第八節 迂闊
「……はぁっ……」
――肌に触れるお湯が、緊張で張り詰めていた心をほぐしていく。
「……ふぅ」
全身に程よい温かみを感じながら、目を閉じる。湯船に浸かるのは恐らく初めての経験だけれど、慣れているかのように心地良い。
頭の中に浮かんでくるのはさきほどの光景。茶葉を取ろうとしているところを、黄泉示さんに見られたときの――。
「……」
恥ずかしさと情けなさが入り混じったような、何とも言えない感情。振り返った時に目に入った、黄泉示さんの微妙な表情とその後の応対を思い出す。……手際よくお茶を入れて面目躍如とするつもりが。
逆に気を遣わせてしまったかもしれない。そう思うと心が落ち込むような気がして、私はゆっくりとお湯に体を沈ませた。
思えば服の件だってそうだ。路上に倒れていたと聞かされたとき真っ先に気付くべきだったのに、さっき黄泉示さんから指摘されて初めて自分が気が付く始末。あの格好のまま食事に行っていたのかと考えると、思い出しても少し恥ずかしく……。
――でも、まだこれから……ですよね!
気合いを入れるようにグッと開いていた手を握り締める。ただ住まいを借りて助けられているだけでは本当にただの厄介者になってしまう。
そうならないためにも、黄泉示さんの親切に報いるためにも、私もできることは最大限やっていかなくてはならない。――うん。
記憶喪失で自分に何ができるのかはまるで思い出せないし分からないけど、それでも片付けとか簡単な雑用だとか、できることは少しはあるはず。
一瞬考えて萎えかけた心を、頭を強く振るって立ち直らせる。……そろそろ揚がろうか。
もう大分身体の方は温まってきた。気持ちもほぐれてきたし、あまり長く入っていると黄泉示さんを待たせてしまうことにもなりかねない。浴槽から出て、着替え場に繋がる半透明の扉に手を掛ける。空からと扉が開いていく途中。
「……あ……‼」
思わず上げた声。――私が自分に関わるとある問題に気が付いたのは、正に扉を開けたその瞬間だった。
「……」
――フィアが上がるのを待っている俺。何とはなしにテレビをつけ、今はそれをただぼんやりと眺めている。
「見てください! まるで巨人が刃物を振るいでもしたかのように、木々が切り倒されています! 一体一晩のうちに何が起きたのか⁉ 教会付近は今も報道陣は立ち入り禁止とのことですが、我々はこれからもこの事件で何が起きたのかを解明し――」
テレビから聞こえてくるのはやや興奮気味のキャスターの声。……何か珍しい事件でも起きたらしく、画面を通してでもその熱気が伝わってくるようだ。とはいえ。
正直言ってこの手のニュースにはあまり関心がない。手元のリモコンを操作してチャンネルを順番に変えていく。……料理番組、バラエティー、政治討論……。
最初に映った料理番組に少し目を引かれたが、どうやら上級者向けの番組だったらしい。キッチンスペースに並べられた幾つもの食材をその手のプロと思しき料理人が手際よく拵えていく様は、まだ包丁もまともに握ったことがない俺にはハードルが高過ぎた。取り敢えず習得を目指すのはカレーとかシチューとか……煮込めば何とかなりそうなその辺の品だろう。
その後も数回ほどチャンネルを回すが、どの番組にも別段興味が引かれるようなものはなく、溜め息をついてテレビの画面を消す。
「……?」
そんな中、耳に届く微かな音。――今、フィアの声が聞こえたような……。
確かめるために耳を澄ます。……間違いない。なにかアクシデントがあったのか、風呂場のある方から俺を呼ぶ声が、聞こえてくる。
――タオルでも置き忘れてたか?
それならフィアが風呂場に行くときに渡したような覚えがあるが。疑問には思いつつも、取り敢えず呼ばれているのは確かなのでテレビの電源を切り、足早に風呂場へと向かう。
リビングを出て、一つ目のドアを開けると音を立てて作動している洗濯機が目に入ってくる。……少し心配だったが、問題なく動かせているようだ。唸りを上げる洗濯機を尻目に風呂場に繋がるドアの前に立つ。いきなり開けるのはどう考えてもマズイ。ので、一先ず扉越しに声だけを掛ける。
「……どうかしたか?」
「あ! ……黄泉示さんですか?」
「……それはそうだが」
――他に誰がいるんだとも思ったが、そこは気にせずにもう一度尋ねてみる。
「それで、何かあったのか?」
「は、はい。……えっと、あの……ですね」
……フィアは扉の向こうで何か言い辛そうに口籠っている。やはり何かなかったものがあったようだ。
だが、今一つ肝心の部分がはっきりしない。扉越しとはいえ気恥ずかしいのかもしれないが、言葉にしなければ伝わらないものもある。
「……なにか足りないものでもあったか? 言ってくれれば持って来るが……」
「そ、そうですね。足りないといえば、そう、なんですけど……」
こちらから答えを促してみるものの、やはりフィアの答え方は今一つ要領を得ない。何が不足しているのか言ってくれないと呼ばれて来た側としては動きようがないんだが――。
「……着替え……」
――ん?
「……着替えが、……ですね。その……」
そこまで言い掛けたところでフィアの言葉はまたしても尻切れ蜻蛉になってしまう。絞り出すようなか細い声の中身を聞いて、俺も漸く納得がいった。
――なるほど。
確かにそれは問題だ。思い返してみれば彼女は着のみ着のまま、手荷物の一つも持たない状態で路上に放り出されていたのだ。替えの服など当然持っているはずもなく。
唯一着ていた服も今は洗濯機の中でずぶ濡れになっている。……自分でそのことを忘れていたフィアもフィアだが。
洗濯を勧めておきながらそのことをすっかり忘れていた俺も俺なので何とも言えない。つまりフィアは今、着るものがない状態で困っているわけだ。
洗濯機の表示に目を落とす。無機質な電子板には数十分の残り時間が示されたまま。……適当にボタンを押すように言ったのが失敗だったか。
俺も深く考えていなかったが、ここから更に乾燥の時間が掛かることを考えるとそれまでフィアを風呂場で待たせておくのは微妙なところだ。早めに着替える服は用意すべきで――。
「……すみません……」
――とはいっても選択肢は極めて限られている。風呂場からは動けないフィア自身に為す術はなく、どうにかできるのは動ける俺の方。当たり前だがこの部屋には女性物の衣服など一着も置いておらず、現実的に考えれば今からどこかで替えの衣服を買って来るしかない。……俺が。
「――いや」
正直かなり気は進まないが、今回に関しては俺の責任でもある。俺が洗濯のことを言い出さなければこんなことにはならなかったのだし、どっちにしろ、これ以外に解決策がない事には変わりがない。
ーーそうと決まれば善は急げだ。
「分かった。悪いが、用意してくるからそのままで少し待っててくれ」
「え⁉ ……は、はい。分かりました……」
――なぜか狼狽えたような返事をしてくるフィア。少しそのことが気に掛かったものの、今は時間が惜しい。急ぎ足で廊下に出ると、そのままの足でリビングから財布を取ってくる。……よし。
確認したが札だけでも充分な枚数が入っている。これだけあれば服一着は問題なく買えるだろう。
掴んだコートを素早く羽織ながら玄関の扉へと向かう。目指すのは今日この部屋に来る時目印にした店、『ギムレット』。前を通る際に店内の様子がちらりと目に入っただけだが。
俺の記憶が正しければ雰囲気の悪くなさそうな洋服店だったはずだ。幅広い用途の服を扱っているみたいだったし、あそこに行けば一着くらいそれらしい服が見付かるだろう。
――そんなことを考えているうちに玄関に着く。手早く靴を履いた俺は勢いよくドアを開けると、夜の街へと足を踏み出した……。
――やや離れたところ。確か玄関のある方角、そちらの方から重い何かが閉まるような物音が響いてくる。……少しの間耳を澄ませてみるけれど。
そのあとには何の音も聞こえてはこない。どうやら黄泉示さんは本当に、服を買いに出て行ってしまったようだった。
「……失敗しましたね……」
誰も居ない脱衣場で、一人そう呟く。扉の向こうで洗濯機が回る音が、やけに大きく聞こえた。
まさか着替える服が無いのを忘れたまま、自分で自分の服を洗ってしまうとは……。
多分黄泉示さんも忘れていたとはいえ、今日最大の失敗かもしれない。そのせいで、黄泉示さんが服を買いに行く羽目になってしまった。そのことは申し訳ないし、服を買いに行ってくれる厚意には感謝すべきだと、分かってはいるのだが……。
「……」
――服を用意してくるということは、当然私の着替えを用意してくるということだろう。風呂上がりの人間の着替えを用意する。それはつまり、服に加えて替えの下着まで調達してくるということに他ならない。
……それにしては、随分と行動に移るのが早かったような気もする。
――きっと急いで服を持って来なければと焦ってしまって、そこまで思いつかなかったのだろう。そうに違いない。……間違っても、女性用の下着を買うのに抵抗がないタイプの人であるとは思いたくなかった。
自分が黄泉示さんに相当の恩義があるのは事実だし、黄泉示さんを疑いたくないのも確かなのだが、もしそうであれば流石に危険を感じざるを得ない。色々と。
……大丈夫……ですよね?
――しかしそもそも、男性なら女性物の衣服を一人で買うのにも相当の抵抗があるのではないだろうか?
――それは多分、私のためにわざわざ買いに行くことに……。
黄泉示さんの優しさの表れだと、そう思うことにして自分の中に生まれた疑念を振り払おうとする。帰ってきたらちゃんとお礼を言わなくては……。そしてどこかで、その分黄泉示さんの手助けをして……。
……帰って、来られるのだろうか?
不意に寒気を感じて軽く身震いする。気が付けば充分に温まっていたはずの身体はすっかり冷たくなってしまっている。さっきまでお湯につかっていたとはいえ。
いつまでもタオル一枚で立ちっ放しでは湯冷めするのが当たり前だった。慌てて風呂場に戻り、もう一度お湯に体を沈める。
「ふぅっ……!」
心地よさから自然と息がこぼれる。冷えていた体に再度温かみが戻り、心と身体がほぐれて行くような心地よい感覚が全身を包んでいく。
――けれどそれでも、心に浮かんだ一抹の不安は消えていない。服だけならまだ大丈夫だろうけれど、女性の下着売り場に男性が一人で入る……。
黄泉示さんがウロウロと店内を物色している姿を想像してみる。……うん。申し訳ないけれど、やっぱり不審者にしか見えない。どう考えても。
……通報とか、されませんように……!
――今の私には、ただ黄泉示さんの無事を祈るのが精一杯できることだった。




