第九回
ここへ引越してきてから半年が経った。嘗ての勝川派一門の看板絵師春朗が姿を消してからそのあと今はどこに住んでいるのか知るものは誰もいなかった。
唐辛子売りに精を出しつつも常に春朗の頭のなかは再び役者絵の世界に復帰する野心に燃えていた。除名の鬱憤もさることながら今は潜伏して自分の画道を極めるしかない。そしてそれは十郎兵衛の言う和事の教理としての容や大いに受けるという大道芸人たちの猿真似の意味する容が春朗の頭のなかで渦巻くのであった。
暇が出来たある日、再び小紫の居を訪れた。
「商売もあがったりでまた絵なんぞ描き始めようと思うのですが先立つものは金の段取り、どこかいい商売はないものかと」
「おやまあ、贅沢な道楽だこと」
小紫には未だ自分が嘗て名を馳せた役者絵師だったことは述べてはいない。三代目瀬川菊之丞の大磯の虎の絵のことが頭をよぎったがあくまでも身元を明かさない覚悟だ。
小紫は相変わらず芸者風情の色香を漂わせながら茶の間に座っていた。三味の音は聞かれず静かな昼下がりである。
「そんなにお困りなら頼んであげようか?それにしても何を描くんだい」
「ただ絵の修練程度のもんで…。伝があるならお願いします」
「日本橋通りの油町に耕書堂っていう書肆があるのをご存知かい?版元は蔦屋重三郎といって、ちょいと理由あって知り合いの仲なのさ。商いの世界では広く知られているしひとつ口利きでもしてもらえるよう頼んであげようか?」
これは寝耳に水だった。江戸広しといえど狭きが喩えこの姐御と蔦重とが繋がっていようとは思いもしなかった。このことに因り自分の正体がばれないとは限らない。春朗は一瞬戸惑いを覚えた。
「耕書堂とはまた大口版元。恐れ入るばかりかそちらに迷惑でもかけることになれば申し訳が立ちません。何か簡単な儲け口で結構です」
「嫌なのかい?頼んであげるよ」
蔦重は嘗て歌麿の雲母摺の大首絵を売り出して大いに儲けた。当時、勝川派役者絵師春朗の耳にもこの噂は当然入ってきたし蔦重に対抗すべき版元にとってはいうに及ばず浮世絵界では驚愕の出来事であった。雲母摺は贅沢な錦絵でその抜きん出た商法は他の版元を圧倒したのである。ところがその矢先の例の事件である。お抱え売れっ子戯作者京伝の洒落本が風紀綱領に触れるとして発禁、よって京伝は手鎖五十日の刑、版元の蔦重は財産半減の刑を言渡されたのであった。勿論この報についても広く伝わり知らないものはなかった。
「おかしなひとだねえ。探してるんだろう儲け口」
「うむ。でも耕書堂は結構です」
蔦重が春朗を知らぬわけがない。数ある競争相手のなかでも和泉屋、鶴喜屋などは蔦重にとって最も手ごわい商売敵だった。嘗て和泉屋は勝川派の役者絵を独占し鶴喜屋は歌川豊国を中心とした美人画を出版して蔦重の耕書堂を脅かしていたからである。その勝川派春朗が今や除名にて追放された噂などいち早く出版界の元締めの耳に入らぬはずはない。
「なんだか知らないけどお前さん、ひょっとして蔦屋重三郎を知っているのかい?」
春朗はただ断っただけだったが小紫は凡その見当をつけたのかそれ以上は聞かなかった。しばらく無言で呆れた様子をしていた。