第十四話 敵前逃亡
咄嗟に木の上から飛び降りたアランは、怪物の腕を切り落とした勢いのまま、怪物の体の上に着地した。重力を伴った凄まじい衝撃に、怪物の上半身がそのまま地面にたたきつけられる。
彼は揺れる足場たる怪物の上でも取り乱すことなく、その剣を振り上げ、振り下ろした。込められた魔力によって燐光を伴ったそれが、怪物の背を裂いて血を迸らせる。
怪物が叫んで、背中の青い触手を振り回したが、それよりも一瞬先に彼は地面へめがけて飛び降りていた。
音こそ立つが、その着地は見事な物だ。彼にしか、という芸当でこそ無いが、相当な場慣れが必要な物だ。誰でも出来る物ではない。
怪物は、突如として自分に激痛を与えてきた相手に向かって大きく叫んだが、アランは大して驚く様な事も無く、ひょいと大剣を肩へ担ぎ直した。
――少し遅かったが、まぁ隊長格が生きているだけ充分だろう。
壊滅寸前の部隊に一瞥をくれると、彼はすぐに正面へと向き直った。
死体色の肌をした怪物は、一本の腕で切り落とされた腕を押さえながら、彼に向かって威嚇を続けている。開かれた口からは細長い舌がちらちらと姿を見せていた。直視するには、あまりにおぞましい。
しかし、アランは特に何も思うことなく、頭の中で記憶を手繰っていた。
他大半の戦う者達にとってもそうだが、彼にとって情報とは即ち武器だ。
かつて戦いを共にした勇者隊の者達は、特に人族の希望足りえるほどの実力を持っていた。その為、それらに者を言わせて情報がおろそかになることは良くあった。
残念ながら、勇者隊には賢者の名を受けた隊員は居なかった。強いて言えば魔法使いと呼ばれた長耳が最も博識ではあったが、怪物に対しての知識はあまり無いようだった。
故に、彼は魔物の知識を得る事を最優先とした。剣を振る時間に様々な本を読み、体を鍛えるかわりに伝承を学び、怪物という怪物の情報を殆ど頭に詰め込んでしまったのである。
中には記憶の薄れた物もあるが、大半の怪物は把握していた。
そうして覚えた知識の中に、はたして、その怪物の名はあった。
腕を遮二無二振り回すような乱雑な攻撃を転がって回避しながら、アランはその名をつむぎ出す。
「沼食いか」
湿気の多い地域、主に沼地に生息し、植物も動物も食らう雑食性の怪物。絶対数は少ないが、沼へ産み落とされた幼体がその周辺に存在する全ての生き物を捕食してしまう為、生態系に著しく影響を与える生物でもある。
雷に耐性こそ持っているものの、魔力を帯びた攻撃でないと受け付けないような、厄介な類ではない。そのことだけ分かればアランは問題なかった。
三本の腕がまとめて振り下ろされんとした刹那、ディロックは真横に飛び込む様にしてそれを避けると、沼食いの腕が地面に触れるより一瞬先にその腕へ向けて大剣を振りかぶった。
沼食いの腕は、その膂力と巨体に見合わず細い。見た目よりも硬いが、それだけだ。切断の難度は大した物ではない。
鋭く振り抜かれた大剣は、ぼんやりとした赤色の光を纏っていた。魔力の光だ。
世界には魔族と、人と、動物、植物、そしてそれ以外の怪物に分類される。怪物の中には魔力を帯びた攻撃でなければ無効化してしまうような埒外の存在まで居る始末だ。
いかに戦士が強靭とて、そういった手合いに対しては、魔法使いの助けがなければどうすることも出来なかった。
そして、ある孤高なる戦士が編み出したのがその技――体内の魔力を練り上げ、手を通じて武器へと宿らせる、魔気発露。魔法ならざる、魔なる技の一つである。
それらから派生したいくらかの技があるものの、彼はそれらの扱いにあまり長けていない。生来より魔力の量が少ない為、著しく力を消耗し、あまり鍛えていなかった結果だ。
しかし、魔力に耐性を持たない怪物に対しての使用であれば、初歩の初歩であろうとも、充分に有効な技である。
ゴウと風を裂いて迫るそれに、回避しようとした沼食いだったが、しかしそれは適わない。アランのそれは、攻撃後の硬直を狙った巧みな一撃だった。
大剣は吸い込まれるように怪物の肩へと振り下ろされ、圧倒的な威力を持って片腕を切り飛ばした。しかしそれだけにとどまらず、大剣はそのままの勢いでもうやや下に生えていた片腕をも切り落とした。
一瞬のうちに三本の腕を失った怪物は、その苦痛に耐えかね、耳障りな絶叫を上げながら暴れまわり始めた。
それは咄嗟に、アランという脅威を追いやる為の行動でもある。魔法も使えないただの剣士たるアランに、沼食いは本能的に恐怖を覚えたのだ。
その巨体と重量で不規則に暴れまわられるのは溜まった物ではない。運悪く自分の方へ飛んで来たら、間違いなくひき肉になる事が明らかだからだ。アランはすぐさまその場から脱した。
沼食いはアランが遠ざかった事を知ると、すぐさま片手だけで這いずり始めた。腕を三本も落とされたのだ。たった一人、自分より遥かに小さな相手とはいえ、侮れる筈も無い。
腕は怪物特有の再生能力で、遅かれ早かれ生えて来るにしろ、今この場で殺されてはそれも適わない。大した知能を持たない怪物である沼食いでも、生存本能がそう訴えかけていた。
一本の腕で巨体を引きずって逃げきれるかは怪しいところであったが、それでもこのまま戦いを続けるよりはまだ目がある選択肢だったと言える。
アランは追撃を掛けるか迷ったが、周囲に動けない長耳の兵士に気づいてやめた。先ほど怪物が暴れ回ったとき、余波を受けたのだろう。
直撃こそしていないようだったが、腹を抑えてうめき声をあげるところを見るに、内臓にダメージが行っているのかもしれない。
他何名かも程度は違えど負傷しており、下手に彼が深追いして、もう一度沼食いが暴れれば致命傷を負うことは明らかだ。
腕三本を失くした怪物の始末と、名も知らぬ長耳の兵の命。それを天秤にかけた結果、彼は攻撃を取りやめたのであった。
彼は無言のうちに剣をひょいと肩に担ぎ直すと、巨大樹の森の奥へと消えていく怪物の後姿をじっと見守った。こちらが背を向けた瞬間に突撃してこられてはたまらない。
ただ、沼食いにもそれほどの余裕は無く、全速力で逃げていた。僅かにうめき声のような物をもらして、怪物はあっと言う間に視界から消えていった。
残されたのは、重傷の長耳が何名か。それと、軽傷、あるいは無傷の巡回兵。呆然としたように上半身を起こしたユリン。そして、全身が怪物の返り血に塗れたディロックが立ち尽くすばかりだった。