シャットアウト
この小説は全くのフィクションです。
昼下がりのファミリーレストラン。窓際の席で二人の女性が向かい合っている。片方の女性の奥、もっとぎりぎり窓際側――もしかしたら二階の窓の外にいるんではないかと思われるほど端っこ――で、ぼんやりとさらに表を眺めている男がいる。隣の姉のおしゃべりにつき合わされている彼は、もう慣れっこという感じで階下を通る人の波に思いをはせているように見える。
「もううんざりよ」
姉ではないほうの女が履き捨てるようにいう。
「カレシ? あんなにラブラブだったのに?」
姉はストローで紅茶をすすりながらたずねた。聞かれたほうは待ってましたといわんばかりに話し始める。
もう本当にうるさいのよ。酔ったら同じ話ばかりするし。何度も聞いてるから
「ああ……それからこうなるんでしょ?」とかいうとさ、
「最後まで聞けよ」ってちょっと怒り気味になって、同じ話をさも初めてするように話すのね。選ぶ言葉も殆んど同じように。それからこういうわけよ。
「お前は本当に人の話を聞かない」だって。聞いていないのは、そっちじゃない。その話、前も聞いたって何度いっても忘れてるし。他にもさ、私って突然の予定変更とかに対応できないじゃない? それも何度も何度も話してるのに全く無視なわけ。ほんと、自分の話しかしないさ。こっちが仕事の愚痴でもこぼそうもんなら、理由も聞かずにお前が悪い、よ。そのくせ彼の愚痴にちょっとでも反論したときには、わかってないとくる。お話にならないわよ。
一番腹立つのはさ、一緒に洋画を借りてきてみてるときなんだけど、薀蓄たれるのよね……
え? 私が映画専攻で大学行ってたってこと? もちろん知ってる……はずよ。話したもの。でも覚えてないのか、だからこそ議論を吹っかけてくるのか……この前なんかあんまり的外れなことばっかりいうから頭にきて、
「それは誰の著書からの引用?」って聞いてみたんだけど、全くの雑学なのよね。どこで誰から仕入れた情報かすらわからないの。そこまで好きならちゃんと調べれば? っていえば、
「本は読まない」って始まって、インターネットでの検索をすすめたら、やれパソコンがない、操作がわからないって。最終的になんていったと思う?
「お前が調べて教えてくれよ」だよ? 聞きやしないくせに。本当にうんざりだわ……
すべてを吐き出した女は幾分すっきりした顔で自分の目の前のグラスにささったストローに口をつけた。そして十分に喉を潤した後つぶやいた。
「そういうときだけ音を遮断するヘッドフォンとかあればいいのに」
「あるよ」
全く話を聞いていなかったような弟が、のそりと振り返った。頬杖をついたまま向かいに座る女をみる。姉はあきれたように弟をみた。
「あんた、また適当なこといってるんでしょ」
「嘘じゃないって」
姉は嫌悪感をあらわにし、手をぶんぶんと振ってみせた。
「この子のいうことまともに聞かないで。こないだなんかダイエットサプリだっていってずっと私にビタミン剤飲ませてたんだから」
「あれはちょっとした実験したんだよ」
「なんの実験よ」
「呪い」
姉はさらに眉間のしわを深くして、弟をにらんだ。そして女のほうを向くと
「ちょっとお手洗いにいってくるけど……この子のいうことまともに聞いちゃだめよ」と席を立った。
女は姉の言葉とは裏腹に、輝いた目をしていた。そうして、たいして人のいない店内にもかかわらず、弟に顔を近づけて小声できいた。
「本当にそんなものあるの?」
「ありますよ」
彼は何がはいっているのか、不恰好に膨れたバックパックを慣れた様子でかき回し、小型の補聴器のようなものを取り出した。
「……痛い?」
女は短いコードの先についている針金の部分を指差してたずねた。
「ううん。ここは耳の内側に貼り付けるところだから」
「どういう仕組みなの?」
「まぁ、汗や心拍や微弱電気や……そんなところからストレスを測定して音を遮断するんですよ。かなりのストレス値にならないと完全に遮断されないけれど」
女は器具をじっと見つめていた。
「使ってみてどうだったか教えてくれるなら、お貸ししますよ」
弟の言葉に女の喉が動いた。
三日後、女に呼び出された弟は、同じテーブルに女が座ってこちらに手を振っている様子をみて訝しく思った。あまりにもすがすがしい表情をしている。彼の予想とは違った反応だ。席に着くなり、
「何か飲む?」と店員を呼んだ女の声はあきらかに弾んでいる。彼はコーヒーを頼み、女の前に座った。女は鞄から大切そうに器具を取り出し、テーブルに置くと、
「これ、ありがとう。お返しします」
感謝の言葉に続けて実験結果を話し始めた。
昨日彼から電話があって……彼の部屋で映画を見ることになったから使ってみることにしたの。彼は仕事で遅くなるからって、私がチョイスした映画を持って行ったんだけどね。耳の中に針金を貼り付けるのにはちょっと苦労したけれど、それ以外は平気だった。でね、彼が帰ってくるまでにいろいろ試してみたの。ごめんね、信じてないわけじゃないんだけど。
息を止められるだけ止めてみたり、大嫌いな著者の小説を読んでみたり。夕食にはお魚をさばいたわ。あの目玉がいやなのよね。じっとこっちを見据えているようなあの視線が。それでも「これは実験だ」って思ってやってみたわ。でも全く効果がなかった。ときどき小さくチッていうような機械音が聞こえるだけで。あとは耳に何か入っているっていう違和感? すべてがこもって、心拍音がちょっと大きく聞こえるような、それがあっただけだった。
もっといろいろやってみたかったんだけど――ほら実験に付き合うってことだし――彼が帰ってきちゃったの。だから何事もないような顔をして食卓の用意をして。すぐに部屋着に着替えた彼が向かいの席に座った。片手に缶ビールを持って。いつもと全くかわらない風景よ。ところが。
彼が缶ビールのクルトップを開けたとき、何も聞こえなかったの。あの「プシュッ」っていう小気味いい音が、全く。それからは、無音の世界だった。彼は缶ビールをこちらに差し出して何かいった。声は聞こえなくても私にも飲めとすすめてるんだなって思ったけど、断ったら彼は食事を始めたわ。
不思議だった。音のしない世界って。彼がビールを飲みこむ音や物を噛む音もイメージではわかるんだけれど、実際には伝わってこない。口元がぱくぱく金魚みたいに動いているの。その内容は詳しくはわからない。でもなんだか小難しい顔をしているから、私も似たような表情でとりあえず頷いていたの。
自分自身、ちょっと驚いていた。だってさ、魚さばいても音はなくならなかったのよ? それよりもストレスだってことでしょ? 気づいたわ。この人といること自体がストレスになってるってことに。本当に恋愛をしている男女の間に無駄な会話なんて何もないんじゃないかって。なのに私は彼が目の前にいるだけで、何も聞こえなくなってしまったのよ。まじまじと考えた。
彼の自由奔放な……自分勝手な理論をぶちまけるところに憧れたっていうか、いいなって思ったけれどそれが今は許せない。男受けのいい女友達なんかをみてうらやましく思うところもあるけど、自分はそうはなりたくないなって一歩引いてしまう感じ? アクション映画は好きだけれど、実際にジャングルでサバイバル生活なんて真っ平ごめんって気持ちになったの。そうしたらはっきり聞こえた。生き返ったみたいに脈を打つ音が戻ってきて、その後に声が。ううん、彼の声じゃない。あれは私の声だった。胸の奥で響く感じ。頭の中にも、耳の中にも。
「別れる」
今まで自分で聞いたこともない、発したこともない断定的なきっぱりとした言葉だった。
実際に口にも出していたみたいね。その後「なんでだよ」って彼の声が聞こえた。それからは何時間も話し合ったけれど、結局いつものように話は聞いてもらえなくて「いやだ、いやだ」の一点張り。それでももう無音になることはなかった。
弟は黙ってきいていたが、女の鞄の中で絶えず携帯電話のメールか着信か、バイブレーションが起こっているのに気づいていった。
「もう返してもらって平気ですか?」
女は彼の視線の先に鳴り止まない携帯電話があることに気づき、ふっと笑った。
「ああ。しつこいでしょ? 彼からよ。恋愛なんて片方でもだめになったらもう続けられないものなのにね。でももう私は決めちゃったから。決めてしまうとストレスも感じないものよ。だから効果はないと思うし」
「そうですか……」
「全く、私は一体何をしていたのかしらね」
女は誰にでもなくそうつぶやくと、空の向こうの向こうを眺めるような遠い視線を窓の外に送った。弟もそれにならったが、彼には何も見えなかった。ただ少し茜色の部分が現れだした空が、汚れた空気がつくりだす美しい夕焼けを予感させた。
思い出したように女は自分の空のグラスをみて、腕時計を確かめた。
「もうこんな時間……ごめんね。私まだ仕事が残っていて。今度きちんとお礼するね」
そういって伝票を持って立ち上がり、ウインクした。
「いつでも実験手伝うから、またいって、発明家さん」
彼はあいまいな笑顔を作り頷いた。そして颯爽と立ち去っていく女の後姿が見えなくなったのを確かめてからつぶやいた。
「次は褒め言葉だけ大きく聞こえる呪いでもかけようか」
ゆっくりと立ちがった彼の動きに、テーブルに残された電池も入っていない集音機がころんと転がった。
「魔法」って言葉より「呪い」のほうが人間臭くて好きです。