第二十六話 腐乱巨人
ひゅう、と乾いた風が吹いた。砂塵が巻き上げられ、アランは無言で目を細め、砂から目を守る。
ユーベルハイド古戦場――人魔ともに大きな被害を出し、その果てに休戦という結果になった、稀有な戦場の一つ。彼はその中をゆっくりと歩き出した。
足元には壊れた武具の類が散乱している。それらを避け、時には靴よりも硬くなってしまった足裏で踏み砕きながら、アランは戦いのことを思い出していた。
ここで一人しに、ここで二人殺し、ここで一撃食らった。一歩歩く度に、戦場での記憶が思い起こされる。それはあたかも、幽霊にでもなって、かつての戦いを見ているかのようでもあった。
彼自身自覚していないが、その記憶力こそが彼の持つ力の中でも最もたるものであった。
覚えたと自身で感じとったものは全て、必要になれば引き出せる。人の記憶が戸棚だというのなら、彼の戸棚は全て几帳面に整えられ、帳簿が付けられているといえば分かるだろうか。
その能力は賢者にこそ最も必要とされるもの。本の無い寒村で生まれたのが、彼の人生の分岐点だったといっても過言ではない。
アランは剣を肩に担ぎながら、全てを鮮明に思い出していく。
――そう、たしか此処にきたところで――
振り返りぎわ、アランは肩に担いでいた燻る大剣を振り抜いた。もはや刃が分厚すぎて長方形の板に――つまり鈍器に近い形状のそれが、彼の背後に立っていた何かを吹き飛ばす。
それは、あたかも人骨が立って動いているかのように見えた。だが、もはや鈍器たるその特大剣を受け、動く骨は剣を振り下ろす時間すらなく粉々に砕かれる。
動人骨――不死なる者の名かでは最も一般的かつ、最も数の多い類の怪物だ。名の通り、人の骨が動き出し、人に害をなすようになったものをさす。
頭部に存在する核を砕かなければ、ゆっくりと接合し、回復してしまう。ろくに生死確認の出来ない戦場では致命的なほどの特徴だが、しかし全身の骨と言う骨を砕かれ、さすがに復活できなかったらしく、動く気配は無い。
そして再び振り向いたディロックは、極物静かな顔と声色のまま言葉を吐いた。
「出てこい、魔族。居るのは分かっている」
いかに謎の多い不死なる者といえど、分かっている事はある。例えば、人の屍骸がある場所にしか出現しないことや、ある程度時間がたたなければ出ないこと、そしてしっかりと埋葬された死体からは出ないこと。
たしかに此処は古戦場だ。埋葬されていない死体など山とある。そして長らく放置された死体も、また同じくある。
しかしながら、彼が通り過ぎた瞬間、突如としてただの骨が不死なる者となるなど都合が良すぎる。少なくとも彼は、その様な事例を耳にしたことがなかった。
なら、信じられないことだが、それを引き起こした何者かがいるのだろう。あるいは突如として不死なる者になる稀有な例だったとしても、彼には関係なかった。
何も無かったように見えた死体の山の上に、突然、その姿は現れた。
血のように真紅のマントローブ。今は隠していないそれは、こうもりやドラゴンのものにも似た、魔族の翼である。
「……またあった、というのも少し不思議な表現になるか、哀れな男よ」
積み重なり、折れ重なった死体の上に立った魔族の男は、どこか他人事のようにうそぶいた。無表情なままのアランとは正反対に、男はしかめっ面をしていた。
比較的――人の基準で言えば――年若い顔をした魔族は、アランが剣を構えないのを見て、また口を開く。
「何故私の邪魔をする? お前にとって、もはや人を守る理由もあるまいに」
それに対しアランは、さてな、と呟いた。何日かぶりに初めて発した言葉だった。
何がしたいのか。その問いに対して、彼は明確な答えを持っていない。あてどもなくさまよい、衝動的に悪魔を殺し、酷使によって人よりも早く死に行くであろう体を引きずって、ただ惰性で剣を振るっていただけだ。
曖昧な返答に、魔族は顔をしかめて溜息をついた。だが、まだ戦うという気はないのか、いまだ死体の山の上で彼を睥睨していた。
「まぁ、いい。お前の行動原理など……お前は敵。それだけ分かれば良い」
自分に言い聞かせるように呟いて、魔族はアランから視線を外した。と同時に、魔力のうねりを感じて、アランは燻る大剣を構えた。
ズグ、という異音。
死体の山が蠢いている。元の人の形を忘れて、液体のように変化し始めたそれは、ゆっくりと山の中央に集まりだす。
死体の山だけではない。周りにあった腐乱死体、白骨死体、全てが吸い寄せられるように液体と化して、屍の山に過ぎなかったはずのそれは、見る間に腐臭を放つ巨大な怪物へと変貌した。
大きさはおよそ、十メートルほどになるだろうか。以前ユーベルハイド古戦場に現れた動巨人骨がおよそ八メートルほどだったことを考えれば、彼が見た中では最大の不死なる者となるだろう。
巨大な腕。巨大な足。それに比例して桁違いに大きな胴体と頭。全てが人間を何倍にも大きくしたかのようなどこか滑稽な姿で、顔のあったはずの頭部には、真っ黒なばかりの穴が四つ開いているだけだ。
身じろぎする度に体を構成している腐肉が落下して、異臭を辺りに撒き散らす。蝿が凄まじい勢いでたかっているが、怪物の体に触れた瞬間、全ては腐り落ちて死んだらしい。あっという間に蝿の一匹も居なくなった。
――腐乱巨人。彼の覚えている中で同様の怪物は居なかったが、この怪物に名をつけるとするならば、それが最も正しい表現だろう。
腐り落ちる巨人は、比較すればアリのような大きさに過ぎないアランを、威嚇するように吼えた。
「ヴォオオヴァアアアア――ッ!」
空気がゆれ、轟音が彼の耳を強かに打ちつける。思わず顔をしかめながらも、しかし彼は、燃え燻る大剣を両手でもち、大上段に構えた。
どう考えどう見ても、無謀な戦いだった。魔族はそれをあざ笑う事もなく、中空に己が翼で浮かび上がりながら、彼に向かって冷ややかに死を告げた。
「元"狂戦士"アラン。誇りもなき惰性の戦士よ、ここで死ね」