第十二節 明日の予定
「……ふぅ」
シャワーを浴び終え、湯船に浸かった状態で体を伸ばす。……疲れた。
さっきの買い物といい、今日は色々なことが有り過ぎたからだろう。結局あのフィアの妙な態度のわけは最後まで分からないままだったが。
……それにしても。
一人になって、脳裏に浮かんでくる記憶。……服を買いに行く前。フィアが風呂に入っているときに、電話で小父さんと交わした会話。
〝黄泉示、どうだ? 無事着いたか?〟
――それが小父さんの第一声だった。聞くところによると、どうやら俺から到着の連絡がない事で不安になったらしく、確認の為に電話を掛けてきたらしい。……フィアのことで色々と手一杯だったので、連絡するのをすっかり忘れていたことを思い出す。慌てて到着できたことは伝えたものの、そこで迷ったのがフィアのことだ。
普通でないものに巻き込まれたなら、警察は当てにならない。しかし、かといってこのまま何もせず手を拱いていればフィアの抱えた問題は一向に解決しないことになる。そのためにも、手掛かりを得る努力が必要なことは確か。
――そしてかつて父の仲間だったという小父さんは、そうしたことに関しては俺より遥かに詳しい。昔のツテとやらでそれなりに人脈もあるようだし、力を借りられれば何か手掛かりが得られるかもしれない――。
そう思った俺は小父さんにフィアのことを伝えることにした。本来なら本人の承諾を得て然るべきだろうが、記憶喪失であるフィアには自分が普通でないものに巻き込まれたという自覚はない。……その辺りを説明しようとしても余計に混乱させてしまうだけだろう。
流石のフィアでもそんな超常的な話まですんなりと受け入れてくれるとは思えないし、妙な妄想をする変人だと思われても困る。悪いが事後承諾という形を取ることにしたのだ。
〝……それはまた、難儀な話だな〟
話を聞いた小父さんの一言。記憶を失う前のフィア本人からしてみれば、いい迷惑以外の何物でもないだろう。
〝よし分かった。そのお嬢ちゃんの為に、一肌脱ぐとするか〟
小父さんは快くそう言ってくれた。ひとまずは昔のツテにあたってそれらしい話が入っていないかどうかを調べてくれるらしい。……本当に小父さんには頭が上がらない。幼い頃身寄りをなくした俺を引き取って育ててくれ、今回も手を貸してくれるというのだから。篤く礼を述べて、俺は小父さんとの通話を終了した――。
〝優しくしてやれよ? 運命的な出会いからコロッと……なんてこともあるかもしれないぜ?〟
〝……おじさん〟
たまに場違いな冗談を飛ばしてくるのが玉に瑕だが。……なんにせよ今から数十分ほど前の話。思えば丁度フィアが風呂に入っているときに掛かってきたのだからそういった話ができたとも言え、その点では実にタイミングが良かった。
「……さて」
そろそろ上がるか。ティーパックのこともあるし、余りフィアを長い間一人で置いておくのも良くないような気がする。一応テレビは自由に見て良いと言ってあるから、それに集中していてくれればいいが……。
「……」
……そういえば、無闇に気を遣わなくていいということもまだ伝えていない。小父さんの件と一緒にそのことも話しておくか。
そう思いつつ。最後にシャワーを軽く浴びてから、浴室のドアを開けて脱衣所に移る。替えの下着を手に取り――。
「――」
……あ。
そのタイミングで、なぜフィアがあんな妙な態度を取っていたのかに気づく。……それは確かにあんな反応にならざるを得ない。というか、フィアが自分で問題を解決していなければ、結果的にフィアを待たせることになってしまっていたわけか。
「……はあ」
息を吐く。久しく碌な人付き合いをしてこなかったせいか、こういうところは我ながら本当に疎いと言うか、間が抜けているな……。――フィアという同居人を得た以上、その辺りの察しも最低限は良くならなければならないだろう。
自分を叱咤するように心内で呟いて。手短に着替えを済ませた俺は、速やかに脱衣所から外へと出て行った――。
――お風呂に入っている黄泉示さんを待っている間。
〝テレビは好きに見ていてくれて良い〟
黄泉示さんにはそう言われたのだが、順番に見て行っても特に興味を惹かれるような番組はなく、一通りチャンネルを回したところで電源を切ってしまう。
「……」
先ほどの黄泉示さんとのやり取りを思い出す。……勘違いしてしまったことを思い出すとまだ頬の火照る気分がする。思えば時間が掛かったのも、慣れない買い物をするので苦労していたからだろう。それに……。
……案外、うっかりしたところもあるのかもしれませんね。
服と聞いて本当に服だけを買って来てしまうとは、少し驚いた。もし洗濯の時間を上手く調整できなければ、結局は洗濯が終わるまで待つ羽目になっていたかもしれない。
だけど……。
服を買いに行ってくれたという、黄泉示さんのその善意は素直に嬉しかった。いたはずの両親の顔も、友人の顔も思い出せない。
そんな空虚さを抱えた中で誰かが私のことを思って行動してくれるということが。その欠落を紛らわせてくれるような気がして、嬉しかったのかもしれない。どこまでも自分本位だが。
「そういえば……」
黄泉示さんが買って来てくれた、その肝心の服をまだ着ていない。見た目にはとてもシンプルだったが、それが却って黄泉示さんの気遣いを表しているように私には感じられた。……流石にもう、外に出ることもないだろうし……。
「……」
そう思う。決心すると、私は自分の着ている洋服に手を掛けた。
「……」
――風呂を上がり、リビングに戻ってきた俺。
付いているかと思ったテレビは暗い画面を晒したままであり、フィアは何をするでもなくソファーに座っている。その後ろ姿に、どことなく違和感を覚えたとき――。
「あ、……黄泉示さん」
俺が戻って来たのに気付いたのか、身体ごとこちらに向けてフィアが振り返る。その姿を見て、気が付いた。
服装が変わっている。さっきまで身に付けていた衣服と思しきものは丁寧に畳まれて脇に置かれており、代わりに今は俺が買ってきた服……シンプルなガーゼの寝間着に身を包んでいる。人間服が変わると、大分印象も変わるな。
もう特にやることもないし、部屋を選んでもらったあとは明日に備えて寝るだけだ。早めに着替えただけだろうが……。
……意外と似合っているな。
そんな感想を心の中で抱く。意外と言うのは、別にフィアにその服が似合わないと思っていたからではない。何分急場であるし、寝間着だから最悪着ることができればいい……半分はそれくらいの心情で、無難さを念頭に置いて選んだものだったからだ。買ったときには特にそれ以上思っていなかったのだが……。
「どう……でしょうか」
やや不安気にこちらを見てくるフィア。どうというレベルではなく、予想以上に似合っている。服が当人を引き立てるのではなく、フィアの方が服を引き立てている感じだ。あの平凡なデザインの寝間着が、ここまでの印象になるものなのか。
「……着心地は大丈夫か?」
思わぬ現象に驚きながらも、肝心なことを尋ねる。やはり寝間着なのだから、重要なのは使い勝手、着心地だろう。
「はい。この服、柔らかくて着心地もとっても良いです」
嬉しそうにフィアが言う。その声からこちらに気を遣っているような素振りは見られず、本心からそう言っているのだということが伝わってくる。……裏表のない、真っ直ぐな感情の表し方。
「ありがとうございます。……黄泉示さん」
言いつつフィアが笑顔を見せる。その花のような美しさと純粋さは、やはり俺には少し眩しく……。
「……ああ」
――直視し続けるには、輝きが強すぎた。目を逸らしつつ。
「……明日、身の周りの物を買いに行こう」
誤魔化すように口にした言葉。……どちらにせよこれは、必要なことだ。
「どうせ足りないものがあれば買いに行こうと思ってたし、服もある程度枚数がないと流石に不便じゃないか?」
元々一人暮らしを想定して荷物を持ってきていたので、住む人数が一人増えるとなるとそれだけで色々と足りないものがある。中でも当然女性物の服や……下着などは今ある分しかないので不足しているどころの話ではなく、必要な分はなるべく早くに買って来なければならない。
俺の方でも幾つか揃えたいものがあるので、それも兼ねて明日纏めて買いに行ってしまおうというわけだ。
「そう、ですね。……分かりました」
提案に対し帰ってきた返答は素直なもの。これくらいでいてくれるとありがたいと思いつつ、言葉の先を紡ぐ。
「時間は……十時半くらいに出ようと思うんだが、それで構わないか?」
俺もそうだがフィアも慣れない環境で疲れているだろうし、余り早くに出る必要もない。買うものは色々とあるだろうが、明日はどうせそれ以外に済ませておくような用事もないので時間だけはある。余裕を持って、これくらいの時間でいいだろう。
「はい。大丈夫です」
フィアも異論はないようだ。まあ、記憶喪失だと自分が朝弱いか、そうでないかなんて分からないだろうし。……寝過ごすようなことがないといいが。
「ああ。それじゃあ……」
言い掛けて、まだ言うべきことが残っていたのに気付く。
「……どうかしましたか?」
言葉を途中で止めたまま何を言い出すでもない俺を不思議に思ったのか、フィアがやや疑問形でそう声を掛けてくる。
「いや、実はさっき、俺の小父さんから電話があって……」
何かフィア自身のことを知る助けになるかもしれないので、記憶喪失の件を伝えておいた。丁度フィアが風呂に入っているときだったもので、事後承諾の形になって済まない――。
そんな内容をざっと取りまとめて話しておく。普通じゃないものとの関わりは含めずに。
「──そんなわけだ。何か分かったことがあれば伝える」
「分かりました。……すみません。ありがとうございます」
本当のところは話せない。素直に感謝しているようなフィアに、胸の奥がチクリと痛み。
「あ、あと……」
「? はい」
「……勘違いだったら済まないが、余り気を遣わなくても良い。もっと自然にしていてくれ」
助けることになったのは事実とはいえ、それでいつまでも畏まられていてはこちらとしても煩わしい。これで急に態度が豹変するなどということがあれば大問題だが。
フィアの場合そこまでの変化はないと見込んでいる。既に口にしてしまった以上は、そう思いたかったというのもあるが。
「……分かりました」
少しの沈黙のあとで。顔を上げたフィアは、そう言ってくれた。
「……じゃあ、おやすみ」
「はい。――おやすみなさい」
挨拶を交わし、それぞれ自分の部屋に入る。
――扉を閉める直前、同じように扉を閉めようとしているフィアが、こちらに向けて軽く頭を下げるのが目に入った。
――夢。
その光景を見ると共に、間髪入れずそのことを意識する。
――膝を付いて座り込む私を、取り囲むように立っている沢山の人たち。その目はどれも視線の先の何かに向けて、敵意と畏怖を込めた眼差しを発しているように見える。
――何を、見ているのだろう。
「……っ」
それまで見上げるように周囲の人間に向けられていた視線が、落ちる。すぐに視界に入ってきたのは傷付き血が滲む自分の体と、ボロボロになった衣服。それに――。
――折り重なるようにして倒れている、血溜まりの中の人々。
……地面を濡らす血の量。身体から削られた肉の大きさからも、それらの人たちが最早命を保てていないことは明白だった。
――これは――なに?
どうして――こんなに人が――
理解が追い付かない。倒れている人に手を差し伸べようとするが、今の私にはそんな力さえ残されていないのか、心とは反対に身体は全く動いてはくれない。
私が混乱している中で、周囲に立つ人の中から一人の人物が歩み出てくるのが視界の端に映る。
――誰?
顔を見ようとするが、項垂れた私の頭は見えない鎖で縛り付けられたかのように重く、足音を聞くだけで微動だにしない。
次第に近付いてくるその人物を気に留めたまま、私の意識は急速にそこから離れて行った……。
「――っっ‼」
ベッドから跳ね起きる。光を求めて周囲を見回すが、上体を起こして目を開ける段階まで来たのに、視界には闇だけしか映ることがない。
どうして――?
そんな風にして混乱していたが、少ししてから気付く。……そう言えば、この部屋には窓がなかった。灯りを消した今、光が入ってこないのは当然のことだ。
「……はぁ……」
そう思うと何だか独り芝居をしていたような気がして、疲れたように息を吐く。……寝ている間に大分汗をかいていたのだろう。肌に感じる軽かったはずのパジャマの感触。それがまるで別の生地に変わったかのように重く、そして冷たい。
「……」
深呼吸をして心と身体を落ち着かせる。――おかしな夢だった。
夢にしてはやけに現実味があったような気がして、だけど一方にはやっぱり夢であるかのような手応えのなさがある。……どうしてあんな夢を見たのだろう?
記憶喪失の上、他人の家という慣れない環境であることが大きいのだろうか。
いや、記憶喪失である以上、別にここが記憶にない自分の家だったとしても、何も変わらなかったのかもしれない――。
「……寝ましょう」
暗鬱になりそうな思考を打ち切り、自分に聞かせるようにそう呟く。……明日は買い物をする日だ。
店を見て回ったり荷物を抱えて帰ってきたりすることを考えれば、今日とは比べ物にならないくらい動くことになるのだろう。今の内に休んでおかなくてはいけない。
そう思って布団をかぶる……。――だけど、悪夢を見て一度ざわついた心はそう簡単に眠りに落ちることを許してくれない。眠ろうとすればするほどまた夢を見るのではないかという不安が募り、意識は冴えてきてしまう。
「……ふぅ」
――夢の内容は気になっている。でも、それ以上に私が気になっているのは、黄泉示さんが叔父さんに頼んだという私自身の調査。手放しで喜んではいけないことだと思うけれど……。
それ自体は凄く幸運なことだと思う。倒れている私を偶然見つけてくれた人が、記憶喪失の件について調べられる人とも繋がりを持っている。……感謝してもしきれない。
これで、なにか手掛かりが掴めるといいけれど。
元の居場所。私の元の記憶さえ取り戻せたなら、行きずりの人に負担をかけることもなくなる。掛けてしまった迷惑の分を返すこともできるはずだ。それまでは……。
「……」
そんなことを考えている内に元から冴えがちだった意識はすっかり覚醒してしまっていた。……この様子だと、今日はもう眠れそうにない。
――今、何時でしょうか……?
布団を押し退けてベッドから出る。この部屋には窓も時計もないので、リビングまで行ってみないと今が何時ごろなのかはわからない。
向かいの部屋で寝ている黄泉示さんを起こさないように、そっとドアを開けて、できるだけ静かに廊下を歩いて行く。
もし丁度良い時間だったら、なにかできることがあればやっておきましょうか……。
そんなことを考えながら、私はリビングへ続くドアを開けた……。




