第十六.五節 鮮花
「……ははっ」
血染め。動かなくなった老人の遺骸を前にして。
「はは、ははははははははははははっっ‼ は……ッ」
両腕を血に染めた三千風零は笑いを零す。自己の内から溢れ出た笑いは笑声となり、室内を狂気の喜色にて染めていく。
「――いやあ。自分自身の力でないとはいえ、案外気持ちの良いものですね」
勝利とは、と。そう呟く。術者と憑依者共に内側から肉を食まれるような感覚を齎す憑依術。蠢くその苦痛の中にありながらも、零は確かに今、人生最大の歓喜と興奮を覚えていた。
「だから――」
浮かれていたような声のトーンが中途で変わる。重く、一瞬にして水中に沈んだような色。
「水を差さないでくれませんか? 主も救えない異形如きが」
空を切った爪。到達する数瞬前に躱し、中空で身を翻して壁に立つ。
「――おかしいですね」
相対するは、白虎。見れば上空には朱雀も控えている。零を捉える四の瞳が今、猛烈な怒りを湛えている。
「貴方たちは召喚士との契約で此方に来ているんでしょう? 先生が死んだ以上、残れるはずがないんですが――」
雷撃。何十と連なる雷の雨が言葉の終わりを遮り、零の身体をその場に縫い付ける。両腕を傘にして守りを固めた、その所作を待ち兼ねていたかの如き勢いで圧し掛かる黒色の巨体。鎌首を擡げた蛇が、止めとばかり胴体に喰い付いた。
「……ああ」
数百トン近い質量。突き立てられた牙が少しずつ体表に減り込まされるのを感じながら、零は今更気が付いたようにその答えを口にする。
「自分たちの身を削って留まっているんですか。術者がいない状態で召喚を継続するなんて、大変な苦労でしょうに」
術者の死によって自壊するはずの召喚のシステム。黄龍たちは今、自らの魔力体力を回すことによってその崩壊を防いでいるのだ。彼らが秋光の術式に精通し、身体の一部を用いた符を核とし、相互に魔力を送ることのできる【盟約】であればこそできること。
――だが。
「――目障りなんですよ」
零の眼が妖しく輝いた瞬間、その動きを縫い止めていた蛇の頭が真二つに裂き砕かれる。唸りと共に突進する五柱の神獣たち。彼らの身体を支える符が崩れ、強制的な帰還を迎えるまではあと数十秒――‼
「手負いの上他に力を回したそんな状態で、今の僕に勝てるとでも?」
その必死のもがきを嘲笑うかの如く猛速で翻弄しに掛かるのは無傷の零。先に刻んだ傷口を一際深く抉る度、鮮血が散る。盟友の仇を取れない屈辱と悲痛の中で――。
「――」
怨讐の叫びを上げながら消えていく黄龍ら。――その全ての光景を、立ち尽くしたまま目にしている人物がいた。
「……零?」
「――ああ、葵さん」
空間を占めていた巨躯が消え失せ。見通しの良くなった空間で、零された声に零は振り向く。血に濡れた凄惨な面のまま。
「案外早かったですね。鬼門の処理、もう少し手間取るかと思ったんですが」
「……まさか」
「そうですよ? この状況で、他の誰がやったとでも?」
「ッ‼」
激昂。その時には既に魔術が発動している。これまでに無数の鬼たちを切り刻んだ高圧水流。逃げ場のないよう角度を変え、不可視と可視を混ぜて乱れ撃つ。
「――流石ですね」
「――ッ……!」
直後に聞こえてきた声が、続けられようとした葵の動作の一切を止める。……一メートル弱の距離に立っている異形の体躯。
「躊躇なく殺そうとしてきた。一緒に先生の下で働いていたことなどお構いなしに。ただ……」
――零。間近に映る歪な姿から響く声だけが変わらないことに、恐怖より先に走るのは言いようのない忌避感。
「読み違えましたね葵さん。――そんなちゃちな水芸で僕は殺せませんよ」
こうして幾筋かの裂創が見て取れる以上、言われるまでもなかった。威力より範囲を重視したことが裏目に出た形。金剛石をも切り裂く水の刃は外皮を浅く削るに留まり、本命の血肉を前にして敢えなく散った。
「今の僕の肉体は、鬼門を潜り抜けられる鬼の数百倍近い強度がある。先生の喚ぶ四神たちと真っ向から渡り合えるほどに」
「……貴様」
得意げに語る零を睨み付ける。明瞭に感じられるプレッシャー。今葵を捕らえている圧力の中では、そんな所作でさえ労力を要した。
「どうしてそんなに怒るのか理解できませんね。師が弟子に超えられたんですから、寧ろ喜んでくれてもいいと思いますけど。――止めて下さいよ」
その言葉とほぼ同時に翳された手が、眼を狙った水流を弾く。掌の裏から現われる苦笑。奇襲を見切られた葵は最早、構えたまま立ち尽くしていることしかできない。
「貴女如きが、先生を斃した僕をどうにかできるとでも?」
笑顔のまま放たれた蹴りを受け、木の葉の如くに吹き飛ばされる葵の身体。ぶつかる床面から飛沫を撒き散らし、その勢いのまま壁面に激突。
「ゲホッ――‼」
「おや?」
――する手前で踏み止まった葵に対し、零が首を傾げる。全く本気ではなかったとはいえ、生の柔肉。体勢を立て直すどころか内臓破裂で即死していてもおかしくはないのだが。
「ああ。そう言えば葵さん、鉄扇術の名手でもあったんでしたっけ。最近は余り会っていなかったので忘れてました」
ポンと納得したように手を打つ。首を振りながら、止めを刺すように近寄ろうとし――。
「――おっと」
足元に浮かび上がる法陣。煌々と輝く光に照らされた、零の歩みが止まる。
「時間ですか。――残念でしたね、葵さん」
術法を解除し、既に元の青年のものへと戻されている声姿で見遣る。……鉄扇を片手に、口から一筋の血を流している葵を。
「もう少しで先生と同じ場所に行けたのに。まあまた、次があれば――」
言葉の中途で消え失せる零の姿。片膝を突いたまま葵は、暫く空けられた空間のその跡を凝視していた。
「……っ」
様々な衝撃と思考が心身の内を巡っている。――その中で、目を遣ったもの。
「……」
呼吸のたびに走る身体の痛みを堪え、歩み寄る。……水の中に俯せに倒れた身体。流れ出たはずの緋は、水面に溶けて既にその色を淡くしてしまっていた。抱き起そうとして触れた手に。
「……ッ‼」
伝わる感触。……冷たく、弾力のない。肌に伝わるその感触が、何よりも動かし難い事実を突き付けている。
「秋光……様」
その名を呼ぶ。瞼を閉じた老人から、答える声は無い。代わりに葵が目にしたのは、彼の胸を穿つ黒い穴倉。寸分違わず心臓の位置を貫いている、その――。
「――――‼‼」
……響く慟哭は深く。
その屍を抱えたまま、葵は哭いた。




