魔女の左手5
なんという言い草だ。
思わず口を開きかけたラフィだが、室内に流れる冷やかな気配にビクリと身を竦めた。
暖炉では煌々と炎が燃えているのに、ゾッと背筋を嫌な感覚が背を這う。
動悸が危険を告げるように早くなる。
こんなにもビリビリと殺気を感じるのに、サリエは何も気付いていない。
いつもの勘の良さが嘘のようだ。
ククッとサリエの喉が鳴る。
「あの莫迦にもいい薬になっただろう?不用意に男に近付けばどうなるかと………」
「まぁ~………、私が眠っている間にそんなことがありましたのね」
低く深く、冬の夜空のようなサリエの声に被ったのは、穏やかで清かなる月影のような声だった。
それと同時にサリエの首に冷やかな手が絡まる。
か細い指だが、一度絡まれば二度と取れないような執念を纏っていた。
その存在に気付いた時には、すでに全てが遅かった。
ラフィは呆然とサリエの後を見つめ、硬直した。
柔らかなへーゼルの瞳を極限まで見開き、サリエの後ろに音もなく立つその美女を見つめる。
一度、視界に入れてしまえばもう最後。
もう目を離すことも叶わない。
腰のあたりまである白銀の髪が緩やかにたゆたう。
ほっそりとしているのに艶めかしい肢体は、胸元に細かな刺繍のされた、エクロ=カナン独自の優美なドレスによって更に艶美だ。
理知的で穏やかな顔には、いつものように慈愛に満ちた頬笑みが浮かんでいる。
それはもう見慣れたはずの元エクロ=カナン女王レモリー・カナンの姿だった。
だが常と違って見えるのは、ラフィの思い違いだろうか。
ゴクリと喉を鳴らし、強張った顔で目の前の二人を見つめる。
片や毅然と立つ柔らかい雰囲気の美女。
片や天上の美貌を持つ妖艶な男。
だが、その傾国の美しさは今は成りを潜めている。
流石のサリエも自分のバックがこうも簡単に取られる日が来るなど、思いもしなかったのだろう。
まるで凍りついたように顔を引き攣らせている。
レモリーはサリエの背後に立ち、その首を絞めたまま、楽しげに喉を鳴らす。
「うふふぅ~。とっても楽しそうな声が聞こえたものだから~。思わずお邪魔しちゃったわ!」
楽しげな声に反して、何故こんなにも部屋の温度は下がっていくのだろう。
サリエの後ろにいる美しい人を見つめながら、ラフィは喉を鳴らした。
触らぬ神に祟りなし。ここは後でどれだけ卑怯者と罵られても、傍観者を決め込むに限る。
柄になく茫然として、締まりない顔をそのままにしているサリエの前でラフィは貝になった。
「貴重なお話が聞けてよかったわ。ハニーは、私が落ち込むと思っているのかあまり詳しく話してくれなかったから!」
サリエの首に絡まった細い指に力が籠る。
うふふっと笑いながらも、その背に纏う気配は禍々しい。
そう、まるで血に濡れた女王だ。
月の女王と呼ばれたかつての美貌は様変わりし、禍々しいほど強烈な存在感を放つ魔女………そう呼ばれていた者が目の前にいる。
「サリエ様はこの国の救世主よ。あの甘えっ子のキアスの真っ直ぐな勇気を見抜いて、王に推薦してくれた。今のあの子は、ハニーを守った件が切っ掛けで、自分の中の可能性に自信を持ち始めている。流石ね、サリエ様の先を読んだ行動がなければ、こうまで王位に就くことに前向きになれなかったはずだから………」
声はしっとりとして軽やかだ。
心からサリエの行動に感謝していると言外に含んでいる。
その言葉を紡ぐ元女王もサリエの背後に立ち、誰もが見惚れるほど麗しい笑みを浮かべている。
だが、そうと分かっても未だに背筋に走る旋律は何なのか。
「……でもね、」
急に穏やかな声がトーンダウンした。
暖炉の火が不意に消え、室内が凍りつく。
「私のハニーに手を出したこと、万死に値するわ」
サリエの喉を締め付ける手にぎゅっと力が籠る。
女の細い手で絞められているとは思えないほどの圧迫感に、流石のサリエも背筋に嫌な汗が流れるのを感じた。
いつも以上に青白い顔をしたサリエの耳に、生温かい吐息がかかる。
「今回はこれで許してあげる。でもいいこと?いくら恩人のサリエ様だからといって、ハニーを好きにしていいなんてこと、ウォルセレン王が許してもこの私が許さない」
そう告げるとレモリーはそっとサリエの喉元から手を離した。
それと同時にサリエが小さく息を吐く。
その表情は常と変わらない無表情だが、どこか強張って見える。
そんなサリエに構わず、レモリーは何かに気付いたようにサリエの前に回った。
黒檀のテーブルに置かれた葡萄酒の杯を見つめ、たおやかな微笑みを浮かべる。
「確かラフィ様はアンダルシア出身だとか」
「へぇ?おれ?あぁ、そうだけど……」
二人のやりとりを前に貝になっていたラフィは、いきなり話題を振られて慌てて、視線を上げた。
そこには普段と変わりない頬笑みを浮かべるレモリーがいる。
だがもう慈愛に満ちた儚げな人だなどとは思えない。
「かの国は葡萄酒が有名ですものね。我が国の物はお口に合いましたかしら?」
「も、もちろん……味わい深くて……」
「それはよかったわ。いくらでもご用意致しますから、ぜひ心ゆくまで堪能なさって。もちろん、サリエ様も」
目が細まって、笑みが深まる。
でも……。
(目が笑ってないんですけど!!)
今にも泣き出しそうなラフィを前に、レモリーはしなやかな笑い声をあげて、そっと自らの左手をサリエの杯に伸ばす。
「でも飲み過ぎには用心なさってね。この葡萄酒は北国故にアルコールがきついの。飲まれたら最期。夢のようなまどろみから帰ってこれなくなる」
そのほっそりとした指で杯を慈しむように撫でると、サリエの方に意味深な視線を投げかけた。
それも束の間のこと。
レモリーは変わらず美しい笑みを浮かべたまま、サリエに背を向け、部屋の外へと向かう。
しずしずと進むその姿は儚げで、守ってあげたくなるほどに華奢だ。
しかしその背中に纏うオーラは万人を従わせ、平伏せさせる女王のもの。
迂闊に近寄れば、火傷ではすみそうもない。
ぎぃっと爪で木を引っ掻いたような音を立てて扉が開き、ラフィはあからさまにホッと胸を撫で下ろした。
ラフィが盗み見るようにサリエを見つめると、彼はまだ無表情のまま、ラフィの背にある窓の外を見つめていた。
まるで心ここにあらずといった様子だ。
いや、もしかしたら心自体を奪われてしまったのかもしれない。
(そう……)
ラフィは複雑な面持ちで、更に視線を上げた。
(あの、美しく慈愛に満ちた笑顔の仮面を被る、妖艶で強かな魔女に……)
ラフィの視線に気が付いたのか、魔女がカツンと足音を鳴らして足を止めた。
扉の向こうからゆっくりとこちらを振り向く。
月の光のように柔らかでそして妖艶な笑みが、嬉々とこちらに語りかける。
「そういえば、御存知かしら?エクロ=カナンの魔女は、その右手で薬草を、その左手で毒草を摘み分けるのですって。2つの薬効が混じってしまわないように……。長年毒草ばかりを触った手はどうなるのかしらねぇ?」
ラフィは思わず目の前に置かれたサリエの杯に目をやった。
さきほど白魚のような手がヒラヒラとその縁を舞っていたように思ったが、それは一体どちらの手だったか……。
ラフィの顔から一気に血の気が引く。
(ただの戯言だろ?彼女は魔女じゃなくて、元女王なわけで、それに杯に触れた手は……)
すっと伸ばされた白い指が杯の縁を撫でるイメージが脳裏に浮かんだ。
その手はもちろん………。
ラフィは慌てて首を振って、そのイメージを打ち払う。
自分の記憶に自信が持てない。
目を剥いたまま、杯とレモリーを交互に見やるが、優美な笑みを浮かべた彼女はクスッと空気のような吐息で答えるのみ。
「夜分遅くにお邪魔して失礼しましたわ。夜は長い。存分に続きをなさって。うふふっ……どうぞ、素晴らしき夢を」
パタンッと扉が閉まり、室内には元あった夜の気配が戻ってきた。
まるで夢でも見ていたかのような、不思議な時間であった。
夢でないと分かるのは、その冷え切った体が伝える恐怖のみ。
後は泡沫の時に消えてしまっている。
いや、それだけではない。
ラフィは冷え切った自分の手を擦りながら、レモリーの消えた扉からサリエに視線を移した。
彼はラフィほど顔色を変えていないものの、常の自信過剰さが嘘のように呆気に囚われている。
あのサリエに一言の嫌味も言わせなかった。
それだけでもあの元女王の気迫を思い知らされる。
(ハニーが絡むとあんなにも人が変わるのか……女ってこえぇ………)
今後の対応を考えなければならないと自分自身に言い聞かせる。
チラリと哀れな同僚に目をやり、ラフィは思い切って問いかけた。
「なぁ、サリエ……」
「ああ……」
「お前、その杯を飲む勇気はあるか?」
その問いに、黒曜石の瞳がちらりと問題の杯に注がれた。サリエの喉がゴクリと動く。
「………」
そして、2人にとって忘れられない長い夜は、続く。