序章
〝如何な力を持っていようと、幸せになるためにはそれ以外のものが必要だ〟
窓の外、過ぎていく雲、暮れていく日を眺めながら、ふとそんなことを思う。
狭い機内の中。生まれて初めて乗った飛行機だったが、思っていたほどの感動は無く、寧ろ時間が経つにつれて座席の狭さが気になり始めていた。
――こんなところで、あと何時間も座っていなければいけないのか。
そんなことを思ってみたところで何も変わりはしない。一つ溜め息をついて、配られた毛布をかぶって潔く寝てしまうことにした。
……広い、日本風の家屋。
瓦葺の屋根、松が茂る庭。庭に面しているのは畳敷きの大部屋だ。どれもこれも、懐かしい感覚を覚えるものばかり。
子供の頃の夢を見ている、と直感する。小さいころに父と母と、三人で過ごした思い出の屋敷。
……そんな居心地の良さに考えることを忘れて、つい気を緩めてしまったのが失敗だった。
部屋の障子が開け広げられている。縁側に誰か座っているのが分かるが、日の光が差し込む逆光でそれが誰だかよく見えない。誰が座っているのか、確かめようとして一歩近付く……。
ヌルリ
不意に足に感じたのは、畳とは明らかに異なる感触。生温かく、僅かに滑りを持った液体。その奇妙な感触に促されるようにしてつい下を見てしまう。
――赤。
緋。
紅。
朱。
赩、あか、アカ、あカ―――!!!
目の前の光景の余りの悍ましさに、思わず倒れるようにして尻餅をつく。
周囲の畳一面を覆い尽くし、縁側さえ赤く染め挙げているのは……目の前の人影から流れ出す、おびただしい量の血液。
目をこらせば、人影の首に突き刺さっているのは紛れもない真剣。その切っ先から赤い雫が、ゆっくりと滴り落ちている。一刻も早く逃げ出したいはずなのに。
体が言うことをきかない。それどころか、震えて動かないはずの手足は這うようにして人影の方へと進んでいく。
ズチッ……ズチャッ……
鉄の匂いのする血だまりの中を這い進み、ようやく目的の人物のところに辿り着く 血で赤黒く汚れた手を差し伸べ、崩れるようにして座っているその人の首に、すがるようにしてその顔を覗き込んだ。
「……っ‼」
突如として目が覚める。静かに体を起こして辺りを見回すと、眠っている間に就寝時間になっていたのか、機内の照明は殆んど落とされており、周りの乗客も大半が眠っているようだった。
……。
自身の手のひらを見る。赤黒い血に濡れる肌はそこには無く、ただ少し汗ばんだ手があるだけだった。……もう一度周囲を見て、自分が飛行機の中にいることを再確認してから漸く一息つく。
――また、あの夢か。
あの日以来、何度も見続けてきた悪夢。次にこうなると分かっていても、決して慣れるものではない。それどころか。
夢を見る度に記憶はより鮮明なものへと移し替えられ、この十年間、俺の中で決して色褪せることはなかった。
このまま死ぬまで、忘れたくても忘れられない……。
暗雲のように頭に浮かんだそんな考えを振り払う。
――これから慣れない土地に一人で住むというので、少しナーバスになっているのかもしれない。
無理にでもそう思うことにし、気持ちを切り替えるためにいったん今の自分の状況について整理してみる。……ここはXXXに向かう飛行機の中。
到着時刻は明日の夕方。俺は日本を出て、これからXXXに一人で暮らすことになる。面倒な手続きはおじさんの方で大体済ませてくれたし、住む場所も、通う学園も決まっている。
大きな荷物はすでに送ってあるし、授業が始まるまでにはまだ余裕がある。その間に荷物の整理や、足りないものがあれば買ってくることもできる。生活費に関しても少なくとも学園生活を送る間くらいは問題ないだけの額があった。……何かあればおじさんも援助してくれるとは言っていたが。
流石にそこまでお世話になるのは自分としても気が退ける。無茶な使い方をしなければ大丈夫なはずだし、万一があったとしても今のうちからバイトなんかをしていけば充分賄えるだろう。……たぶん。
「――ふぅ」
……こんなところか。
ただ頭の中で今自分が置かれている状況を反芻してみただけなのだが、それでも一気に情報を整理するとなんだか妙に疲れたような気がしてつい溜め息をついてしまう。
自分で望んでいたこととはいえ、これからのことを考えると緊張して少し気が重くなる。……果たして自分はうまくやっていけるのか、失敗するんじゃないか……そんな弱気な考えさえ頭をよぎってくる始末。始める前から心配してみたところで、どうにもならないというのに。
「……」
――だがひとまず、悪夢にうなされて眠れないような不安からは解放された。
そう思って再び毛布をかぶり、目を閉じる。睡眠が足りなければ明日に差し支える。慣れない土地に着いて早々に気分が悪いというのでは縁起でもないし、明日に備えて早めに寝ておくに越したことは無いだろう。
――そう、何もかも、これからだ。
――叫びと悲鳴。
男は目の前で繰り広げられている光景を、未だ信じられずにいる。
――一体どこで擦れ違ったのか。
――一体どこで間違えたのか。
胸の内で疑問を投げかけてみても、返ってくる答えは無い。
「――秋光っ!」
老女の声が飛ぶ。その声に自らの身に危険が迫っていることに気が付き、男は反射的に秘術を発動させる。
「式神――【黒四天】‼」
――指先から放たれた符。
宙に投げ出された四枚。その各々を核として、空気を震わせる強大な力が現世へと現出していく。
「オオオオオオオオオーーンッッ……」
その異形の存在が声を放つと同時に、男に差し迫っていたあらゆる災厄が勢いを失い、地に墜ちていく。
「……ッ」
放たれた攻撃を見て、男は最早確信するしかなかった。
――かつての友が放ったそれには今、幾許の加減も手心もなされていないということが――。
「……このままでは、逃がすことになるぞ」
厳格な老人の声。その瞬間、決意が固まる。
「……青竜‼」
呼び掛けに応え、男を乗せ舞い上がる蒼き竜。男は必至で友に追い縋る。
「秋光様⁉」
「止めな、秋光ッ‼」
部下の声も、仲間の声も後方に捨てて――。
「……」
男は今、協会を脱出しようとする友の前に立った。その鋭い眼光が。
「……」
幾度となく自分と共に立ち、共に戦ってきたはずのその目が。今は、男に向けられている。
「……なぜだ、永仙」
悲痛さの滲む声で、男は問い質す。
「なぜ私たちを、協会を……」
その先は、声にならなかった。
「……お前たちのやり方で、世界は救えん」
答える友の声は冷ややかで、最早そこには一片の情も含まれてはいないよう。
「私は……私の道を行く」
その言葉と共に、秋光の視界が強大な魔力の奔流で埋め尽くされる。
「――ッ!」
不意を突く一撃に、男が思わず腕で顔を覆った瞬間――。
「馬鹿ちんがッッ‼」
どこからともなく現われた老女。罵声が響くと共に、男の目の前の景色が入れ替わる。
「――ッ」
何が起きたのかに気が付いた、男が後ろを振り仰いだときには――。
――そこに友の痕跡は既に、一欠片も残されていなかった。
――魔術協会の長、九鬼永仙の突然の離反――。
のちの聖戦の義からの奪取も含め、このあと長らく特殊技能社会を騒がせることになった事件だった。




