第七節 不器用な二人 後編
「……ふぅ」
廊下から一枚ドアを隔てた空間。フィアに聞こえないような距離まで来たことを見計らい、溜め息を付く。……フィアを家に置くという、俺の判断は間違ってはいないはずだ。
正確にはそれ以外の選択肢はなかったのだと言って良い。目の前に本当に困っている人間がいて、それを自分しか助けられないのなら。……だが、それ以外に……。
「……」
――そうではないと言えるだろうか?
かつて子ども心に抱いていた憧憬が。その燻りがなお残っていて、彼女を助けさせる動機の一助となったのではないと。
再度そのことを確認する。……俺が彼女を助けたのはあくまで、奴らと同じようにはならない為だ。
彼女を助けたいと思ったからではない。そのことを今一度、強く己の芯に括り付けて。
「……」
頭の中でそんな独り問答をしているうちに浴室の前に着いた。日本と違ってこちらでは基本的に浴槽はなく、シャワーだけということが殆んどらしい。
俺としてはやはり浴槽が欲しかったので、近くで何とか浴槽がある部屋を探し出した。風呂を沸かすという、考えを中断させる機械的な口実があったことは、今の俺には素直に有り難い。
湯を張るといっても実際には浴槽の栓を閉め、ボタンを数度押すだけのこと。それだけで自動にお湯張りから湯沸しまでをやってくれる便利な装置がここには備え付けられている。当然ながら風呂場はまだ一回も使ったことがないので洗う必要もない。これに関しては今回限りの話になるが……。
「お湯張りをします」
軽い作動音のあとに発せられる人工の音声が、装置が正常に作動したことを告げてくれる。流れ出るお湯がゆっくりと湯船に溜まって行くのを見て風呂場をあとにし、ついでに外にある洗濯機も軽くチェックしておく。ボタンや仕組みなどを見るが……。
「……」
今一よく分からない。洗剤も既に置いてあるし、普通に洗うだけなら問題ないとは思うのだが、他にどんな機能があるのか分からない。
とはいえある程度生活に必要なものが備え付けてある部屋を選んだので、その点では便利だった。まあ使えばそのうち分かって来るだろうと、そんなことを思いつつ廊下に出る。……風呂は先に入るかどうか、訊いておいた方がいいんだろうか。
女性はそういったところを気にするのだと、昔誰かに聞かされたような記憶がある。……誰だっただろう。少し気になって辿るが、思い出せない。……まあ、俺はその辺りに拘りはない。訊いてフィアの好きなようにして貰えばいいか。
事務的とはいえ話す内容が決まったことに何となく心強さを覚えながら、目の前を塞ぐリビングのドアを開けた。
「……?」
前を見て、直ぐに違和感に気付く。……ソファーに座っていたはずの、フィアがいない。
「――あ、あれ? あれ?」
――何処に行ったんだ? そう思った次の瞬間、左の方から聞こえてくる声。この位置からは見えないが、どうやらフィアは台所の方にいるらしい。何か、戸惑っているような声が聞こえてくるが……。
「……」
何をしているのか気になって、気付かれないよう静かにリビングのドアを閉める。そのまま足音を抑えて近付き、台所の方を目にした――。
「……んん……!」
俺の目に映り込んだのは、何やら上を見つめ、懸命に手を伸ばしているフィア。視線の先にある戸棚は遠く、その指が届くには後十センチほど足りない。
「……んっ! やっ!」
意を決して少し跳ねてみるが、それでもなお目的のものには届かないらしく、悔しそうな顔で戸棚を見つめたままだ。物を盗るという感じではない。盗もうとするならもっと上手いことやっているだろうし、第一越して来たばかりで盗られるようなものなど端からないのだ。
「……なにをしてるんだ?」
解釈不能なその光景に思わず疑問が口を突いて出る。頑張っているのは伝わってくるのだが、主に身長の問題で何だかやけにシュールな絵面になっている。つま先立ちでもジャンプしても届かないというのは、当人からしてみれば無念の極みだろう。俺の声を聞いて気付いたような――。
「あっ、よ、黄泉示さん⁉」
フィアは振り返り、慌てたような口調でそう返してくる。妙な仕草をしているところを見られたせいか、その頬が少し朱色に染まっている。
「……何か取りたいのか?」
棚を見上げつつ言う。中を確認していないので何とも言えないが、何かフィアが気になるようなものが入っていただろうか。
「あ、い、いえ。その……」
「……」
「……な、なんでもないです……」
戸惑っている様子を無言で見つめていると、そう言ってフィアは意気消沈したような体でトボトボと戻ってくる。何でもないということはないだろうと思ったが。
仕草から訊かないで欲しいという心境は何となく伝わってきたので、俺もそれ以上は突っ込まないでおく。……まあ、見た感じでは悪事を働こうとしていたわけではなさそうなので、別にいいか。気にして欲しくなさそうなら今はそれ以上訊かなくていいだろう。
「……」
戻ってきたフィアは心なしか、まだ何か恥ずかしそうにしている。余程見られたくない場面だったのだろうか。……これで黙っているのもあれだ。
「――お風呂が沸きました」
「沸いたようだし、良ければ先に入ってこないか?」
丁度話す内容もあったのだと、そう決めて口を開く。ちょうどいいタイミングで響いてきた機械の音声をダシにして、決めていたそのことを尋ねた。
「え、その……」
「俺はまだ私物の整理があるし。――タオルはこれを使ってくれ」
まだ遠慮がちなフィアを置いて、整理されていなかった荷物の中から大き目のバスタオルと、小さな手拭を出して渡す。共に新品。石鹸やシャンプーなどは既に置いておいたので、特に何かが足りないということはないはずだ。
「……ありがとうございます」
「別にいい」
そんな会話をしつつフィアを風呂場まで案内する。一つ目のドアを開けたところで目に飛び込んできたのは洗濯機。……そういえば。
「洗うか? 裾の部分とか、大分汚れてるみたいだが……」
「え? ……あっ」
地面に寝転んでいたフィアの服はそれなりに汚れている。とはいってもそこまで目立つものではなく、背中や裾の方が少し黒ずんでいる程度だったが。指摘されたフィアは首を動かして自分の服を見回すと、初めて気が付いたといったような声を上げて。
「……はい。お願いします……」
「ああ。洗剤はこれと――」
何だかさらに委縮した様子になってしまったフィアに、洗剤と洗濯機の使い方を教える。かくいう俺もあくまで基本的な使い方しか分からないが、服一枚洗うならそれで充分。
「じゃあ、俺は向こうにいるから」
「はい」
説明を終え、フィアを置いてリビングへ戻る。……着いてから真っ先に向かうのは。
「……」
当然さっきフィアが手を伸ばしていた戸棚だ。フィアは気にされたくないようだったが、俺としては自分がいない間にフィアが何をやろうとしていたのかはチェックしておきたい。……単なる好奇心という部分も、少しはあったが。
「……パック?」
空いた扉の奥側に見えているもの。確かめるために手を伸ばし、それを取り出す。手の中にあるのは紛れもないティーパック……。サービスとして初めから置かれていた物だろうか。振ってみると袋に茶葉がぶつかってシャカシャカと小気味よい音を立てる。
「……」
伸び上がって戸棚を覗いてみるが、他には何もないらしい。……どうやらフィアはこれを取ろうとしていたようだ。食事のとき、フィアがメニューを選ぶのにもやけに気を遣っていたことを思い出す。……なるほどな。
あくまで状況証拠からの推測だが、恐らくフィアは少しでも何かやろうとして、その為にお茶を淹れようとしていたのだろう。帰ってから碌な会話がなかったことも予想外に堪えていたのかもしれない。
「……はぁ」
それを思って溜め息を吐く。我が物顔で好き勝手されるのは論外と言えるが、フィアの態度は逆に少し、気にし過ぎであるような気がする。……気まずい空気を作っていた俺にも責任の一端はあるだろう。意識しているようで嫌だが、特別気にしなくてもいいのだということを伝えておいた方がいいのかもしれない……。
――テレビでも見るか。
面倒だ。気分を紛らわすために、俺はリモコンのスイッチを押そうと。
「……っ」
――した瞬間、ポケットの携帯が振動を立て始める。俺に掛けてくる人間と言えば一人しかいない。表示された名前に相手の顔を思い浮かべながら、俺は通話ボタンを押した……。




