第十五節 死闘の幕開け
「――ッ」
一瞬の所作と共に。術師と思えぬ速さで永仙の身から擲たれたのは、三枚の符。陰陽道が祭る十二の神将――その一柱である騰蛇の名を記した火行を司る神将符。平然とした表情でその場に佇んでいるヴェイグに対し、飛来した三枚の符から濁流の如き轟炎が上がる。炎の向こうへと埋もれ去ったその姿。
小手調べとして放たれた術ではあったが、それだけで並み以上の技能者を葬り去るに充分な威力を有していた。なんら防御をすることなく、まともにその一撃を喰らった――。
「――素晴らしい術の冴えだね」
内側から。平常に届くヴェイグの声音。
「技法の持つポテンシャルをこれ以上ないほどに引き出している。だが、この程度では……」
次の瞬間、燃え盛る炎の群体がなにかに捻じ伏せられるかの如く、急速にその勢いを失わせられる。――再び姿を現したヴェイグ。
「まるで茶番だ。この程度ではないだろう? 九鬼永仙」
業火に包まれていたはずのその身体は露出した手、首に至るまで僅かの損傷も負っていず、額には汗の一つすら浮かんでいない。永仙の眼からしても自身と劣らぬほどの術の冴え渡り。
――相和するは凶将朱雀。
だがそのときには既に、次への一手は沈黙の内に終えられていたのだ。
――【比和】。
「おおっ――⁉」
破棄された詠唱の完成と同時。鎮められ地面を舐めるように燻っていた残り火が爆発的にその勢いを新たにする。驚愕の叫びごとヴェイグの身を消し去り、天を焦がす激しさで猛り狂う火炎の渦。――二段仕掛けの術法に依る奇襲。
「……後援詠唱により、消えかけた術の威力を倍以上にまで引き上げる――」
それを以てなお舌の根を止めるには至らない。燃え盛る炎の中に陽炎の如く揺らめいては見え隠れする、その姿。
「これもまた素晴らしい。流石、九鬼家の術理を極めたと言われるだけのことはある」
最早炎を消すこともなく、悠然とヴェイグはそう言ってのける。……万象を焼き尽くし灰に変える程の炎も熱も。その身体には届いていない。ヴェイグの周辺に形成された風の膜がそれらを完璧に遮断しているからだ。――腕前は見事なもの。
使用している術は未だ高位のそれに過ぎないが、現時点では協会時代に目にしたリア、風の支配者の適性を持つ彼女のそれと比べても遜色ない。
「……」
加えて、その表情の変化の無さには永仙とて内心で呻らざるを得なかった。……あの『アポカリプスの眼』の頭領。冥希と二人掛かりで下した『赤き竜』の上に立っていただけのことはある。人間技とは思えない規模の魔術を同時に行使していながら、その顔には疲労や焦燥といった感情がまるで現われ出ていないのだ。それが本心からか、はたまた卓越した装いなのかは判断の付け難いところではあるが。
「じゃあ、次はこちらから――」
渦巻いていた炎が完全に消し止められる。顕になったヴェイグが、続けて何かしらの魔術を行使しようとし――。
「っ⁉」
――瞬間、その表情が変えられる。……炎に紛れ放たれていた八枚の符。
ヴェイグを囲むようにして異なる方向から突き進んでいたそれらが、炎の消失によりヴェイグにも明らかとなったのだ。組みし術式の型は【燈炎】。状況を掴んだヴェイグが対処へと移るより先に、永仙の秘奥たる連携符術がその効力を発揮した。
「――ぐうッ!」
瞬時にしてヴェイグの身を包み込んだのは、無尽に荒れ狂う炎の嵐。本来なら然るべき範囲へと拡散し辺り一帯を覆い尽くすはずのそれが、今永仙の制御によりヴェイグの周辺というごく限られた領域に収束されている。元より最高位に比肩する術法の威力は、先ほどの比ではなく。
「ッ――……」
しかしてその威力と熱波とを受けながらも、標的たるヴェイグは落ち着きを崩さず対応をし終えている。……炎は炎。
威力を引き上げてみせたところで属性自体には変わりがなく、ならば当然先に披露した技法の繰り返しで事が足りる。用いたのは先ほどと同じく高速の対流を起こすことで自らへ火と熱とが及ばないようにする手法。荒れ狂う紅蓮の最中、始めと同じように真空にて捻じ伏せようとした。
「ッ⁉」
ヴェイグの眼が驚愕に見開かれる。――術式の発動前に夢幻かの如く消え去った炎の嵐。それも、ただ占めていた位置を何もない空間に明け渡したわけではない。
「やるね――‼」
口の端を上げつつ呟いたヴェイグへと襲い来るのは、視界を埋め尽くすほど大量の土石流の波。属性の中でも極めて強大な質量を持つそれが、八方から雪崩の如く矮小な人影を押し潰そうとしていた。……五行相剋の理があるならば、その対にはまた相生の理も存している。
――【五行相生】。【比和】に続き、後援詠唱により威力を発揮する術法の一つ。相剋の理は敵方の用いる属性を打ち消す技法として古くより運用されてきたが、一つの属性から別の属性を生み出す相生の理は掛かる魔力消費の激しさ、肝心の生成速度の遅さなどから実戦用の技法としては殆んど省みられてこなかった。
陰陽道の流れを汲む符術の大家、九鬼家に於いてもそれは同様であり、共に基本的な理でありながら一方だけが戦闘において圧倒的な使用率を誇っているという伝統は長きに渡り不動。――その状況に一石を投じたのが、なにを隠そう永仙である。
自らの術の属性を転換するという他に類のないこの理の特質に目を付けた永仙は早くから研究を重ね、僅か数度の試験の後に実戦に耐え得るレベルの技法を編み出すことに成功。齢十六にして九鬼家における天才の名を恣にすることとなる。技法の研鑽は彼が九鬼家を外れて魔術協会の一員となった以後も続けられ、彼が四賢者となる頃には自らと同等の術者にも通用する一線級の技法にまで洗練されていたのだ。――ヴェイグが今、直前までその効果に気付けなかったように。
「ッ――‼」
眼前に迫る黒き波を目にヴェイグは刹那に方針を転換。――真空の生成に使うはずだった風力を周囲に収束。地面に豪速で噴出して飛び上がると、幾許か土砂の薄い上層をそのまま弾丸の如くにぶち抜く。続けての変質を警戒してか、距離を取るようにして急速に空へと舞い上がるその動き。それが――。
「――」
――掛かった。
「ッ‼」
静止。何者かによって絡め取られる。……いや。現状を適切に把握したならば、それは絡め取るなどという生半可な言葉で表されるものではない。
「……これは」
呟きと共にヴェイグの周囲から浮き出るようにして現われる、九枚の霊符。効力こそ通常の霊符と同じだが、永仙の改良によってそれ自体が穏形の性能を備えた独自の符。今の今まで感知されなかったそれらにより紡がれる術式は【太陰封縛】。太陰符と霊縛符の合力により結界内に捉えた者の脱出と魔術行使とを封じる封縛魔術であり、内に捕えた魔術師を完全なる無力の民と化す。……莫大な魔力を保持するヴェイグのレジストを考えても長くは保たない。
「――〝相和し相生み走り来れ〟‼」
持って十秒。その緊迫感を以て永仙は淀みなく呪を紡ぎ出す。――王手までは後一差し。五行全てを用いた最大威力の連繋符術を以て止めと成す。仮にヴェイグが《紅き竜》と同様の混合型だったとしても。
「――【九霄之鳳】‼」
この一撃は防げない。その確信の元に放たれた符術。全てを過たず己の策謀の内に展開させてきた、九鬼永仙による最後の――。
――決め手。
「――」
それが決まり手となる直前。ともすれば見落としていたかもしれなかったその変化に永仙は目を見張る。――術式に捕われたヴェイグの掌中に現われている、一振りの剣。
いや。見れば一振りだけではなく、残る他方の手にも似たような意匠の剣が現われている。……極限まで洗練された意匠、脈動するその気力。目にしただけで理解できた。あれは――。
「【舞う白薔薇と共に空へ踊る】――」
呟くような宣言と共に繰り出されたのは、肉体技法に於いても達人の域を誇る永仙が追い切れない超速の剣閃。速さだけではなく、同時に目を奪われるほど華美流麗なその斬撃たちが【太陰封縛】を支える霊符を切り裂き、変化しつつ迫り来る大炎と轟雷、土砂、水流と荒れ狂う暴風をも切り抜いて。
「……ッ!」
後援詠唱により【比和】を発動させるだけの暇もなしに、切り取られたヴェイグの周囲の空間だけを残して衝突する属性たち。鳴り響く衝撃が大気を攪拌し、吹き付ける突風が服を打ちはためかせていく。
「……流石は《金刃両王》の剣技」
傷一つない。封縛の破砕と共に障壁を展開して身を守ったのか、ストリと永仙の眼前へ降り立ったヴェイグの手の中で光り輝いている二対の剣。……曇りないその剣身が。
「得物が違ってもあれだけの威力を発揮できるとは、若くしての研鑽には頭が下がる。――ここまで早くこれを使わされるとは予想外だったよ」
――消えた。瞬きなどしていない。注視する永仙の視界にて幻の如く消え去った剣二振り。何者も掴んでいない掌を軽く握り締めしつつ、ヴェイグが永仙の方を向いた。
「中々に周到だね。だけどこれでもう、出し惜しむ必要もなくなった」
その手の内にまたしても前触れなく現われる、――槍。先の剣たちと同じように、それもまた尋常とは思えぬ覇気を纏っている。
「――始めようか。九鬼永仙」
湛えられるのは変わらず底知れぬ平静さ。言い放つヴェイグに対し、永仙が身構えた――。
「――流石にやりやがるな」
台詞と共に杖を構え直す田中さん。服の端々には切れ目が刻まれているものの、肝心の杖と肉体とに目立った傷は見受けられない。凡そ十全と言える状態だ。
「……」
その視線の先に立つのは父。此方も田中さんと同様に、やはり主立った傷は衣服までに集中している。……互いに紙一重で攻撃を見切っていることの証。その凌ぎ合いが如何に高度なものであるかの証明だった。
「これが生粋の武人……か」
父が呟く。俺などでは傍から見ていても追い切れないほどレベルの高い戦い。いつも飄々としていた田中さんが、まさかここまでの実力者だったとは……。
「ただの木の棒切れで、ここまでの攻防に耐え得るか」
父の言葉が俺のその印象を更に強める。……何の変哲も無い木造の棒。それで鋼から作られた刀に押されるどころか互角の戦いを演じているとはどういうことなのか。少なくとも田中さんの技量が俺の及びも付かないような域にまで達していることは確かだ。
「まあな。お前さんの方こそ、そんな鈍で良く戦れるぜ」
全く、と。答えた田中さんの台詞は、俺にとっては予想外のもの。――鈍? どういうことだ? 父が持っている刀は紛れも無く刃を持った真剣。立慧さんの魔術を切り裂き、先輩の障壁を裂断して見せた。あれが鈍なわけがない……。
「かつて蔭水家最優と謳われた実力は、伊達じゃないってことですかい?」
「……」
その言葉に答えは返って来ない。長引けばその分他の協会員たちが駆け付ける可能性も高くなるはず。そうでなくとも現状、田中さんの方が幾分父を押しているように思える。……行けるのか? このまま父を――。
――父の敗北。その予感に、俺が胸中で言い知れぬ感情を覚えた時。
「……遊びが過ぎたな」
父がそれまで手にしていた刀を捨てる。落ちた鞘と無機質に響く音とを他所に手を遣られた先にあるのは、腰に下げられる形で出現した新たな二振りの長刀。飾り気のない、鞘に納められたままのその柄の一つに、父の指先が掛けられた。
「ッ‼」
――瞬間、何かが変えられたことを悟らされる。……一瞬にしてこの部屋の空気全てが凍り付かされたかのような、圧迫感と冷気。構えてさえいない。ただその刀に手を掛けただけで、今までとは比べ物にならない戦慄が俺の全身を襲っている。――マズイ。これは何か――!
そしてそれに応じてか。目の前の田中さんが発す気配もまた、これまでとはどこか違う次元へと移り変えられていく。一面を凍て付かせる父のものとは異なり、より狭く、しかしその身の内に凝縮されるような暴威。前で片膝を付いたまま二人を見つめていた立慧さんが、小さく息を呑んだ。
「ッ黄泉示さん……!」
震えるフィアの掌を腕に感じつつ、庇えるよう僅かに身体をずらす。……部屋を埋め尽くす緊迫感。直接の対峙者でない俺たちまで完全にその中に収められてしまっている。互いに一歩も譲ることなくぶつかり合う二人の気が、些細な切っ掛けで破裂しそうなほどに膨れ上がった――。
――次で決まる。その予感に、俺が目を見開いた直後。
「――ッ⁉」
「――⁉」
思わず腕を付く。……全くの不意。この場にいる誰もが予想しなかっただろうタイミングで、巨大な揺れが部屋全体を襲ったのだ。バランスを崩し掛ける俺たちを余所に、父と田中さんはそれぞれ微動だにしないまま互いに注意を払い続けている。だが今ので一触即発だった互いの気が、多少なりとも削がれたことは確かだ。――地震か?
そう思い掛けるものの、直ぐに気付く。……下ではない。この振動は寧ろ上、本山の上階から――?
「……っ!」
「……何? この魔力……」
続く異変に上がる、立慧さんの声とフィアの息遣い。……魔術に疎い俺でさえ感じ取ることができた。震源の方角から伝わってくる、余りに強大な力の波を――。
「――終わりか」
ここにいる面々が、各々その事態に困惑を隠せない中。
ただ一人全容を理解しているような呟きを零し、父が刀の握りから手を離す。……気付けばあの凍て付く様な殺気も消えている。父はそのまま身体を屈めたかと思うと、先に捨てた刀を拾い上げ、無造作に地面へと突き立てた。
「何の真似だ、そりゃ」
相手にこれ以上の戦意が無いことを見て取ったのか、こちらからもあの威圧感は既に拭い去られている。やや拍子抜けしたような声で問い掛けるその様子は、普段と何も変わらないいつもの田中さんで。
「目的が果たされたまでのこと。我らが同志、三千風零の手によってな」
「っ⁉」
「えっ⁉」
「何ですって――⁉」
その言葉に俺たち三人が声を上げる。――三千風さんが、父の仲間? 賢者見習いであり、四賢者筆頭である秋光さんの弟子。俺たちを助けてくれたこともある、あの人が――。
「……何が狙いだ?」
疑問を覚えずにはいられない中で、俺たちを代表するかのように田中さんが問う。
「あの坊ちゃんを誑かしてまで、何を狙ってやがる?」
「――何れ分かる」
父に答える気はなく。
「私たちとお前たち、どちらに天秤が向いているのか。――黄泉示」
「……」
「私はあと一度だけ、お前を迎えに来る。その時までにどちらに着くべきか――」
俺へと向けられた父の眼は、直ぐに田中さんの方へと引き戻された。
「――考えておくことだ」
突き立てられた刀の柄へ手を置く所作。意図の分からないその行動に一瞬場が虚を突かれたように静止し。
「【護法・鎮罪】――」
「っ!」
「ちっ‼」
刀を軸として沸き起こったのは暗い魔力の奔流。吹き荒れる気流に咄嗟に俺たちを庇う様な位置に立つ田中さん。……腕で顔を覆い。
「……っ」
荒れ狂う魔力の流れが治まり、次に俺が目を凝らした時――。
――父の姿は既に、その場から跡形も無く消え去っていた。




