第十二節 夜の会話
「……」
「……」
二人して。テーブルを挟んで座る。何を話すでもなく、間に流れるのは沈黙だ。……窺える顔色や所作からして、フィアが調子を取り戻しているらしいことは明らかだったが……。
――気まずい。
既に一度昼に顔を合わせたとはいえ、それはフィアの意識が朦朧としている中でのこと。こうして互いの意識がはっきりしている状態で向かい合うのは実に約二日振りにもなる。……その間に様々な出来事があったため、俺とフィアとの間には今までにないズレができてしまっているのだ。
――話すことは多々ある。あり過ぎるほどだが、故にどこから話せばいいのかが分からない。
それが偏に俺の今陥っている状況だった。……向こうから声を掛けて来たのだから、もしかすると何か話すことがあるのかもしれない。
そう思って初めに沈黙を選んだのも失策だったと、今になってそう気付く。二日間寝ていたとは思えないほど綺麗な姿勢で座っているフィアは、やはり一向に話し出すことをしない。何やら気まずげな感じで、伏せた視線をどこかに漂わせている。
「……体調はもう良いのか?」
――このままでは埒が明かない。意を決して俺の側から、分かり切っているようなことを敢えて口に出してみる。これで。
「――はい。お蔭さまで、すっかり良くなりました」
「そうか」
「……」
「……」
――場に満ちるのは再び気まずい空気。……〝お蔭様で〟。
言わずもがなだが、今回のフィアの治療について俺は何もしていない。フィアの回復はあくまでもフィア自身とレイガスの手腕とによるものであり、台詞がある種の定例文のようなものだと分かっていてもどうしても微妙な心持ちになってしまう。……そのくせ自分で流してしまっているのだからどうしようもない。
「……今、小父さんたちも協会に来てるんだ」
「え、そうなんですか?」
「ああ。レイルさんと、エアリーさんも来てる。心配だったみたいで……」
「……そうだったんですね」
ポツリと言ったあと、また暫く無言の時間が続く。……無難な話を振ろうとしても駄目だ。
決心する。――今。この場でフィアに話さなければならないことは――。
「……フィア」
「は、はい」
呼び掛けられたフィアの眼がこちらを向く。……翡翠色をしたその瞳。
「何でしょう? 黄泉示さん」
「――済まなかった」
頭を下げる。釈明の余地がないくらい。何処から見ても分かるように、はっきりと。
「ど、どうしたんですか、いきなり」
「……俺が」
事情を飲み込めていないらしいフィアに、思いを吐露する。
「無謀に突っ込んで行ってしまったせいで。フィアが……」
「……そんな」
謝罪する俺に、フィアは違うと言うような声を出して。
「謝るのは私の方です。レイガスさんの忠告も聞かずに……」
そのときを思い出したのか、ギュッと握られる両掌。
「あの人に近付いて行ってしまって。それで、黄泉示さんが」
「……」
……確かに、その側面はあるのかもしれない。
結果的にではあるが。フィアは永仙を道に迷っている老人と思い、自分から俺たちの前にまで連れてきてしまった。レイガスに言われたように初対面の相手を信用せず、疑ってかかっていれば違ったということも考えられる。
しかし……。
「……仕方ないさ」
顔写真も見せられていなかったのだ。相手が永仙かどうかなど、あの時点の俺たちに分かるものではない。
「他人を助けようとしたんだろ? ……なら、仕方ない」
それにもし相手が本当に助けを求めていたのだとすれば。……その手を取ることを拒まなかったフィアを、俺としては責める気になれなかった。
「それなら、黄泉示さんのことも仕方ない事だと思います」
フィアが言ってくる。
「あのままだったらきっと……だから、黄泉示さんのお蔭なんです」
「……それを言うなら、俺もフィアのお蔭だな」
そこまで言ったところで。告げる言葉を変えた。
「あのときは助かった。――ありがとう」
「こちらこそ。助けていただいて、ありがとうございました」
言い合って互いの表情に浮かぶ笑み。……漸く微妙な空気も消えた気がする。緊張から解かれるように、息を吐き――。
「……けど、あれは何だったんだろうな」
脳裏に蘇ったのは、永仙の動きを止めたあの光。フィアが習っていた障壁や治癒の魔術とは、かなり異なっているような感覚がした。
「……分かりません。あのときは、とにかく必死で……」
「……そうか」
やはり本人にも分からないらしい。余りあのときのことを思い出させてもあれだろうかと、話を切り替えようとしたそのとき。
「……っ」
「黄泉示さん?」
「……ああ。悪い」
唐突に襲ってくる意識のくらつき。……眠い。
そのことを強く意識させられる。あの過酷な修行を受けたのだから当然と言えば当然かもしれないが、回復してもらえなかった二割の疲労が俺を凄まじい力で眠りの世界へと誘おうとしているのが分かる。……だが。
「それで……今、小父さんたちに修行を付けてもらってるんだ」
まだ話さなければならないことがある。その一心で眠気を押しのけて、言う。
「あ……そうなんですね」
「ああ。フィアは……」
今ここで、訊かなければ。言葉を選ぶ俺の前で。
「……私も、明日からは訓練を受けられると思います」
先んじて言ってくる。フィアが。
「調子もいいので。だから、大丈夫です」
「……」
――受け入れているのか?
戦うことを。レイガスに幻を見せられ、永仙には殺されかけた。だからこそ、そのことを訊きたい。無理をしていないのかどうか、確かめておきたい。
だが……。
「……そうか」
今は無理だ。これ以上まともに話せる気がしないと、未曽有の睡魔の来襲を感じつつ思う。頭が……。
「……済まない。詳しいことは、明日説明するから……」
「はい。……あの」
もう持たない。眠気に両側から掴まれて揺さ振られているかのように、意識がぐらつく。そんな俺の様子を見てか、言い出したフィア。
「疲れが溜まっているんでしたら、少しなら治せますけど……」
「――駄目だ」
「――っ」
咄嗟に強い声が口を突いて出た。予想していなかったらしい語調に、ファイが僅かに目を大きくさせる。……しまった。
「……いや、済まない。ただ……」
揺れる。朦朧としてくる意識の中で、どうにか言葉を選ぶ。
「……まだ無理はしない方が良いと思うんだ。治ったばっかりだし」
「……そう、ですね」
詳しい事情については話せない。例え口で説明されたところで、あの惨状を信じるのは難しいだろう。
「分かりました。じゃあ……」
「……ああ」
お休み、と。どうにかそれだけを口にする。目の前で、フィアが立ち上がり――。
「――お休みなさい、黄泉示さん」
戸口まで送り届けた。それを最後に、ふつりと俺の意識は途切れた。
「しっかし、あれだな……」
――夜。特別に用意された日本酒の瓶を開けながら、サロンのソファーに腰掛けた東は呟く。
「何だかんだ言って鈍ってんな。意外とよ」
「まあ、十年ですしね」
言いつつ杯を傾けるエアリー。通常の倍はあろうかと言う大ジョッキを空けた回数は、既にこれで十数回目にもなる。
「お互い昔の得物もありませんし。ある程度は仕方のない事でしょうが……」
「日頃の研鑽を怠っていれば、腕が錆び付くのは当然のことだ」
グラスに注いだ葡萄酒の色合いを確かめつつ、言ってのけるのはレイル。
「とはいえ、それにしても君たちのあの体たらくは酷かったな。かつての仲間として嘆かわしい気持ちにさせられる」
「他人事みてえに言いやがって……」
「……あれほどの技量を保てていたとは驚きました」
先の模擬戦でのレイルの動き。十年前から僅かに見劣りのする程度で済んでいたそれを思い出し、エアリーは目線を送る。
「――流石、現役のマフィアのボスは違いますね。私の方は争い事とは無縁の生活を送っていますから」
「おや。つい最近アルバーノファミリーと一悶着起こしていたと思ったが、気のせいだったかな?」
「マジかよ。ま、結局俺のところが一番平穏温厚ってことだな」
「貴方は隠居していますからね」
東の前から瓶を奪い取り、自らのジョッキへと注ぐエアリー。滞ることなくごくごくと、滝のように飲み干していく様。
「……にしても相変わらず蟒蛇だな、おい」
「以前より弱くなりましたけどね。これでも久々ですし」
「あのエアリーが、今では孤児院を兼ねた教会の舵取りか……」
二人の姿を見つつ、レイルが感慨深げに言う。
「変われば変わるものだな。以前ならとても考えられない」
「お前こそいつの間にか子持ちになってるじゃねえか。出会いなんてものとは無縁そうだったのに、どっからんな相手を見付けて来たんだか」
「悪いが守秘義務があるのでね。それに、相手とはもう別れた」
「それは……」
やや言い辛そうにするエアリーへ、レイルはウィンクで応答する。その様子を見て。
「ま、レイルが相手じゃしょうがねえだろうな。……つうか」
混ぜっ返すようにそう言い、目線を他へ遣った東。
「結婚してなかったんだな、お前」
「私ですか?」
「まあな。教会の経営を始めたとか聞いてたからよ。てっきり誰かと一緒かと思ったんだが……」
再びエアリーを見て、そこでへっと笑う。
「一人でやってるとはな。苦労するだろうに、モノ好きな奴もいたもんだぜ」
「一人じゃありませんよ。子どもたちが手伝ってくれますからね。それに――」
「――相手が見付からないだろう。肝心の」
サラリと言ったのはレイル。優雅にワイングラスを揺らし、匂い立つ芳香を楽しむ。
「あの《怒りの使徒》ではな。流石に生涯の伴侶として、凶暴な類人猿を選ぶ人間はそういない」
「いや、俺もそう思ってよ! 一体どんな奴が相手なのか、こりゃ一目見てみねえとと――!」
「――遺言はそれだけですか?」
般若の微笑を浮かべたエアリーの手の中で、メシャリと音を立てて置かれていたグラスが崩れる。罪のないグラスは細やかなガラスの破片となり、テーブルの上に粉雪となって散った。
「落ち着けエアリー。その調子でグラスを破壊していっては、ただでさえ裕福とは言えない教会の財政が更に貧窮したものになってしまう」
「どうして他人の懐事情まで調べ上げているんですか貴方は……」
「しっかし、なあ……」
ソファーに背を預けつつ。思うところがあるように言った東。
「まだ何か戯言が?」
「いや、そうじゃねえよ」
「どうした勿体ぶって。らしくもない」
「いやな……」
尋ねたレイル。聴く体勢に入っている二人に対し、間を設けるように吐かれた息。
「――子どもってのは見ねえうちに、成長するもんだな、と……」
「今更だな」
「今更ですね」
「――お前らうっせえな⁉」
揃って味も素っ気もない二人の応答に東がキレる。
「他人の感慨に水差すんじゃねえよ! そこは素直に頷いとくところだろうが!」
「そう言われましても……」
「保護者として余りに当たり前のことを言うのでね」
「くっ……」
拳を震わせる。レイルは年月、エアリーは人数。保護者として現に一日の長がある以上、何かしら言い返すこともできない。
「へん。どうせ俺は保護者としてまだまだ未熟ですよ」
「貴方が拗ねても気持ち悪いだけですから」
「――だが伸びるのが早い分、相応に危うい部分もある」
レイルの台詞に、杯を握る東の指腹がピクリと動く。
「変化の最中というのは危険な時期でもある。新しい自己に向かって踏み出している分、足場が不安定なわけだからね」
「視線が前を向く分、見落としそうになるものも多いです。気付いた誰かが指摘してあげるのが早いのですが」
「……」
二人の会話に東は反応しない。カツカツと、落ち着きなくグラスを突く指。
「――早めに言ってあげた方が良いと思いますよ。彼自身の為にも」
「……まあな」
直にかけられたエアリーの声。杯の中の酒に自らの顔を映しつつ、呑む一口。
「分かってんだけどよ。……今のあいつに、それが受け止められるかと思うとな……」
「過保護ですね」
「過保護だな」
「違えよ! 二人揃ってハモってんじゃねえ!」
舌を打ちつつ忌々しい気に。空の盃を前に見据えた、東の目が鋭くなる。
「……昔のあいつを見てたから分かるんだよ。あいつにとってあのことは大きな古傷になってる。今になって漸く瘡蓋になってきてるもんを、下手につついて剥がすわけにはいかねえだろ」
「まあ、どうするかを決めるのは君だ」
突き放すように言うレイル。
「間違っても私たちの問題ではない。これ以上は何も言わないでおくよ」
「ええ。私たちは余計な首を突っ込まないよう、見物させてもらいますね。高みの」
「……この性悪どもが」
誰が性悪ですか、などと。一頻り遣り取りをしたあとで、エアリーが息を吐く。
「……できればこういったことには関わりなく、幸せになって欲しかったですが」
「その通りだな」
酔いが回って来たのか。薄らと頬を赤くしたエアリーに続く、声はしみじみと。
「私もできれば今回のような事態は御免被りたかった。九鬼永仙……彼は厄介だからね」
「お? なんだなんだ。珍しく泣き事か?」
「現実の話さ」
苦笑気味に頭を振って、レイルは言葉を続ける。
「彼の力は当時でも頭一つ抜きん出ていた。私たちのようにブランクもない」
「まあ戦力的に考えて、私たちが彼らと当たることはないでしょう。秋光たちがこの先どう転ばせるかは分かりませんが、少なくとも」
「――分かんねえこと考えても仕方ねえだろ」
応えたのはおっとと、と、注ぎ過ぎて縁から零れそうになる酒を、素早く唇へ運ぶ東。
「っ俺らのモチベーションはシンプルだろ。凶王と手え組んで何考えてるか知らねえが……」
濡れた唇を袖口でグイと拭い。真剣を構えるかの如く眼差しを眇めた。
「他人の息子に手え出そうってなら、一辺きつく言ってやるだけだぜ。――命掛けでな」




