溺愛
ある日、乗っていた客船が酷い嵐で難破した。
そんな中で投げ出された私を助けてくれた人がいて、
それは───人間じゃなかった。
次に目が覚めた時は見知った海岸に打ち上げられた状態で、私は運良く流れ着いたのだろうと騒がれた。
民衆も、大臣も、皆が王子である私の生還に歓喜した。
違う。偶々彼処に流れ着いた分けでは無い。そう言い返したかったが人成らざる───人魚で在る彼女を説明する事が私には出来なかった。
それから数週間。
命の恩人で在る彼女が人間ならば褒美を贈ると銘打ち、捜し出す事も可能だっただろう。
しかし公に出来ない以上、その存在を知る者は私一人。半ば監禁状態で手厚い休養を取らされていた私には、彼女をただ想い続けているしかなかった。
手負いの私を狙う刺客を警戒した周りの配慮で選ばれた部屋からは、あの海岸すら見えない。
日々、彼女への想いばかりが募って行く。
そして見張りの薄くなる時間、遂に私は城からの脱走を成し遂げた。
折角助かった一国の跡継ぎだ。しかも以前より有力な隣国の娘との見合いも決まっている。
そんな王子───私の失踪を知った家臣達は今頃、血眼になって捜しているのだろう。
多少後ろめたい気持ちが沸かなかった分けでは無いが、私の足が引き返す事は無かった。それどころか、森を抜ける頃には海岸へ向かい走っていた。
海岸に着くや、私は躊躇う事なく海へと飛び込んだ。
はっきりした場所も分からない。
いっそ夢か幻かとすら思う。
そんな彼女を一心不乱に求め、ただ難破した場所を目指して、彼女の棲む世界を目指して、私は泳ぎ続けた。
しかし例えマントを外しても、王家の紋章が刻まれた短刀を捨てても、人の力には限界が有る。
力尽きた私の身体は波に拐われ、それでも浮かぶ事無く海へと沈み続けた。
死んだと思った。
彼女に溺れて死んだのだと。
でも目が覚めた。
追い求めた彼女が夢では無かったと確証付ける様に、水中なのに不自然に酸素の充満する洞窟で。
「人の子よ、何故沈む?」
不意に声が聞こえ、振り向いた先に居たのはやはり人ではなかった。
見たこともない、言うなれば化け物。表すなら醜悪。
そんな魔女が私に問い掛けていた。この時の私の心情を例えるのならば、恐怖では無く歓喜。
彼女では無いが、陸地では確実に出会えなかった彼女に近い存在に遭遇したのだから。
「私は────」
再び彼女に逢いたいと願った。
魔女は彼女を知っていた。
魔女は魔法を授けてくれると言った。
私はそれに頷いた。
「ソナタに水中でも呼吸が出来る肺をやろう。しかし代わりにその美しい容姿を貰おう。───ソナタは水死体を見たことがあるかの?此処等にも海流に漂い偶に流れて来る。腫れて膨れた不様な姿じゃ」
そう成っても後悔しないのか。魔女の瞳が私を嘲笑う。
「構いません。彼女の姿をこの目に一瞬でも映せたならば、私はそれで満足なのです」
「ほう…そうか、面白い。成らばもしもソナタがアヤツと結ばれた暁にはソナタも正真正銘の海に棲まう者にしてやろう。どうだ?無理だったらば魔法の効力を失ったソナタは溺れ死ぬ」
魔女が笑う。
「今度は岸に着けるかの?それとも海底へ更に沈み行くか?」
愉しそうに笑う。
「どうでしょう。私は何処迄も溺れるだけですから」
私も笑い返す。
魔女の条件を呑み、陸で持て囃された姿を失った私は、ぶよぶよとした脹れた体を海流に流されていた。
暫く漂うと魚だけでは無く、人魚達の姿も見かける様になった。
「まぁまた人間の死骸よ」
「この間の嵐の残りか」
「見るに耐えないな。さっさと何処かへ行って欲しいものだ」
私を見た者達からは、今まで無縁の雑言が囁かれる。人魚と人間で醜美の感覚が何れ程同じものかは分からないが、大層な歓迎を受けながら私は流れて行く。
「───ぁ、」
生き物の姿が疎らになる頃、岩陰を過ぎようとした時に彼女の姿を見付けた。
咄嗟に岩にしがみ付き隠れようとしたのだが、幸か不幸かそれが彼女に違和感を与えたらしい。
彼女は訝しげに此方へ泳いで来る。
逃げようにも不格好な体では上手く動けず、肩の辺りを捕まれたその反動で私は彼女の方を向いた。
「………」
物体の正体が私───水死体だと分かり眉をひそめられる。
穢いものに、それも触れてしまったのだから不快感は酷いものだろう。
嗚呼。
「…すまない」
気が付いたら口がそう動いていた。
「何故───」
彼女は目を見開き、驚いた様子だった。
「まだ生きている、の…?」
信じられないと口にする彼女。誰もが死体と思って疑わないのだから、それも致し方の無い事だろう。
彼女には悪いが、そんな彼女の変化する表情を間近で見られて少し嬉しく思う。
「───っ、」
すると突然、顔を眺めていた私は息を詰めた彼女に掴み掛かられた。
勢いでぼろ切れと化した衣服が所々波に持って行かれる。
「なんで貴方があの人と同じ服を着ているの!?」
怒りでなのか顔を赤く染めた彼女が、王子としての正装に恥じない絢爛な刺繍の在った名残を視線で追う。
「あの船に、否、この世界にこの服を着ているのはあの人だけの筈!」
興奮した様子で叫ぶ彼女。嗚呼、覚えていてくれたんだな、と私の思考は何処か冷静に歓びを噛み締めていた。
「あの人は、あの国の王子は確かに私が岸まで、」
「確かに。そうだった、な」
「っ、」
あの日の事を思い出しながらゆっくりと口を開く。その姿をお化けでも見た風に凝視した彼女は口を閉ざす。
暫く観察する様に首を動かして私の顔を見ていたが、その後恐々と口を開いた。
「何故」
その二文字が再び紡がれる。
こんな風に成り果てたにも関わらず、彼女は私の正体を確信したらしい。ならば彼女の疑問は"何故此処に居るのか"なのだろう。
「悪い。」
折角助けて貰ったのに。
「どうしても来たかったんだ」
今の顔で判別出来るかは分からないが、苦笑いを作り口を開く。気の利いた言い分けは思い付かなかった。
「………私が何の為に、何で、貴方を助けたと思ってんの、」
水中なのに分かってしまう彼女の泣き顔。その雫は真珠よりも美しい。
きっと彼女は私に、人間にその存在を知られる危険を犯してまで私を助けてくれたのだと思う。
「さあな」
しかし私は簡素に返す。
人魚が人を助ける理由など知らない。価値観に何れだけの違いが有るのかも。私は人魚の事など全く分からない。
だからこれは私の答だ。
私が彼女を愛する為。それが全てなのだ。
「待ってて、私がまた岸に…」
「無理だ」
今にも崩れそうな、脆く醜い腕を抱えて彼女は岸が在るのであろう方へと泳ぎ出す。
それを私は引き止める。
「戻るつもりは無いんだ」
こんな身体の私にはもう王子として、否、人として生きる選択肢は残されていないい。先ず何よりも、彼女の居ない陸地に最早興味も執着も無いのだから。
「それに、時間切れなんだ」
彼女に逢う為だけに残されたこの身体の猶予はもうお終い。人間に水中で息をする事は出来ないのだから。
魔女に会い、彼女と同じ空気が吸えて、声が聞けて、話が出来て、触れる事すら叶って。
これから溺れ死ぬと言う割には恐れがない。充分上等な時間を過ごせた。
詰まる息。
水面に向かって浮上する身体。
今度は波に乗って、何処かの岸迄運ばれるのだろうか。
出来れば、彼女の棲む海にこのまま沈みたかった。
「いかせない…!」
彼女の声がして引き摺り込まれる身体。次いで吹き込まれる酸素。
「ん」
少しずつ呼吸が楽になり意識がはっきりすると、彼女が口付けていたと言う事に気が付いた。
「陸に帰りたくないのなら此処に居ればいい。息が出来ないのなら幾らでもこうしていましょう」
真っ直ぐな瞳で彼女が告げて、また酸素を送り込まれる。
「───。」
次第にさっきまでが嘘だったかの様に落ち着き、呼吸が安定する。だがそれは彼女のお陰だけじゃなく、水中にも関わらず自力での呼吸が可能になったから。
未だ遠い水面から射し込む光を反射している身体は、水気を排出し縮み、元の形を取り戻す。
「…え?」
突然の出来事に顔を離し、目を丸くする彼女。
───ソナタがアヤツと結ばれた暁には、
自分の変化に、頭の片隅で魔女の言葉が蘇る。
それはつまり、
「私は貴女の事を愛している」
「───、私もよ」
抱き締め合い、腕の中に在るその存在を確める。彼女と同じ世に棲む事を、共に生きる事を、私は許されたのだろう。
「どうして───」
「それは、そうだな。後でゆっくりと話そうか」
「っ…はい…!」
嬉しそうな笑顔で頷いてくれた彼女だが、未だ狼狽えている様だ。そんな彼女に触れるだけのキスを落とす。
「…もう呼吸に補助は要らないみたいね」
照れ臭そうにそう言ってそっぽを向いた彼女を、私は酷く愛しく思う。
「そうだな。だから好きな時に、幾らでも」
頬っぺたを何かが掠めた感触で彼女は勢い良く此方を振り向いた。唇だと思ったそれが指だと気付き慌てている。
「っ…帰りましょう!」
「ああ」
頬を真っ赤にした彼女に手を引かれ、棲み処が在るのであろう海底へと沈んで行く。
嗚呼、嬉しくて息が出来ない。
私はこれから先も、愛に溺れて行く様だ。
end