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プロローグ

 血に濡れた女王の後日談です。

 本編で説明しきれなかったことの補足説明と、本編で語られなかったサリエの本音になります。

 物語は現代―――世界のどこかにある、ありふれた一軒家から始まります。

 ここ、ウォルセレン王国ノース・ブレス州の北に位置するカナン市では、昔から小さな子どもを躾けるために地元の母親はこう言って怒鳴る。



「ちょっと!ハニー!!ちゃんと後片付けできないと、魔女の左手があなたの首根っこを掴むわよ!」


「いや~んっ!」


 その剣幕な声に、幼い少女が弾かれたように顔を上げた。

 その周りには、どうすれば一瞬でここまで散らかせるのかと聞きたくなるほどの玩具が溢れている。

 少女は今にも泣き出しそうな顔で自分を睨みつける母親を見つめ、小さく呟いた。


「まじょ、やぁ~」


「でしょ?今ごろ魔女はその左手をウゴウゴさせてハニーを待ってるわよ~?どうする?」


 ウゴウゴの部分で、母親は自分の左手をいやらしく蠢かせると、少女はさぁと顔色を変えて、自分が散らかした玩具を片付け始めた。



 一生懸命、散らかした玩具を片付ける幼い我が子。

 その姿を見て、ブリジット・オルガは小さく息を吐いた。

 それでも視線はダイニングから見渡せるリビングから離さない。

 散らかり放題のリビングでは娘のハニエルが、お気に入りの絵本を手に取りつつ、チラチラとブリジットのことを気にしている。

 毎回、ハニエルをあの手この手で叱りつけ、宥めつけ、なんとか片付けをさせているが、最終的にこの一言で何とか片がつく。

 ここまで効果的だと、それまで感情的に怒鳴っていた自分の労力が無駄なように感じて遣る瀬無い。

 それでも『魔女の左手』様々である。

 今までこうも効果覿面な言葉に出会ったことはなかった。言うなれば魔法の呪文である。

 こんなことなら、長男のミカエルが小さな時からカナン市に越してこれば良かったのに……などと今さらどうしようもないことを思い、ブリジットは苦笑を洩らす。

 6歳になったばかりのハニエルには魔法の言葉だが、ミカエルはもう10歳になってしまって、流石に魔女の左手だけでは太刀打ちできない。

 ブリジットはダイニングテーブルに腰掛け、しばし休憩と入れたてのコーヒーを飲みながら、パタパタと動く小さな赤い頭に目を細める。

 まだ6歳のハニエルは何をするにも素直で可愛らしい。

 昨年この市に越してきた時は、透けた赤髪に金色の瞳と、その稀有な特徴から中々周りに馴染めずに苦労したが、最近は少しづつ外に出るようになってきた。


(それでもまだ、おうちごっこが好きなのよね~。ミカは放っておくと帰ってこないほどやんちゃなのに………まぁ、なんとかなるでしょ)


 根が気楽なブリジットはそこで思考を打ち切った。

先のことを考えてもしょうがない。どちらとも、ゆっくりと自分のペースで幸せを掴んでくれればそれでいいのだから……。

 視界でチマチマ動くハニエルに思わず、口元が緩む。

 引っ込み思案だが、それでも日々、その金色の瞳をキラキラさせながら生きているハニエルにそれ以上望むことなどない。

 願うなら後少し、このまま愛らしい姿を留めておいてほしい。

 小さな体で、同じほどの大きさのクマのぬいぐるみを持ち上げるハニエルを見つめ、ブリジットは目尻を緩めた。


(か、可愛い……写真取ってブログにアップしちゃお!)


 いそいそとデジカメを取り出し、目を見開いて一生懸命クマを元の場所までだっこしているハニエルに向けた。


(この間までクマちゃんにダッコされるくらいちっちゃかったのに、もう同じか~)


 平穏な日々だ。昨日も、明日も、明後日も、同じような日々の繰り返しだ。

 だがその中で少しづつ変わっていくものが、大きな感動になっていく。

 それがなによりも掛け替えのない日々を彩る。

 ブリジットはダイニングテーブルに置かれたパソコンとデジカメを接続しながら、ブログの書き出しを考えていた。



 ふと、その作業する手が止まる。

 ブリジットの頭の中では、『魔女の手様様……』という題名が浮かんでいた。

 今までも何も思わなかったことが急に気になった。

 だが、絶対に知りたいと思う類のものではない。

 いつかどこかの機会で知ることになれば、ただへ~と思うだけで、それ以上の興味もないことだった。

 止まった手を動かし、パソコンのエンターキーをクリックしつつ、その心に湧いた疑問を口にした。


「なんで魔女の『左手』なのかしら?」


 その呟きに、ハニエルは小さな肩をビクリとさせる。

 同時にダイニングの勝手口が勢いよく開いた。


「なんじゃ、そんなことも知らんのか!」


 しわがれているが、張りと勢いがあるその声がオルガ家のダイニングに響いた。

 ブリジットはその聞き覚えのある声に、心底迷惑そうにため息を吐いた。

 ブリジットが背を向けているその勝手口に誰が立っているか想像に難くない。

 ダンダンと勝手口のタイルを叩く足音に、さっき掃除したばかりなのに~と腹立たしさが込み上げてくるが、一応の嗜みを知っているブリジットはその不機嫌さをなんとか飲みこんだ。

 いつもそうだ。このお節介で身勝手な隣人は、こちらの都合など考えず押しかけ、そう簡単には帰ってくれまい。

 いつも歴史がどうの、この地方の言い伝えがこうのと語り出したら止まらないのだ。

 折角買い物に行こうかと思っていたが、今日は残念。

 仕事帰りの夫にサメルさんのところのパンだけでも買ってきてもらうようにメールをしよう。

 本日の予定を全て取り止めにして、ブリジットは招かざる来訪者を振り返った。


「いらっしゃい、ウォルトさん。今日はどんなお話を聞かせてくれるの?」

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