出るのは半の予定だから、ギリギリと言えばギリギリだ。
「……済まない。起こしてくれて助かった」
「は、はい。良かったです」
ホッとしたような声音でフィアは言う。勝手に入られたのはあれだが、これは俺の側の落ち度。私物の大半は日本に置いてきたから見られて困るような物もないし、別に問題はない。着替えるからと言って……。
「……あ」
ベッドから起き上がろうとしたところで。扉の方に振り返っていた、フィアから発された呟き。
「倒れてますよ、これ――」
言いながらフィアが拾い上げようとしたもの。手を伸ばされる先にあるそれは、細長い布包み――。
――それを目にした直後、考えるより先に身体の方が動いていた。
布団を跳ね上げてベッドから跳び起きる。短く見積もっても三メートルはあっただろう距離。それを一呼吸の間に縮め、一息に包みを自身の間合いに収める。
「っ⁉」
突然の俺の動きに反応出来ず、何が起きたのかも分かっていない様子のフィア。動きの止まっているその手を掴んで押さえつけると、眼前から素早く布袋を奪い取った。
――よし。
「痛っ……!」
手の中にある袋を見て安堵した気持ち。目の前から上がった短い悲鳴が、俺を現実に引き戻す。――しまった。
「っ……わ、悪い!」
フィア。そのことを理解した瞬間、正しく頭から冷水を被せられたという表現がぴったりなほど急速に意識が覚め、合わせて俺の脳裏を支配していた熱が引く。掴んでいた腕から半ば反射的に手を放し、続いて自分がフィアに近付き過ぎていたことを今更ながらに自覚。後ずさるようにしてフィアとの距離を適正な位置まで広げる。
……だが。
「……っ……」
時既に遅し。掴まれた箇所を痛めたのか、フィアはもう一方の手で自分の手をゆっくりとさすっている。……完全にやらかした。窺い知れる少し怯えたような様子に、何と言った物かと逡巡しながらも口を開き。
「……拾わなくて良かったんだ。あれは……」
言い訳染みた台詞が中途で止まる。……その先は言葉にできない。こんな体たらくでどうしろというのだと、俺が半端に唇を離し閉じした。
「――ごめんなさい」
瞬間、予想外のフィアの声が耳に飛び込んでくる。
「……え?」
「勝手に拾おうとしてしまって……黄泉示さんの部屋なのに、済みませんでした」
そう言って頭を下げるフィアの眼には、こちらの気持ちを察すると同時に、明らかにそれを自分のせいだと思い込んでいるような揺らぎがあって――。
「……いや、こっちこそ、いきなり手荒な真似を……」
「……」
「……」
互いに謝罪し合ったあとの沈黙。気まずい空気が俺とフィアの間に流れる。……くそ。
「……リビングの方で待ってますね」
なんなんだこれは。その空気に耐え切れなかったのか、そう言ってフィアが部屋をあとにする。
「……」
残された俺は、数秒の間、フィアが出て行った扉を見つめていた。
――着替え終え。
「……」
「……」
昨日適当に買っておいたパンなどで朝食にする。俺の前のコップに入っているのは牛乳。子どもの頃からの習慣で、朝には一杯の牛乳を飲むのがいつものルーティーンだった。
「……」
……気まずい。
飲み慣れているはずの牛乳も、どこか味気ないような気がする。いつも飲んでいた物とは銘柄が違うから、味が違うのは当然と言えば当然なのだが。
「……」
黙々と食事を進めているフィアの方も、心なしか普段より気落ちしているようだった。……今日はこれから二人で連れ立って買い物をしていかなければならない日だ。
苦労することが目に見えているからこそ、少しでもマシな状態で回りたい。こんなぎこちない空気ではなく……。
――このままにしておくわけにも、いかないだろう。
「……ちょっと待っててくれ」
そう思い席を立つ。フィアを残して向かったのは、先に出て来たばかりの自室。
「……」
壁に立てかけられたままの包みに目をやる。一瞬逡巡したものの、次の瞬間には決めて包みを手に取ると、足早に台所へと引き返した。
「……!」
戻ってきた俺の手に握られている、黒い包み。それを目にしたフィアの表情が再び緊張したものへと変わる。やはり、このままにしておくわけには。
「これは……」
口にした言葉の行き先が一瞬だけ鈍りを見せる。昨日会ったばかりの相手に、こんなことを聞かせるのもどうなのかとは思いながらも。
「形見なんだ。……父の」
それ以外に手は思い付かない。俺の言葉を聞いたフィアの表情が、硬く強張ったものから驚きを含んだものへと変化する。……僅かに大きくなった瞳。
「……お父さんの、ですか?」
「ああ。だからつい取り乱してしまって……済まなかった」
――嘘は言っていない。
この包みは死んだ俺の父……蔭水冥希が遺してくれた、たった一つの遺品。父の持ち物という意味では他にもあったはずだが、最終的に俺の手元に残ったものはこれ一つだ。
だからこそ他人には軽々しく触れさせたくない。そう感じているのも少なからず確かな事実だし、手荒な真似をしてしまったことに対して罪悪感があるのは無論本当のこと。……明かしては不味い部分だけを隠し、できる限りの真実を伝えるのが精一杯。
「……いえ、ありがとうございます。教えて下さったお蔭ですっきりしました」
やはり先ほどの俺の態度に、どこかモヤモヤしたものを感じていたのだろう。
どこかさっぱりしたような表情のあと、その視線が済まなさ気なものへと変わる。
「大切な物だったんですね。……私こそ、勝手に触ろうとして済みませんでした」
そう言ってフィアが俺以上に深く頭を下げる。――互いに謝罪し合う、どこかで見たような光景。
だがその中身には雲泥の差があると、今は感じる。
「食べ終わって、少ししたら出よう」
「――はい」
立ち込めていた不穏な空気をどうにか拭い去り、俺とフィアは朝食の続きへと取り掛かった――。
――それから。
「……」
準備のできた俺とフィアは、部屋を出て近くのショッピングモールへと向かっていた。バスや電車を使ってもいいが、こっちにはまだ来たばかりだし、学園が始まる前だから時間的な余裕もある。荷物のある帰りに乗ることにして街並みを眺めながら歩こうと、そう思って出てきたのだが……。
「……」
「……っ」
先ほどから。……後ろを歩いているフィアが、一語も言葉を発していない。話がしたいわけでもないのでそれ自体は別に構わない。――とはいえ。
「……大丈夫か?」
「……っは、はい。大丈夫です……」
聞こえてくる足取りが幾分重くなっているようなのは気になる。……返ってきた声は中身こそ強がっているものの、いつもより明らかに力が込められていない。
「疲れたなら、どこかで休んでも……」
「……いえ」
良いと言う、俺の声掛けを遮るフィア。
「大丈夫です。……行きましょう」
「……そうか」
――ペースは気を付けているつもりではある。
こう言うと悪いかもしれないが、筋肉の見えない手足からしてもフィアは特別運動が得意なようには見えない。表面的に見る限りでは至って普通の女性……。
少なくとも俺より確実に体力はないだろう。それを踏まえていつもより歩く速度を意識的に落としている。体感で大体三分の二くらいのスピードに。
「……っ」
それでもフィアにとってこの行程はきついようだった。……予定ではあと三十分くらいは歩く計算になる。途中で倒れられたり、歩けなくなられたりしても困る。無理そうならと無理だと素直に言って欲しいところなのだが。
「……」
フィアとしてはどうやら、自分が休むことで予定が遅れるのを申し訳ないと思っているらしい。……そのために無理をして歩き続けている様子がある。空気が冷たいせいで汗こそかいていないが、呼吸は荒くなるばかりだ。密かにペースを更に落として、強引にでも休ませるべきかと周囲を見渡した――。
「……」
視界に映るのは多様な外観と大きさをした住宅たち。……既に住宅街に入ってしまっているのか、休めそうな店が見当たらない。偶に見えるのもクリーニング屋や床屋、商店ばかり。歩くしかないか……。
「モールに着いたら休もう」
「は、はい……!」
気丈に足を止めようとしないフィアに対して俺ができたのは、そうと分からないようペースを調整し続けることだけだった。
「――生き返りました……」
心からの安堵。そんな表現がぴったりといった感じでフィアが声を発する。この辺りでは最大級のショッピングモール。その一階にある喫茶店で、俺とフィアは休息を兼ねた早目の昼飯を取っているところだった。
「……」
フィアのその様子を幾らか安堵した心境で眺める。……モールに辿り着いたときのフィアは正に、疲労困憊といった様子。買い物以前に全ての体力を使い果たしたような全身呼吸を目にして、有無を言わせず即刻この店に入り込んだ。昼前ということもあって人が少なかったのは僥倖。
フィアの様子を見た店員に瞬時にソファー席へと案内され、この期に及んでの遠慮を見越して〝なんでも好きなものを頼んで良い〟と力強く宣言し――。
「……」
……そうして今の状況に至るというわけだ。空になったクラブサンドの皿を余所に何杯目かの紅茶を啜る俺に対し、フィアの前に置かれているのはケーキとパフェ。目を輝かせるようにしてスプーンで食べている……それは良いのだが。
「……それだけでいいのか?」
気になっていたことを尋ねる。店に入ってからフィアが頼んだのはその二つだけ。パフェもケーキもそこそこの大きさではあるものの、あれだけ疲れ切っていた上の昼飯としてはとてもではないが足りない気がする。……今回は状況が状況。
移動に歩きを選んでしまった引け目もあって昨日の倍くらいは頼まれてもいいという気構えでいた手前、完全に肩透かしを食らっている状態だった。
「はい。このパフェ、凄く美味しいです」
そういうことではないのだが……。
「……」
――まあ、いいか。
目の前の彼女を見て思う。ケーキとパフェとを交互に食べている様は、傍目から見ていても幸せそうだ。これまでに見た中では一番リラックスした表情かもしれない。大した付き合いの長さでもないが、それでも……。
「あの……」
ややおずおずと。窺うようにフィアが声を掛けてくる。……なんだ?
「黄泉示さんも食べますか? 美味しいので……」
「……いや」
差し出されたケーキの皿に否定しつつも戸惑う。そんなにじろじろと見ていたつもりはないのだが……。
「でもその、お金は黄泉示さんに出してもらっているわけですし、私だけ食べているのも申し訳ないので……」
……なんでそうなる?
それはそうかもしれないが、元々はここまで歩かせてしまった埋め合わせとしてフィアに頼んでもらったものだ。それを俺が食べるのはおかしいと、そんな風に長々と言ってみたところでどうなるものでもないと感じ。
「……甘い物は苦手なんだ」
「そ、そうですか。済みません」
幾分ぶっきらぼうな口調になった俺の言葉に、フィアはバツが悪そうに皿を戻すとパフェとケーキを食べる所作へと戻る。これまでよりどこか静かに、敢えて急いでいるような食べっぷりに。
……そうか。
ふと気付く。俺が早目に食べ終わってお茶しか飲んでいなかったので、フィアとしてはどことなく気まずいような思いをしていたわけか。……一人のときとは違うのだと、改めてそのことを感じさせられ。
「……急がなくて良い」
――面倒だと。そう思いながらも掛けた言葉に、フィアが取り組んでいたパフェから顔を上げる。
「時間はたっぷりある。ゆっくり食べててくれ」
「は、はい」
硬い声で返しながらも、フィアがスプーンとフォークを操るペースが少し落ち着いたものになる。同時に表情もどこか先ほどに近付いたような気がして、僅かに息を吐くように安堵する心持ちになり……。
「……付いてるぞ」
「あ……」
どうしてもスルーできなかった俺の指摘に対し、フィアは赤らめた頬に付いているクリームを拭った。




