第二十八節 死地 前編
「――」
渾身の一撃ののちに。訪れたのは、予期した手応えではなく――。
全身を襲う、既知の違和感だった。
――何だ?
直後に答えを認識する。全力を注ぎ込んだせいか、【魔力解放】が切れて――。
――いや。
そのことを悟り皮膚が泡立つ。……切れたのではない。俺はまだ二本の足で立っている。仮に【魔力解放】が切れたのなら、そんなことはできないはず。
消されたのだ。続く誰がという問いに当て嵌まる相手は、一人しかいない。
九鬼永仙。以前立慧さんがして見せたように、目の前のこの男が――‼
「……ッ」
衝撃の中、縋るように追った刀身の先。
「――ッ⁉」
それを目にした瞬間、総毛立つ震えが全身を支配する。……持てる力の全てを込めて撃ち放った渾身の一撃。それは、あろうことか――。
――伸ばされた永仙の手。筋張った掌のうちで、静止していた。
……馬鹿な。
恐怖や危機感より何よりも、遅れてきた驚愕が先に立つ。あの雷を操る男も、郭も、立慧さんも。
この状態の俺の一撃を受け止めるなどということはしなかった。障壁に依る防御、魔術に依る反撃、咄嗟の判断としての回避。
俺が経験し、予測した全ての対抗策。それを目の前の老人――九鬼永仙は何かしらも気負うことなく、片手で押し潰して見せたのだ。――これが、この男と俺の――。
「――ほう」
――声が響く。変わらぬ位置。変わらぬ調子。耳に届いてきたたそれは、紛れも無く目の前の相手の無傷を証明する物に他ならない。
「……逃げろっ……蔭水……ッ!」
「話は聞いていたが、確かに逸材だな」
――掠れた叫び。頭で理解するよりも先に、他ならぬ永仙の声でその事実に気付かされる。
「ッ‼ うっ……‼」
ゆっくりと振り返った俺の視線の先――地面に片膝を付く、ジェインの姿。崩れ落ちた姿勢のまま大きく肩で荒々しい息を吐くその様は、俺が見るいつもの冷静なジェインとは余りに掛け離れていて――。
もう、何かを為す余力があるようには思えなかった。
「時に、重力……その若さでここまで扱えるとは素晴らしい。一瞬とは言え、私の動きを鈍らせたか」
「ちッ……ッ‼」
その隣でやはり同様。疲労困憊といった体。額に汗を滲ませながら立っているのは、リゲル。苦悶に表情を歪ませてはいるものの、サングラスの奥の目はまだ、光を失ってはいない。
「あと十年遅かったなら、私も随分と手古摺らされたことだろう」
それも束の間のこと。軽く手を振るような永仙の所作と共に、声にならない呻きを漏らして――。
「くそ、がッ……!」
悪態を最後に残し。糸が切れたように、その身体は地面に倒れ伏した。
「……っ!」
その光景を前にしながらも、立慧さんたちは動かない。……いや。
動けないのだ。そのことを理解して自分の軽率さが身に染みる。下手に動きを見せて永仙を刺激するようなことがあれば、俺たちの中の誰かが死ぬ。それが分かっているからこそ、この誰も死んでいない状況を自分たちからは崩せない。この手遅れの局面まで来て、そのことが漸く理解できるとは――。
「そして、――青年」
永仙の声がこちらを向く。静かな中にどこか畏怖を感じさせる声。この距離でそれを耳にして感じるのは、全身を凍らせる圧倒的なまでの恐怖と――。
「勇猛だな。仲間を守るため、埋め難い力量差のある相手に挑み掛かる。その直向きな姿勢は見るに眩しい」
まるで生徒に言い聞かせでもするようにその口から言葉が紡がれていく。今しがた変化を起こした局面のことなど、もうまるで気にしてはいない。
「だが覚えておくことだ。無謀さの代償は時に重い。例え幾許かの幸運を得たとしても――」
死の宣告のように耳に響く。
「――明日を目にできる確率は、限りなく低いのだとな」
――ただ絶対的な、力の差。
俺では、この相手には届かない。
背負わされる死を、黙して受け入れるだけ――。
全てを悟り切った俺の視界の中で。
ただこちらに迫る永仙の掌だけが、依然として時を刻んでいるようだった。
――何が起こっているのだろう。
目の前の現実を否定するように、私の頭の中でそんな疑問が浮かぶ。
今日は大体一か月ぶりになる外出だった。黄泉示さんたちと、先輩たちとも一緒に街を歩いて、短くても色々な話ができた。
買ったイヤリングを落としてしまった。優しそうなお爺さんと出会った。知り合いの家が分からないと言うお爺さんを、先輩たちの所まで案内して。
――立慧さんたちが叫んで。
黄泉示さんが必死な顔つきで、此方に飛び出して来て――。
「――」
叫びながら魔術を発動させた、ジェインさんが崩れ落ちる。……少しの間耐えたリゲルさんも、一言だけ声を上げて。同じように倒れていく。
千景先輩たちはただ、何かを堪えるような固い面持ちをしているまま。
「――明日を目にできる望みは、限りなく低いのだとな」
隣に立つお爺さんの、そんな声だけが聞こえてきた。
さっき言葉を交わしていたときとはまるで違う、暖かみの込められていない声。そしてその声は、私のいる方には向けられていない。
――じゃあ、誰に?
事実としての死を告げる死神の様なその声は、確かに私の前にいる黄泉示さんに――。
――駄目。
何か思うより先に、そんな声が心の中で響いている。
目の前のこの人は。黄泉示さんは。
――死なせない。
例え私の何を使ってでも。
絶対に――‼
「――」
迫る死。それを間近に予感しながらも為す術を持たない俺が、ただ全てが終わりを迎えるのを待っていたとき。
「――させません」
停止したはずの俺の時間の中に、誰かの声が届く。
聞き間違えるはずもない。その声はたった今、俺が守ろうとしていた少女の――。
「絶対に。……黄泉示さんは……」
力強く、心の中に響いてくる。分かっていても信じることができない。これは本当に、フィアの――?
「――死なせません‼」
ありったけの想いを詰め込んだようなその声のあとに――眩い光が、突如俺と永仙の間に生まれた。
「――何――?」
不意を突かれたような永仙の声。先ほどは俺の身を凍らせたはずのそれが、今はどこか遠くに響く雑音のように感じられる。
「……」
――感じる。自らの身が守られているのを。思考ではなく、より深いところにある何かで。
「……これは」
「……!」
独り言のように呟かれた、その声に我に返る。興味の対象が移ったのか、永仙の両目は俺でなく、真横にいるフィアに注がれて――!
「――ッ‼」
包み込まれるような暖かみ。それを全身に感じながら、伸ばされ掛けていた永仙の手を終月で打ち払う。
「――」
咄嗟の挙動に反射的な行動を見せたのか、俺の攻撃を躱し退いた永仙。その元いた位置に割り込むよう、フィアの前に立った俺。
「永仙が、退いた……?」
信じられないといった先輩の声を背中に受けつつ、少し距離の空いた永仙を注視する。……窮地を抜けたとはいえ、安堵などできない。そうなる要因を作り上げた元凶がまだ正に目の前にいるのだから。
――そのとき。
「――下がりなさい、あんたたち‼」
有に六、七メートルはあっただろう俺たちとの距離を文字通り一瞬で詰め、立慧さんが俺たちの前に庇うように立ちはだかる。安堵し掛けた心。だがその背中に纏う雰囲気と緊張感がいつもとはまるで違うことに、嫌でも気付かないわけにはいかなかった。
「残りは千景が看てる。――良いから早く‼」
「あー――」
促されるままに後退する俺たちと、入れ替わりになるように前に進み出る田中さん。
「どうしてこうめんどくせえことになるんだか……逃げて良いもんかね? これ」
「馬鹿なこと言ってないで、こんなときくらい死ぬ気になりなさい」
「……」
前に出た支部長二人。入れ替わった相手方を、永仙はただ黙ったまま見つめている。その姿に、今すぐ何かを仕掛けてくるといった感じはない。
「協会在籍の頃は直接会ったことは無かったわね、九鬼永仙。会えて光栄だわ」
――その場を占める一触即発の空気。分かる。永仙がその気になれば、比喩ではない。死を掛けた戦いが繰り広げられる準備は既に整えられているのだ。立慧さんがいきなり仕掛けるのでなく敢えて挑発を選んだのは、少しでもそれまでの時間を稼ぐためか……。
「……第七支部支部長、范立慧」
永仙の口から零れ出す言葉。
「それに、第十一支部の田中か……」
「――ッ」
「いやあ、光栄でさあ。まさか大賢者だった御方に、きっちり覚えられてるとは」
冗談めかして言う田中さんだが、その声は決して笑ってはいない。
「驚くには及ぶまい。元大賢者だった私の頭には、お前たちを始めとした主要な協会員全ての顔と名前とが入っている」
どこか得意げなその顔が、今は脅威としか映らない。
「当然、その得手不得手もな」
「……これ、どう考えても勝ち目ないんじゃねえの?」
「……」
おどけた口調。最早笑うしかないといったような田中さんに。
「……それでも、やるのよ」
震える声でそう言い出した。
「やらなきゃ、いけないんだから……!」
「――急げ。静かに、なるべく注意を引かないよう」
永仙の側の遣り取りに意識を割いていた俺たちに、掛けられた声。
いつの間に魔術を発動していたのか。物々しい文言に覆われた半透明の壁の様なものが俺たちのいる路地を二つに区切っている。その向こう側に立っているのは千景先輩。相当に疲労している様子が伝わって来るものの、ジェイン、倒れたと思しきリゲルも一緒だ。
「【部分解除】」
詠唱と同時に壁の一部が開いた空間に走り込む。俺たちの身体が壁の内側に入り込むのと同時に空間は再び塞がり、永仙と対峙する二人、それと俺たちとの間に境界線を作り上げた。
「時間がない。来た時のゲートの位置は覚えてるな? そいつらを連れて、直ぐに本山まで逃げろ」
「――先輩」
「私はまだ仕事がある。それに――」
「……う……ッ」
先輩が視線を移すのとほぼ同時。微かな呻き声と共に、掴んでいたフィアの手から力が抜ける。
「フィア⁉」
「……模擬戦のときと同じで、過剰に魔力を消費し過ぎたせいだな。なるべく早く休ませてやれ」
それはつまり、一刻も早くこの場から安全なところへ逃げろということで――。
「……行こう。蔭水」
それきり背を向けて立慧さんたちの方を見据えた先輩。衝撃から立ち直ったらしい、ジェインがそう言ってくる。
「この馬鹿は引き摺ってでも僕が連れて行く。火事場の馬鹿力を使えば何とかなるだろう」
「……けっ。誰がてめえなんかに引き摺られるかっての……」
「――リゲル」
意識が戻ったのか? サングラスのずれた眼に力を込め、歯を食い縛ると。
「【重力軽減・三分の】――」
「……上出来だ」
唱えられた詠唱に従って軽くなったらしい。ジェインがリゲルを担ぐようにして持ち上げる。だが――。
「僕らがいてもどうにもならない。今は、この場から離れることが先決だ」
先輩たちが。このまま俺たちが逃げればどうなるかなど、余りにも分かり切っていて。
「……っ」
「何のために訓練を積んできたか、忘れたか⁉」
動けないでいる俺に、ジェインから激しい叱責が飛ばされた。
「僕らは足手纏いにならないために訓練してきた。今ここでの足手纏いとは、逃げないことだ‼」
「……!」
――そうだ。
「……悪かった。――行こう」
俺たちに戦える力などない。どれだけ無念だとしても、それだけは今変えられない事実なのだ。
「急ぐぞ。幸いゲートまでそう距離は離れていない。全力で走れば――」
そう言うジェインの声に頷いて駆け出そうとした、――矢先。




