猫みたいなわたしと、わたしみたいな猫の話
あんた、猫みたいな子だね。そう言われて育った。
猫じゃないよあんたの子だよと、わたしは返した。
昔からわたしは犬派だった。本当に小さい頃からそうだった。猫は勝手で無愛想だけど、犬には愛想がある。
フリスビーやボールを投げて、一緒に原っぱを駆け回って、最後は柔らかく太陽の匂いがする草原の上にゴロンと横になったりして。そんなわたしの頬を大きな犬がペロペロとなめるのだ。くすぐったいからやめてって笑いながらも、そんな時間が一番幸せなんだろうと思う。
飼うなら絶対大型犬だって決めていた。大きくて、毛並みのいい、真っ白な犬が良い。しっかりしつけて、毎日一緒に散歩して、きっと近所の子供の人気者になる。小さい子供なら背中に乗れるくらいの大きな犬だから、時々はそうやって遊ばせてあげるのも良い。
そんなに犬が大好きなわたしなのに、なぜかいつでも猫だった。多分それってあんまりい良い意味じゃない。中には本当に良い意味で言ってくれる人もいた。猫みたいで可愛いね。彼女は猫を飼っていた。
でも大体の人は、ちょっと笑いながら言うのだ。あんた、猫みたいだね、って。無愛想だとか、身勝手だとか、多分そういうこと。だけどわたしにも少しはそういう自覚があるから、なんとなく反論も出来ない。それにはっきりと非難するほどではない、笑って言えるレベルだって、そういうことだと思って、納得しておく。
いつしかわたしも、自分は猫だなって受け入れてた。女として、むしろ犬と言われるよりは良いかもしれない。豚とか牛とかよりかは絶対良い。そんな風にも思ったりした。だからだろうか、気付けば猫と住んでいた。
大学にも実家から通学していたわたしは、初めての一人暮らしが寂しかったのかもしれない。そういう風には考えていなかったけど、今になってそんな気がする。就職した会社の通勤圏から、実家はわずかに外れていた。頑張れば何とかならないこともなかったけれど、いい機会だからと一人暮らしを始めた。もし実家暮らしのままだったらそんな気まぐれは起こさなかったと思う。いくら土砂降りだからって、アパートの階段で雨宿りしていた彼女を部屋に招こうだなんて。
一緒に暮らしてみると彼女は本当に無愛想だった。愛玩動物と言うより、突然転がり込んできたただの同居人だ。無愛想な同居人はまるでわたしのいることなどお構いなしで、いつも気ままに暮らしていた。「あの夜の恩を忘れたの?」と何度も尋ねた。答えはいつも「にゃー」だった。
そのくせお腹を空かせるとわたしの足元にまとわりついてくる。エサをもらって満足すれば、またそそくさと去っていく。そうして軽やかな足取りで本棚を登ると、彼女の特等席であるクッションの上に身体を丸める。そして本棚のふちから尻尾を垂らしてぷらぷらと揺らすのだ。お気に入りのクッションだったのに、いつの間にやら彼女に取られてしまった。
「あんた、わたしみたいだね」
そう言うと彼女は不満そうに「にゃー」と答えて、またクッションに体を沈めた。可愛くない。わたしってこんなに可愛くないんだ。
そんな風に可愛くないから、多分仕方のないことなんだと思う。彼だって浮気くらいしたくなる。もちろん腹は立ったし、裏切られたのはショックだった。偶然現場を見かけた友人に聞いた時も、電話で問い詰めた時も、わたしを支配していたのは怒りだった。どうしてこそこそするのかって。他の女と付き合いたいなら別れれば良い。気持ちが冷めたならそう言って欲しかった。忙しいから会いに行けないだとか……別れを切り出す度胸がないからって、適当に誤魔化して。バカみたい。
でも、好きな人が離れていくって悲しみは見つからなかった。ちょっとだけ頑張って探してみたけど、どこにも。それに気付いて怒りもスーッと引いてしまった。
段々心が離れているのは気付いてた。わたしの就職で距離が離れて、そのまま心の距離も一気に広がった気がしてた。彼を責める資格なんてない。わたしだって、半年の間に一度も、無理して会いに行こうとはしなかった。可愛くない。
最後のけじめにカフェで会って、彼の家の鍵を返した。持っておくわけにはいかない。返す時になって、こっちの合鍵はまだ渡していなかったことにも気付いた。
わたしが来てから鍵を受け取るまで、彼はずっと神妙な顔で俯いていた。いつもそうだった。都合悪い話のときは決まってこの顔。三年も付き合ってたから、うんざりするほど見せられた。目を伏せて、眉根をキュって寄せて……
「悪かった」
彼は言った。
「うん」
わたしは答えた。それで、おしまい。
一口飲んだコーヒーは泥水みたいな味がして、二口目はもう飲まなかった。ミルクをたっぷり入れても、多分飲めない。
代金をテーブルに置いて立ち去ろうとするわたしに、彼は後ろから声をかけた。
「最後までそうなんだな」
わたしは答えず、店を出た。
外はあの夜と同じ、土砂降りの雨だった。傘を差しても関係ないよと言わんばかりに、容赦なく衣服が水気を帯びていく。本当に、うんざりする。
アパートの階段を上るとき、彼女と出会った場所をチラッと見た。雨宿りする猫はいない。いたとしても、もううちには招かないけれど。同居人は一人で十分。十分すぎる。
鍵を回してドアを開けると、湿った洗濯物のにおいがした。雨が続いていたから部屋干しにして家を出たのだった。こう毎日天気が悪いと何もかもが憂鬱に支配される。
わたしが部屋に踏み入れると、彼女はすぐに足元にまとわりついてきた。帰りの遅いわたしを責めるように、早くしなさいよとエサをねだっているのだ。全く、人の気も知らないで……とうんざりしながら戸棚を開けて、キャットフードを取り出す。エサを準備しているとわかった途端、彼女は大人しくちょこんと足元に座り込む。妙なところで利口なのだ。
エサの皿を下すと、彼女は待ってましたとばかりに食べ始めた。小刻みに揺れる彼女の小さな頭に、そっと手を伸ばして撫でてみる。彼女は食事中に触られるのを嫌がる。食事中でなくても、触られるのは好きではない。今日も頭に触れた途端、何よ? と不服そうな目をちらりと見せたが、不機嫌な顔のままわたしを無視して食事を再開した。
「あんた、食い意地張ってんね」
迷惑そうにしながらも食事をやめない彼女が滑稽で、少し笑った。ちょっとだけ可愛いじゃんか。そう思いながら食事中の背中を撫でる。野良猫だったくせに毛並みは綺麗で指の間をさらさらとくすぐる。ほんのりと温かい。ほとんど触ったりしなかったけど、こんなに撫で心地良かったんだ。知らなかった。嫌がられてももっと撫でとけば良かった。
熱心に食事の邪魔をしていたら、不意に視界がぐにゃりと歪んだ。慌てて目頭に手をやって、初めて自分が泣いていることに気付いた。何でだろう。良く分からない。悲しいの? 寂しいの? 泣くようなタイミング、もう過ぎたじゃない。もう終わったのに、何で……
一度流れ出した涙は、なかなか止まらなかった。まるで大事なスイッチが壊れてしまったかのように、涙腺が言うことを聞かなかった。ただただ声を押し殺して、何のためかも、誰のためかも分からない涙で頬を濡らす。
不意に止まったわたしの手の下で、彼女は不審そうにこちらを伺う。雫が一粒滴って、彼女はビクッと身をすくませた。驚きで見開かれた大きくて丸い瞳が、わたしの顔を覗き込む。
そうか、分かってくれるよね。あんたはわたしだもんね。そんな思いが胸にこみ上げた。無愛想だった彼女も、同居人の突然の涙には優しい一面を見せるのだ。動物にはそういうところがあるって、聞いたことがある。
そんなことを考えるわたしをよそに、彼女は身体をひねってスルリと同居人の手をすり抜けると、背を向けて走り去った。そしていつもの軽やかな足取りで本棚を登ると、特等席にすっぽりと収まってしまう。あとはいつもの通り、だらりと垂れた尻尾がゆっくりと、ぷらぷら揺れていた。
わたしは拍子抜けしてしまった。飼い主の事なんかお構いなしでそそくさと去っていく彼女に、半ば呆れてしまった。彼女は相変わらずのすまし顔で、のんきに尻尾を揺らしていた。ぷらぷら、ぷらぷらと。
その規則的な動きを見ているうちに、涙が止まっているのに気付いた。なんだかばからしくなってしまったのかもしれない。自分でも良く分からないけど、壊れたと思っていたスイッチは、いつの間にかオフに戻っていた。
「あんたってさ」わたしは言う「ほんとに、ほんとに、可愛くないね」
彼女は不満そうに「にゃー」と答えた。わかってますよと、そう言っているようだった。ほんとにほんとに可愛げのない猫だ。でもそんなところが、やっぱりちょっとだけ可愛いかもしれない。
さて、お風呂ためなきゃ。わたしはゆっくりと立ち上がった。