第二十五話 襤褸の騎士
襤褸を纏い、腰に見事な大剣を佩き、肩に巨大で分厚く、禍々しき剣を担いだ男が歩いている。その男は素足であったが、かちり、かちりとかたまりきった足の裏が、まるで石のような足音を立てていた。
全身は古傷、生傷を問わず傷だらけで、悪化した火傷の痕がくっきりと腕に残っている。ふらふらと歩くその姿は、大柄な男だというのに今にも倒れてしまいそうだった。
その男――アランは、赤い魔族を追ってエルフの里を去り、もう二週間が過ぎていた。ろくに怪我を処置することも無く、ただ道中の水を啜り、怪物の肉を食らって飢えを満たし、あてもなく痕跡を追い続けていた。
だが道の途中、痕跡はどこにでもあったが、肝心の魔族の姿が何処にも無い。カーラとシスターが居た町の時のように何か陰謀をたくらんでいるわけでも、エルフの里の時ように何処かを襲おうとしている訳でもない。
しかし居た、見たという痕跡だけが残り、それを頼りに追いかけ、アランはただただ西へと歩いていた。
まるで誘い出されているようだ、と彼は歩きながら思った。冷静に考えれば、それは餌で出来た道にも見えた。その先に待ち構えているのが魔族自身なのか、彼にはとんと検討など付かない。
罠だったとしても、アランには関係なかった。彼はもとより、自分の命など風前の灯がごときものだと考えており、何時消えようと構わないと思っていた。
レイルの助けとなれなくなった時点で、彼の人生とは終わっていたのだ。それほどまでに、アランにとって"勇者"レイルの存在は大きかった。
――あるいは、迷惑だったのかもな。
そう考えた瞬間、胸を圧迫するような痛みが訪れ、彼は思わず開いた左手で心臓のあたりを押さえた。
辛い事だ。レイルは、自分には到底、手の届かない場所の人間だった。それを認めるのが辛く、苦しく、そして悲しかった。この穴はふさがらないのだと思うと、いっそう、その穴が空虚なものに感じる。
泣く事は無い。涙はもう枯れて、心といえる心もあらかた干からびた。あるのはただ、剣を振って怪物を殺し、何もかもを忘れようとする、ただのアランだけであった。
情報を得るべく町に寄ったアランは、入ってすぐの所に居た露店の男に話しかけた。
「赤いローブの男? ……ああ、そういや見たな。つい昨日だ」
そうか、とアランは呟く。やはり魔族は一直線に西に向かっていた。ここから西には何があったかと考えたディロックの脳裏に、地図が思い浮かぶが、ここより西側に街は無い。精々、ぽつぽつと村が点在するぐらいである。
ふと脳裏に激しい戦いの場面が浮かぶ。
――そうだ、この街は来た事がある。
かつて、勇者隊としての栄誉を受けていた日々の中で、此処を通り、戦場へ向かった記憶がある。また胸が少し痛んだが、目的地は分かった。ユーベルハイド古戦場。
またの名を"血塗れの夕焼け"と呼ばれた戦いで、魔族、人族ともに多くの戦死者を出した戦場の一つだ。それは、悪魔でも人でもなく、ましてや悪魔ですらない、不死なる者が出たからに他ならない。
不死なる者――"血塗れの夕焼け"の時に出たのは、巨大な人骨の怪物だった――は、いまだ謎の多い化け物であり、種族の見境無く殺すだけの怪物だ。
あの時ユーベルハイドの戦場に出た怪物により、魔族被害は知れるだけで三千以上、人族被害は一万に及んだという。
最終的に、敵魔族将と勇者隊が一時結託する事でこれを撃破、互いに一時休戦として引いた数少ない戦の一つでもあった。
そこに誘導するという事は、マントローブの魔族はあるいは、"血塗れの夕焼け"を経験した者なのだろうか。あるいは、ただ広いから選んだだけか。そう思案するアランに、露店の店主が話しかけた。
「なあ、俺、あんたの噂、聞いたことあるぜ」
「……」
アランは答えない。そもそも、自分の噂など聞いた事もない。街や村に近づくのは極々最低限であり、噂を聞けるような長時間、滞在する事は無かった。
その沈黙をどう受け取ったのかは知らないが、店主はなおも続けた。
「人知れず闇を狩り、さまよう騎士……布切れを纏い、剣を振り、人に仇なすを切るのみ、なんて陳腐な歌だがな。ここいらじゃ有名だ、割とな」
あんたがそうなんだろ? と男は彼へと問い掛けるが、アランは依然として黙ったままだった。しかし、背を向けながらも、その場を立ち去ろうとはしない。
自分の名が気になったのではない。自分の歌が気になったのではない。だが、その足はアラン自身でさえ分からない理由で止まっていた。
「"襤褸の騎士"さんよ。あんた、なんでそいつを追ってるんだい」
なぜ。その言葉に、彼は自分の足元を見た。泥と土だらけの、固まりきった足が見える。それ以外にはなにもない。なぜ追っているのか。その問いに、アランは答えることが出来なかった。答えなどないからだ。
忘れたいだけだった。胸にぽっかりと開いた穴が何時かふさがるのを信じて、それまでその穴の痛みを忘れる為だけに、アランは戦っていたのだ。そこに、信念も、理想も、現実も、なにもない。ただの逃避と依存でしかない。
そこまで考えた時点で、彼はふと、自分の足が止まった理由を思いついた。そして苦笑する。
何もなかったその道に、名も知らない誰かが花を植えただけだ。
たとえ誇張で出来た紙の花でも、アランはそれに縋りつく事が出来ただろう。それを誇れば、勇者レイルの隣という居場所を失ったアランの、穴を塞ぐだけのことはきっと出来たはずだ。
立ち止まって、その花を抱えてゆけば、楽になれる。無意識的にそのことに気付いたからこそ、彼はそこで立ち止まったのであった。
だから、アランは笑った。笑って、笑って、笑った末に、人違いだと店主に告げた。
「騎士なんて柄じゃないさ。俺は、ただの戦士だ」
そう。愚かで、惨めで、傷だらけで、壊れている。立ち止まる事など許されない。誰に許されないのかといえば、他ならぬアラン自身によってである。
自分に居場所などないのだ。この細く、曲がりくねった道のほかに、歩いていい場所などない。妄信的なレイルへの親愛が彼に囁く。
さあ、歩け、と。
一言礼を言って、彼は一路西に向かって歩き出した。目はうつろで、気配は今にも倒れそうなほどおぼろげで。
アランの中の親愛が再び、彼自身へと囁いた。
さあ、死ね、と。