後編
解釈の余地がある小説になっていればいいなと。
書くために生まれた。
これまでの人生、ケイは何度も自認してきた。
作るのが好きだ。
書くのが好きだ。
白紙のノートを見ると、どんな物語で埋め尽くしてやろうかと、それだけで胸が高鳴った。
ノートとペンだけで、物語は生み出せる。
その尊さに、自分は一生をかけていくだろう。
その才能が、自分にはある。
根拠はないけれど、天才というのは、いちいち物事に根拠などいらないのだ。
その日、ナナはいつも通りに部活に来た。
校舎の二階隅にある、グラウンドを見下ろせる西日差す部室で、ケイとナナは今日も二人きりだった。
文芸部には先輩はいない。
後輩も、幽霊部員が数名いるだけだ。
顧問がいうには、昔は漫画好きな生徒なども入部したから人数がいたが、いまは漫画部があるので、そちらに持っていかれているのだという。
「これ、新しいノート」
ケイは無造作に『ピエタ』を長机の上に出した。
まるであたかもいま存在を思い出したという風に。
実際は、そんなことは全くないのだけれど。
「わあ、すごい!凝ってるね!」
さすがケイちゃん、と、ナナは望む通りのリアクションをしてくれた。
「大変だったでしょ?」
という言葉に、「そんなことないよ」とケイはすまして答えた。
本当はカリグラフィーを調べて書くのに、深夜までかかったことなんて、なかったことにしておく。
褒められて、ケイの機嫌は上昇していた。
ところが。
「あ、今日はごめんね。昼休み。教室まで来てくれてたよね?」
申し訳なさそうにいわれて、ケイは息を呑んだ。
「……気づいてたの?」
「ううん。友だちが、あの子今日も来てたよ、って教えてくれたから。声を掛けてくれればーー」
「それは、ええと、急用を思い出したから!」
慌てて、ケイは言った。
間違っても、逃げるように自分のクラスに帰っていったなんて知られたくなかった。
「急用?」
「次の授業の準備、してなくて。そんなことよりーー珍しいね、ナナ。男子と話するなんて」
「そうなの!」
やけに浮ついた調子で、ナナが頷いた。
頬が赤らんで、黒目がちな瞳が潤んで見える。
教室で、女子たちがこういう顔でひそひそ話をしているのを、ケイは見たことがあった。
「椎名くんて言うの。みんなにシイって呼ばれてるんだって。わたしもそう呼んでいいって!」
興奮のせいか、脈絡のないところから話をするナナを、ケイは戸惑って見つめた。
「あ、そうだ、ごめんね?ええと、今日の昼休み、シイくんに話しかけられたの。ちょうど読んでた本が、この前アニメ化されたやつで。シイくん、そのアニメが好きなんだって!そこから、話が盛り上がっちゃって……」
照れくさそうにナナが続けるのを聞いても、ケイはなにもいえなかった。
その日から、ナナはあまり、ノートを書かなくなった。
前は何ページにも渡って、花や女の子のイラストと一緒にいくつもの詩を書いていたのが、すっかり独り言のような走り書きが増えて、ついには白紙の日も出てきた。
ケイが書く小説に対しても、前は長い感想や羨望の眼差しを向けてくれたのが、すっかり無関心で、むしろ、反応を返すのが億劫にさえ見えるようになった。
さすがに目に余って問い詰めると、ナナはため息をつきながら答えた。
「ケイちゃん、わたし、悩んでるの」
部室の窓辺で、気だるくグラウンドを見下ろしながら、ナナは月並みな恋の悩みを打ち明けた。
本当に、驚くほどテンプレートな、全国の中高生が飽きるほど繰り返してきた類の話だった。
全く理解できないなりに、ケイは思ったことを口にした。
「でも、それならむしろ、すごく良い詩が書けるんじゃないの?ナナ、前は恋愛の詩ばっかり書いてたじゃない」
恋に焦がれる少女の詩を、ナナはよく書いていた。
今こそそれが、実感を伴って書けるのではないかと、ケイは慰めのつもりで言った。
ところが、ナナは首を横に振り、
「そういうものじゃないの。本当の恋をしたら、詩なんて書いてられないよ」
なぜか酷く悔しい気分になって、ケイは反論した。
「だから!それを乗り越えて書いてこそ、いいものが生まれるんでしょう?恋だとか、将来への不安だとか、どんな感情でも、みんな創作の糧にするのが、作家ってものじゃないの?」
「だってわたしは、作家じゃないもの。ただの凡人なの」
ごくごく自然に、あっさりと、ナナは言った。
「ごめんね、ケイちゃん。わたしはもう、ここには来ないと思う」
ナナは、鞄の中から『ピエタ』を出して、ケイに渡した。
「そんな……」
ショックで固まるケイに、ナナは微笑みかけた。
「ケイちゃんも、そのうちわかるよ」
なにが、とは言わない慈悲とともに。
夕暮れの部室で、ケイは一人、パイプ椅子に座ってぼんやりしていた。
間延びした、吹奏楽部のパート練習の音が虚しく響いてくる。
ふと、窓の外に目をやると、下校していくナナの後ろ姿が見えた。
その隣には、スポーツバッグを担いだ男子生徒の姿があった。
「ナナ……」
生温い風が窓から吹き込み、ノートのページをめくった。
現れた白紙のページを見て、ケイの胸はざわめいた。
なんとなく、近い将来。
自分は小説を書かなくなるのかもしれない、とケイは思った。
ーピエタ(Pietà、哀れみ・慈悲などの意)