第五話 祈りは届く
「それで、何から話そうか」
カーラは手元の匙で具の少ないスープを適当にかき混ぜながら言った。その正面で、アランは自分の胃が受け付けてくれるよう、ゆっくりとスープを口に流し込んでいた。そうしながらも、意識はしっかりとカーラのほうに向いているのだから、器用なものである。
その様子を見ながら彼女は、やはり始めから話すのがいいか、と考えた。適当な部分だけ抜き出して話せるほど、口が上手いわけでもなかった。
「まず、悪魔が襲撃して来たのは……正しくは、近くに出たのは、もう九ヶ月は前だ。」
アランは相変わらずゆっくりとスープを飲み下しながら、話の続きを目で促した。彼女は緩やかにうなずくと、適当に手を組んで話始めた。
「始め出てきたのは、小さき悪魔の類だった」
そもそも、あの時点で疑うべきだったのかもな。彼女は吐き捨てるようにそういった。
世界の始まりから続いてきたとされる人と魔の戦い――正確に言えば、生存競争――は、時に人が勝ち、時に魔が勝つ。ゆえに、世は常に戦乱が渦巻いており、時として人の街に潜む悪魔が見つかるのはそう不思議な事ではなかった。
ゆえに、最初はいぶかしむ事も無かった。カーラはただ、偶然出てきたものだと思っていたのである。しかし、それが四日、五日、そして一週間、一ヶ月と続き、彼女もようやく異変が起こっていると気付いたのだ。
「何かが悪魔を召還している。魔族が街に潜んでいる。……だが、証拠が無かった。確固たる証拠が」
「……あぁ。なるほど」
悪魔が偶発的な遭遇ではなく、明らかに何者かの故意によって存在している。それは即ち、魔族がその近辺に居ることを示している。
人類に対して圧倒的に数で負けている魔族は、その驚異的なまでの魔力――即ち、"質"で戦力を補っている。魔族一匹が、およそ人間の兵士百名に相当するといわれている程だ。
となれば無論、魔族が一般人の居る場所へまぎれ込めば、途方もない被害がでる。下手を打てば、人魔戦線が内部から崩壊しかねない。ゆえに、魔族は確認された瞬間討伐を行わねばならない。だが、それゆえに、下手な情報では動けないことも事実だった。
魔族が出れば、その討伐に相応の戦力を割かなければならない。冒険者、兵士、その類。決して無限ではない貴重な人材を、半ば使い捨てる様にして使うことになる。となれば、それらが討伐に出向いた街の防護は必然的に薄くなる。
そこを突かれれば、より大きな被害が出ることになる。不明瞭な噂や、もしかしたらといった不確定な情報では、どの組織もおいそれと動けないのだ。
「悪魔が居るというだけでは、相手にもされない。だから、私も調べはした。したんだが……肝心の魔族の影すらつかめなかった」
ギリ、とカーラの拳が握りこまれた。恐らく、アランもシスターも居なければ、机に叩き込まれていたであろうその拳は、ただ悔しさを湛えていた。
魔族の存在する証拠が無い。となると、冒険者や衛兵は動かせない。まさかカーラ単体で魔族を探す訳にもいくまい。
悪がそこにあると分かっていながら正せないカーラの悔しさはいかほどだったのだろうか。アランは、彼女が握りしめた拳を見て、瞑目した。
しばらくすると、シスターがそっと立ち上がって、カーラの隣の席へと移動した。アランの向かい側に座る形だ。カーラはその様子に何か言おうとした様だったが、シスターに何事かを耳打ちされて黙り込む。
「……ここからは、私がお話いたします」
彼が頷くと、シスターは口を開いた。語り口は滑らかで、引っかかる事なく滔々と語って行く。話すのが得意なのだろう。
「証拠は見つかりませんでしたか、ともかく悪魔の異常発生は事実。その事だけでも何とか調査隊を派遣してもらえないかと、衛兵に掛け合ったのです。……しかし……」
彼女は一瞬、言い淀んだ。感情を押し殺すのに苦心している様子で、こちらはカーラと違い、怒りに近いものだろう。顔は苦しげに歪み、その怒りを言葉ほどに顕著に物語っていた。
聖職者の怒りは恐ろしい。それは、ただ強い怒りと言うのではなく、何度も何度も許し、押さえつけ、押し殺した末に残った深い怒りだからだ。それゆえに、開放された時の怒りは凄まじいものがある。
しばらくしてようやく言葉がまとまったのか、シスターはもう一度顔を上げて語り出す。アランはその間も、スープを飲みながら黙って待っていた。
「にべもなく断られるまでは、良かったのです」
ですが、と続けたシスターは、一度大きく溜息をついた。怒りや、悲しみによるものではない。どこか落胆した様な、そんな溜息であった。
「それどころか、私達が根も葉もない情報で、街を混乱させようとした、と。そう、言われたのです」
いかに周辺住民からの信用があろうと、所詮は孤児院である。常に公平、公正――街によって異なるが――な衛兵に信用できないといわれてしまえば、神殿や領主からの支援は受けられなくなる。
それはひとえに、資金援助を行う神殿などの信用、信頼にもかかわるからだ。虚偽を撒き散らしたという場所に資金を与えているともなれば、少なくとも良いイメージがつくはずも無い。
「何度も虚偽ではない事を証明しようとしましたが、衛兵はとりあってくれませんでした。結局、支援は打ち切られてしまい、悪魔の襲撃は終わるどころか日に日に酷くなり、今の様になっております」
話が終わり、カーラもシスターも沈痛な表情を浮かべた。シスターの目には涙すら溜まっている。話していて、感情が抑えられなくなったのだろう。無理も無い事だった。
カーラは強く、シスターは神に仕えるものだ。だが、ただの人間である。等身大の人間でしかないのだ。
英雄のような力などありはせず、どんな状況でも助けてくれる仲間など居ない。物語のように、都合よく現れる勇者も居ない。ただ精一杯な、たった二人の人間がここにいるだけなのだ。
だから、どれだけ悔しくても、どれだけ怒ろうとも、状況は変わらない。背に子供達が居る以上、この街を出て行くという選択肢も取れなかった。無理を通すにも、そのための力が無い。
正に八方塞な状況と言っていい。事態が好転するのを祈りながら、このままうっすらと消えていくのを、ただ寒さから来る震えと、飢餓の苦しみに耐えながら待つだけの状態だった。
だが変化は訪れた。彼女らと同じく等身大の人間でありながら、無茶を通せるだけの力を有した、たった一人の男が現れるという形で。
不恰好で、惨めで、弱くて、壊れている、決して勇者足り得ない男だ。
しかし――
「なるほどな。……何とかなるかも知れん。力技だが」
――祈りは、届いたと言ってよかった。