第二十七話 英雄になれなかった男
駆ける、駆ける、駆ける――
度重なる負傷と栄養の不足で鈍重になった体に鞭をうち、もはや面の攻撃と大差ない巨大な拳を避け、投げつけられた瓦礫や死体を避ける。
そうしたまま、攻撃に移る機会をうかがう。しかし、腐乱巨人は巨体、ゆえにリーチ差は顕著であり、向こうはこちらが踏み込む間に二発は拳をたたきこめるだろう。
その大きさと鈍重さによる隙を打つことも、その肩に立っている魔族の魔法とボウガンが許さない。
ならばと飛んできた拳に燻る大剣をたたきつけるがしかし、人の身に過ぎないアランの力など、腐っても巨人たるその怪物の膂力には適わない。
一瞬のうちに態勢を崩されたアランに、すぐさまニ撃目のこぶしが襲いかかる。咄嗟に大剣を掲げて防御したが、その力に押し切られ、彼の体が宙に舞う。
なんとか身を捩り、再び地に足を着ける。
戦況は絶望的と言っていい。
軍で勇者隊として戦っていた頃とは違う。アランは一人きりで、装備も碌に無い。援軍は来ない。最強の"勇者"は、最後の希望は、もう彼のことを助けには来ない。
ギリ、と奥歯を噛み締めた。
――だから、何だ。
僅かに残り火を纏った大剣を、ぐいと握る。弱気になりそうな心を押さえつけて、アランは獣のように叫んだ。込められた力に呼応するようにして、剣がゴウと火花を散らす。
蝋燭のように天命を燃やし、二度と閉じられぬほどに目を見開き、ただ火の続く限り剣を振る。そうでもしなければ、まともに戦うことすら出来なかった。
再び飛んできた拳を跳躍して回避。
そして宙を舞った彼の背に飛んできたボウガンボルトを、大剣をふるって無理やりに姿勢を変え、避ける。
落下しながら、腐乱巨人の肘目掛け、大剣を叩きつける。地に足がついていないために、いささか威力に欠けたものだ。しかし剣にこびりついた炎は地に足が着いていようと無かろうと関係ない。
悪魔の炎がうねり出す。分厚い板のごとき刃の内側から、まるで生きているかのような火の舌先が腐乱巨人の腕を舐めた。
巨人は痛がる素振りも見せず、剣を取り込むように周りの腐肉が動く。だが、腐食よりも燻る剣が焼く方が早い。アランの持つ剣からは溶岩を思わせる熱量が発されているのだ。
それが悪魔を取り込んだ結果なのか、悪魔が剣になった結果なのかは分からないが、少なくとも今、これ以上に有効な物は無い。
そのまま腕に落下すれば、腐乱巨人の持つ不可思議な腐食の力に耐性の無い生身では到底耐えられない。アランは巨人に突き刺さった剣をそのまま振り抜いた。
巧みに体重を乗せて振り、巧みな踏み込みと合わせることでごまかしてこそいるが、その剣の重量はアランよりもずっと重い。結果、強くめり込んだ剣を抜くほどの力は空中では発揮できず、アランの方が動く事になる。
それこそが彼の狙いだ。回転によって勢いのついた使い手に引っ張られ、剣もズルリと腐乱巨人から抜ける。攻撃を叩き込んだ巨人の腕には、黒い焦げ痕が大きく付けられていた。
どうにか再び地に足をつけた彼は、再び巨剣を担ぎ直し、また走り始めた。たいしてダメージを食らった様子も無い巨人が、それに追いすがるべく動き出す。
まともにやりあうのでは力の差に押しつぶされて負けるだけだ。
勇者であれば、聖剣の力で腐食を抑え、対巨人の正攻法で戦えただろう。"魔法使い"なら、遠くから殲滅という考えもできたはずだ。"怪力無双"が居れば、腐食など何するものぞといわんばかりに正面から殴りあったに違いない。
だが彼はそのどれも持っていない。凡百の剣士であり、なんの加護も無く、ましてや魔法など使えるべくも無い。それを補う仲間も居ないのだ。
あるのはせいぜい、蛮勇と知識、それらを生かせる魔気発露。ならばあるものでやりくりする。彼は何時もそうやって来たのだ。今も、やってやれない事などあるものか。
拳が打ち出されるたび、それを避け、攻撃する。かするだけで致命傷になりうる拳が、真横を通り抜けていく。本来ならば足回りを攻撃し、倒れた所へ最大火力を叩き込むところだが、たった一人の今、それもできない。
安全策を取れないのであれば、そんなことを考えるだけ無駄だ。飛んできた拳を転がるように跳んで避け、起き上がり際に剣を叩き込む。
幸い、この火の悪魔を宿したらしいこの巨剣は、やたらめったら頑丈だ。何度たたきつけても折れそうには思えない。武器があるなら、やりようはある。
しかし、飛び退ろうとしたアランの足元に、ボウガンのボルトが飛来する。それは彼の足には直撃しないコースだったが、しかし、怯ませるには充分。
咄嗟に修正しきれず、ずれた半歩に巨人による追撃の拳が襲いかかった。
剣を挟みきれない。
嫌な衝撃音とともに強く吹き飛ばされた彼は、そのまま離れた場所にあった死体の山へと凄まじい勢いで突っ込んだ。
腐肉と、白骨を押し分けて、深く深く沈む。
鈍い痛みが断続して、体全身を襲っている。しかも、積み重なった死体の重量に対抗できず、ぴくりとも動く事ができない。腹が押しつぶされる。うめき声を漏らすので精一杯だった。
腐肉の隙間から、巨人が近づいてくるのが見える。一歩、また一歩、確実にこちらを殺すために歩いている。
動かなければ。そんな無意識的な考えが彼の手を動かそうとしたが、もはや自分の手も見えない。襲い来る鈍痛の波の前に、剣を握っているのかすら分からなかった。
万事休す、と言うべきか。それとも、年貢の納め時、というべきか。少なくとも、彼が打てる手はもう無かった。
それでも彼は、水の中でもがくかのように、ぐちゃりとした腐肉を蹴り、風化した骨を砕き、必死に足掻いた。鋭利な骨が裂き、皮膚に傷が入る。
生きたいわけではなかった。だが、死にたいわけでもない。
どれだけ深い傷を負っても、心に穴が開いても、彼が生まれ育った世界はここなのだ。碌に親孝行も出来ぬまま死んでしまった親から貰った、一つきりの命なのだ。無為に投げるつもりは無い。
それに――あの心優しい友人が、どんな顔をするのかも分かっていた。
だから足掻くのだ。生きる気も死ぬ気も無い。ましてや、救われる気など毛頭ない。それでも、死ぬまで生きようと、そう思って今まで生きてきたのだ。
しかし、だからと言って、勇者が都合よく助けてくれるわけではない。神が偶然助けてくれるほど、彼は英雄ではなかった。
奮闘むなしく、彼はその暗い闇へと、意識を落としていった。