魔女の左手4
ラフィは悔しげに、葡萄酒の杯を握る手を震わせた。
対するサリエは麗しい笑みを浮かべて、高々と杯を上げてみせた。
「フッ、可愛い奴だな、お前は」
「お前に言われたくねぇよ。で、それで?お前はどうやってハニーを助けたんだ?」
これ以上の言い合いは自分の傷口を大きくするだけだと判断したラフィは、ふてくされてそっぽを向くと、サリエに先を促した。
サリエはニヤニヤとラフィを見つめながら、自らの杯に葡萄酒を注ぐ。
「ん?ああ、その後な。俺は気付かれないように、床に垂れたあいつの血を拭い、素早く自分の指を噛んで別の場所に血の跡をつけた。それでもって、シーリエント聖十字騎士団に明後日の方向を示唆してやった。あっちに逃げたんだろうってな」
「なるほどね」
「適当に指を向けただけなのに、奴らはあっさりと神殿から立ち去っていったよ。………あまりにも単純で、俺の方が逆に騙されているのかと疑いたくなるほどだった」
「そうやってシーリエントの聖十字騎士団を追い払ったのか。まぁ女王は赤い髪に金色の瞳という噂がまことしやかに流れていたから、その場で簡単にハニエルが女王ではないとは打ち消せなかっただろうが……それでも他に方法はなかったのか?」
「方法?実にいい方法だろ?本人が真剣に女王を演じてくれているんだから、誰も疑わない。あいつは単純だから俺らの意図を伝えれば、絶対に空回ってボロを出しただろうからな。あれがある意味最善の方法さ」
「まぁ女王が森を逃げている間は膠着状態が続く上に、他国の聖十字騎士団の視線があるから大司教も下手な行動はとれなかったはずだ。そういった意味ではより長くハニーに女王でいてもらう必要があった。まぁまさか黒幕が弟だなんて思わなかったから、そんな作戦に出た訳だが……」
ラフィははぁと思いため息を吐いた。
まさかウヴァルが大司教を操っており、しかも悪魔を召喚していたなど、誰が想像しただろう。
流石のサリエもそんなシナリオは考えつかなかった。
だから無防備にハニエルをあの広間に入れたのだ。
その状況判断の甘さをサリエが今でも悔いているのは、ラフィだけが知ることだ。
こっそりと面前にいるサリエを窺う。
頬を朱に染める以外、普段と変わらない。
だが、その内心は今でも深い後悔で埋め尽くされているはずだ。
サリエは何も言わない。だがその行動の端々にハニエルを気遣っていることが分かる。
彼は誰よりも重傷を負っていたのに、そんなことはおくびに出さず、誰よりも精力的に動いて、エクロ=カナンを立て直すことに尽力していた。
それがハニエルにとって一番の償いであると彼は知っていたからだろう。
だからエクロ=カナンが国として、ある程度軌道に乗るまでハニエルに会いに行こうともしなかった。
いや、ハニエルに会うために、彼女が目覚めてからは更に寝食を忘れて国の立て直しを行っていた。
半端な結果では合わせる顔などなかったのだろう。
ハニエルがそんなことに気付くはずもないことはよく知っているクセに、完璧主義の所為で損な役回りをする。
(どっちが卒あるんだか。おれはお前以上に不器用な奴を知らないよ)
その精力的な行動力と画期的な政策に、司教ではなく、この国の大臣になればいいのに……と宮延達がサリエを何度も勧誘しては、すげなくかわされていたのを思い出し、ラフィはふっと忍び笑いを洩らした。
(認めてほしい人に気付かれず、どうでもいい奴に構われるなんて……ホント可哀想な奴だ)
そっと顔を背けるが、今日のサリエはそんな卒ある態度について、何も突っ込んでこない。
「まぁ、隠れているあいつの側で十分焦らせてから、のことだがな。あいつの顔を直接見れなくて残念だった」
なんて嘯き、ククッと喉を鳴らすと、サリエは不敵な笑みを浮かべる。
常の笑みよりも瞳が潤んでいる所為かしっとりと色っぽい。
まさかサリエがこんな顔で自分のことを語っているなど、自国に帰ったハニエルは知る由もないのだろう。
だが男慣れしていないあの王女様には、今のサリエは目に毒かもしれない。
そう心呟き、フッと笑みを漏らす。
だが、そんな本心をサリエに聞かせるつもりはない。
それはサリエに上げ足を取られるからではなく、なんとなくそう思うのだ。
(もしかしたらおれも、あの王女様に相当入れ込んでるのかもな。サリエの本心を教えたくないほどに……)
ククッと己の嫉妬に苦笑を浮かべると、ラフィは何もない顔でサリエを見返す。
「おいおい、おれにはお前らの攻防の一端も見えてこねぇよ」
大げさに被りを振って、ため息を吐く。
今はサリエがいつも以上に酒に飲まれていることに感謝するしかない。
きっと素面な彼ならば、簡単にラフィの本心を見抜いてしまうのだから。
そんなラフィの心など知らず、サリエは先を続ける。
こんなにも口が軽く、隙だらけのサリエは今まで見たことがない。
「攻防?俺が防ぐだけのやり取りだせ?相手は何も知らず、好き勝手するからな」
「やっ……それはお前の所為………」
と、ラフィが突っ込んでみたが、サリエは聞く耳もたず。
ブチブチと文句を言うサリエにはラフィの言葉は聞こえないらしい。
もうラフィに聞かせているというよりも、自分の感情のまま先を続ける。
「だいたい、あの莫迦が考えなしにイオフィエーラの馬車になんぞ乗りこみやがって。あの、森を暴走する馬車を止めるのには、どれだけの労力を払わされたか」
「もしもし、サリエさんやい」
「いらん苦労ばっかりさせやがって。城でだって、他の兵士に見つからないように匿ってやったし、城内の衛兵をほとんど城外に追い出してやって、身の安全を確保してやっていたんだ。それなのにあいつは、今でも俺の顔を見れば、剣で切りかかっただの、人気のないところで押し倒されただの、好き勝手言いやがって……」
ケッと彼らしくなく、サリエがぼやく。
そんな姿を目を細めて見つめながら、ラフィは心の中で反論する。
(いや、それが正常な反応だよ。サリエ、お前は自分の危険さを理解しきれてない)
いくらサリエが暗闇に隠れているキアスにハニエルを助ける切っ掛けを与えるために、あんな手段に出たとしても、到底受け入れられない状況だ。
サリエからすれば、押し倒して首の一つでも締めれば、キアスにもハニエルの危機が分かるだろうと踏んでの行動だったのだろう。
もしかすると彼はこの時点で、キアスを王に据える案を考えていたのかもしれない。
甘ったれな末っ子の中にある勇気を試す為に、わざわざあんなことを仕掛けたのではないか。
そう思うのは、ラフィがサリエに期待し過ぎているからだろうか。
結果、キアスは恐怖に打ち勝ち、開き直った勢いのまま室内から飛び出していった。
それは部屋の外からそのやり取りを見ていたラフィがよく分かっている。
ちょうど地下牢でアシュリを見つけ、彼女の傷の手当をして、適当な部屋に放り込んだ後のことだ。
城内を駆け、ハニエルを探していると、ハニエルの物と思しき、血の滲んだ足跡を見つけた。
その足跡が途切れた側にあった部屋の様子を窺い、流石のラフィもギョッと目を剥いた。
薄暗い室内に浮かぶのは、若い男女の密着した影。
今まさに首に手をかけて、締め上げようとしていた。
(なっ、なんでこんなことになってんの?)
と思わず叫び声を上げなかった自分を褒めてあげたい、とラフィは今でも思っている。
キアスを焚きつけるための行為だったはずだ。
サリエにとって、それ以上でも以下でもなかったのだろう。
(でも、あれは『殺ろう』というより『犯ろう』としているようにしか見えなかったのはおれだけじゃないはずだ。いや、万人がそう認めるぞ!)
可哀想に。ハニエルは夜の戦場でも百戦錬磨なサリエを前に、我を失っていた。
「身の安全って……あの時、キアス王子が出てこなかったら、お前はどうするつもりだったんだ?」
渋い顔を浮かべ、ラフィが呆れたように口を開いた。
その問いにサリエはキョトンと目を瞬く。
そんな普段はしないような愛らしい表情をここぞとばかりに見せつけてくるのだから、この男は本当に始末に悪い。
悪い動悸にラフィはそっと視線を避ける。
サリエはそのラフィをマジマジと見つめていたかと思うと、フンッと鼻で笑った。
そのまま傲慢な態度で、背もたれに身を委ね、大きく足を組む。
残り僅かになった杯を燻らしながら、サリエはラフィを諭す様に口を開く。
「俺の中に、たら、れば、などの仮定の事態はありえない。まぁそれでもあの王子が怖気づいて出てこなかった場合は………あの場でもっとあいつを痛めつけて、王子のトラウマを作ってやっただろうな。お前の所為で、この馬鹿な女が傷付いたんだと……」