後悔
夜半過ぎに電話がかかってきて、台所にいた母が応対した。会話からすると、悲報のようだ。
受話器を置いた母がぼくの部屋に顔を出す。
「あなたの実のおかあさんが亡くなられたって…」
ぼくはできるだけどうでもいいようなふうを装って、
「そうなんだ」とだけ答えた。
母が出て行くと、ベッドに仰向けに転がり、じっと天井を眺め、自分に問いかけてみる。
(ぼくは悲しんでいるのだろうか? それとも、無関心なのか?)
子供の頃の記憶が、ゆっくりと蘇ってきた。
小学校に上がる年の春、茨城の親せきの家で休みを過ごしてたときのことだ。
おばさんもおじさんも親切で温かい人達だったが、たいそう心配性でもあった。
「いい? 道で誰かに声をかけられても、決してついて行っちゃダメだからね。世の中には、人さらいがわんさといるんだよ。気をつけて、怪しい人には近づかないようにしなくちゃいけないよ」
おばさんの口癖である。
その日も、ぼくは近所の子供達と、丘の上の公園に遊びに行った。
ブランコに揺られながら、はらはらと散る桜の白い花びらを、のんびりと眺めていたっけ。
いつ来たのか、ブランコのかたわらに女の人が立っていた。背が高くて、とてもきれいな人だった。
「あなたが利夫ちゃん?」女の人はぼくの前にかがみこんで尋ねた。
「うん……」とぼくはうなずいた。すると、いっそう顔をそばに寄せ、
「やっぱりそうかぁっ。ここに来ているって聞いて、寄ってみたの」かすかに化粧水の香りがしたのを、よく覚えている。
「あのう、どなたですか」おそるおそる聞きく。
にっこりわらって、「おばちゃんはね、あなたの本当のママよ」
「うそっ!」ぼくは勢いよくブランコから飛び降り、そう叫んだ。「うちのおかあさん、ちゃんといるもん。東京でお留守番してるもんっ!」
両手をぎゅうっと握られ、「お願いだから、聞いてちょうだい。いろいろわけがあったの」
この人、人さらいなんだ。おじさんやおばさんが言っていた、あの恐ろしい人さらいなんだ。ぼくを誘拐するつもりなんだっ!
無我夢中で女の人の手を振りほどくと、一目散に駆けだした。途中、一度だけ振り返った。
その人は、泣きだしそうな顔でぼくを見つめていた。桜の花びらが数枚、長い髪に貼り付いていたこと、何か言いかけて開きかけた口、それらのすべてが、今でもまぶたに焼きついている。
息せき切って家まで戻り、ことの次第をあまさず伝えると、おばさんも、おじさんも、驚いたような、困ったような、なんとも言いようのない顔をした。
「その人はね、本当にあんたのおかあさんなんだよ」やっとのことで、おばさんが口を開いた。「ここからそう遠くもないところに住んでいるのさ。さっき、電話があってね、そんであんたに会いに行ったんだ。おそらく、あんたの今のおかあさんが、あんたがこっちに来てるよって、あの人に知らせたんだろ」
このときのぼくには、実の母などと言われても、まるで実感がわかなかった。それよりも、ほんとうの母だと信じていたのに、実は継母だと知ったことこそ衝撃だった。それまでの自分の人生が、どこか別世界でのことのように、急に白々しく感じられた。
事情を聞いた父が、その日のうちに迎えに来た。今の母も一緒だ。かわいそうに頬を赤く腫らしていた。どうやら、父にぶたれたらしい。後にも先にも、父が手をあげたのはこのときだけだったと、あとになって母から聞いた。
たぶん、次の日のことだったと思うが、母はぼくにこう言った。
「生みの母の絆っていうのは、それは強いものなの。たとえ一緒に暮らしてはいなくても、まるで鋼のように結ばれているのよ。だからね、いつか会いに行ってあげなさいね」
その時のぼくは何も理解できないまま、ただ「うん、うん」とうなずくばかりだった。漠然と、いつか行こう、そのうち行こう、でもたぶん、向こうからまた会いに来てくれるだろう、などと思っていたのかもしれない。
気がついたらずいぶんと年月が過ぎていた。
天井の木目が、だんだんとにじんで見えなくなってきた。代わって、忘れていた思いが立体映像となって、目の前に浮かんでくる。
桜の木、舞い落ちる花びら、そしてそこに立つほっそりとした人影。初めのうちぼんやりとしていたが、少しずつ焦点を結んでいき、ついには顔かたちまではっきりと見えてくる。
深い失望と悲しみに包まれ、そのまなこはすがるようにぼくを見つめていた……。
懐かしさと期待を胸に会いに来てくれた生みの母のその気持ちが、今になってようやくわかった。
もろもろの事情で手放さなくてはならなかったわが子。やっと会えたその喜びもつかの間、恐ろしがって逃げてしまったぼく。
どっとあふれ出る感情を抑えられず、まくらに顔を押しつける。それでもおえつは洩れていたらしい。そっとドアが開き、母がそばに座った。
気がつくと、ぼくはまるで小さな子供のように大声で泣いていた。
「後悔してるんだ。逃げ出してしまったことも、会いに行かなかったことも、何もかも、みんな。会いたくなかったわけじゃない。でも、あの人に会いに行ったら、おかあさんを裏切るような気がして、本当に怖かった。会いに行けなかったんだ」
母は驚いた顔をしたが、何も言わず、やさしくぼくの髪をなでた。心から優しくなで続けた。
心地よさの中でぼくは、(あぁ、久しぶりに胸のつかえがとれていく――)と感じていた。
明日、葬式に行こう。もう聞いてはもらえないけれど、いつかのあの日のことを、心の底から、一所懸命にあやまろう。