第二十八話 虚無の砂漠
気がつくと、アランは全く知らない場所に立っていた。
ザリ、と足元で砂が揺れ動いた。足元を見ると、一面、灰にも似た鈍色の砂が広がっている。
空には蒼。地には灰。それ以外なにもない。多少の起伏はあれど、それこそ空と地が交わるずっと向こうまで、蒼と灰だけがそこを支配していた。
ここは、という疑問は思い浮かばなかった。それ以前に、剣が無い、と思ったからだ。周辺を見回してみるが、どこにも無い。
ずっと持っていた安物の剣も、それが変化した燻る巨剣も、分不相応な王なる銀の剣も無い。鞘も見当たらなかった。よく見ると、体を見下ろしても傷が見当たらない。あれだけあった生傷が一つ残らず消え去っている。
正真正銘、なにもない。ただ一瞬周りと自分を見渡しただけで、彼はその印象に囚われた。
ぐい、とこめかみに手を押し当てる。思い出せる記憶は、腐肉の山、そしてその中から見えた巨人。魔族が相当な気まぐれを起こさなかったのであれば、もう死んでいるはずだ。
走馬灯のようなものだろうか、と彼は結論付けた。
人は死ぬ時――無論、死んだ事のある人間など居ないのだから、あくまでも説としてだが――これまでの人生が風景のように連なって見えるのだという。
これがそうだとしたら、とアランは改めて地平線まで続く灰の砂漠を見つめた。寂しいものだ、と自嘲する。
乾いた灰のような大粒の砂。そして、それに似つかわしくないほど澄んだ、蒼い空。それだけが延々と連なり、つながり、続いている。
人も建物も、あるいは積み上げて来た屍も、必死で覚えた幾百の物事も、あるいは死に物狂いで追い求めた隣人も――ここには居ない。今まで生きてきたアランの回想がこれなら、それはあまりにもむなしい。
どうしようもなく寂しくなり、アランは衝動に突き動かされるままに歩き出す。ザリ、ザリ、と足が灰色の砂を掻き分けて進む。
しばらく歩き続けて、なんとなく気疲れした彼は、そのまま倒れこんだ。
終わったのか。ぼんやりとした頭で、無意識にそう考えた。俺の戦いは終わったのか。いや、終わったのだろう。
おしまいだと思えば、幾分か機も楽に感じた。もうあの苦しさに苛まれる必要も、心に抱えた闇が、自分を蝕む事もない。なにもない灰の砂漠の中で、彼は不思議と自由だった。
けれど、アランは不意に思いなおす。本当に?
――本当に、終わって良いのか?
勇者は――親友は、まだ戦っているだろう。戦いの最前線で、勇者隊と共に、その聖剣を振るって魔王軍へ立ち向かっているはずだ。
カーラとシスターは、きっと孤児院の建て直しで忙しい時だろう。苦しい時だからこそ負けていられないと、彼の知るカーラなら、笑って今と戦っている。
不思議な友情で結ばれた、エルフとドワーフはどうしているだろう。悪魔の脅威を退け生き残り、エルフの里の中で、今もまだ二人仲良くやっているのだろうか?
誰しもが生きるために戦っている。自分は? 自分はどうだ?
本当に、"生きるため"に、戦ってきたか?
意味の無い事だ、と彼は自嘲した。今何を考えようと、どう足掻こうと、自分は死んだのだ。もう無駄なのだ、と自分自身に言い聞かせる。もう戦わなくていいところに来たんだと。
死んでしまったら、全ては終わった事になる。名も、金も、狂気も、全ては消え去るのだ。そうでなければならない。そうでなければ、戦ってきた理由がない。
――この胸の痛みがいえないのなら、死ぬ理由がどこにある?
そうだ。またアランの瞳に、暗い光が宿り始めた。まだ痛むのだ。この心が穴に耐えかねて、その痛みに叫んでいる。何故だ?
ここが終わりではないからか。
無言のままに立ち上がる。そうだ、きっとここはまだ、終わりではない。捜し求めた、約束の地ではないのだ。なら、歩みを止める意味はない。
何もかもが終わる最果ての地。その最果てへとたどり着く為に、全てをなげうって歩いてきたのだから。アランは完全に狂った思考の中でそう考え、一歩前へと踏み出した。
すると、その思考の変化に伴って、どこまでも続くかに思えた灰の砂漠にも変化が現れた。雲ひとつなかった空がガラスのようにひび割れ始めたのだ。
崩壊を始めているらしい。彼に残った僅かな理性が静かに呟いた。
行こう。道が続く限り、歩き続ければ、きっと何処かへはたどり着く。アランは歩き始めた。
灰色の砂を踏みしめて、歩く。空からは、剥離した青空の破片がこぼれ落ちては、灰の砂漠に突き刺さっていく。急激に変化を始めた世界を、彼は行くあてもないままに、彼は無言で歩き続けた。
すると今度は、アラン自身の体にも影響が出はじめる。空と同じように、次々にひび割れ始めたのだ。
最初は胸から、徐々に体全身へと広がっていくひび割れを感じながら、それでも彼は歩みを止めようとはしなかった。愚直に、どこまでもまっすぐに。それが、剣の才を持たなかった彼に出来る、唯一の方法だった。
ひび割れ、壊れ始めた体を引きずるように、アランは進んだ。進み続けた。空はもはや、深淵のような闇の形相を露にしており、灰の砂漠はその姿を荒野のような姿へと変貌させて行く。
全てが崩れゆく虚無の砂漠の向こう側で、彼は終に、それを見つけた。
それは黒い穴だった。光を吸収することなく、闇を凝縮したかのような有様で、そこに佇んでいる。その黒い穴を中心に崩壊は始まっているらしかった。おぞましいほどの冷気がその穴から漂ってくる。
それがなんなのか、彼にはとんと見当がつかなかった。だが、それがこの砂漠に終わりをもたらす何かなのだという事だけを直感的に理解する。
ふと、彼の脳裏に、勇者の顔が浮かぶ。親しき友の顔だ。もう二度と会うことはない友の顔である。
しかし、彼の心へ穴を穿った張本人たるレイルの事を思い浮かべても、もう苦しさは無かった。不思議と、納得に似た何かがアランの中にあった。
レイルに依存するアランは、もうどこにも居なかった。生きた体を失った彼に残ったのは、心の奥底でかすかに生き延びていた、小さな頃のアラン。アラン自身。
戦いの才なく、強き心も持たず、輝かしき絆も持っていない。それでも、あいつを助けてやりたいと純粋に願った頃の彼。
この世界にたった一人の、何者でもない、アランそのものだけが残っていた。
「ああ、行こう」
誰ともなく呟くと、彼は迷う事無く、黒い穴へと飛び込む。
その瞬間、砂漠は真っ黒な深淵へと飲まれて消えた。