第四回
「瀬川菊之丞ねえ。いい女形だ」
話を合わせながら茶を啜る。
「絵は見ましたか?大磯の虎」
「そうなんだよ、去年の正月興行の菊之丞扮する大磯の虎を描いたのが出たんだってねえ。わたし、客から聞いたんだけど手に入らなくて結局は見ずじまいだよ。残念だったわ」
まさか自分の眼の前にいる男が瀬川菊之丞の大磯の虎を描いた絵師とは思っていないだろう。春朗は黙って聞いていた。
「こんなお触れがつづくようだと…当分この楽しみもまたいつのことやら。芝居はもう中村座だけだわねえ。なんだかこれも危ないわねえ」
再び倹約令の話に戻りながら女は溜息をつくようにして茶を啜った。相当芝居が好きなようであった。
「中村座も危ないっていう話があるのですか?」
春朗にとっては初耳だった。
「そうなんだよ。あんた知らないだろうけどさこの長屋には芝居関係の人間が多いんだよ。特にさあ、ふたつ並んだ向かい側のね、一番西の角の家、何でも中村座の仕事に携わってるらしくてその人がいうには座も今年いっぱいだということらしいのよ」
「へぇー、その人中村座で何をやってる人ですか?」
「さあ、よく分からないんだけど、なんでも元は阿波の能役者の流れを汲む人だとか」
「阿波の能役者?」
「そう。ちょうどあんたと同じくらいの歳恰好だよ」
面白い処へ引っ越してきたものだと思った。この長屋は芝居に携わる者が多いとは。
「芝居が分かるのかい?」
「ええ、まあ」
女は春朗に視線を注ぎ穏やかな口調で尋ねた。歌舞伎役者の絵師が芝居を知らぬわけはない。先ほどから隠してはいるが勝川春朗といえば役者絵の世界ではその名を知られていたはずで、その人物が今はこうして唐辛子売りをしていることなど誰も知らない。
女は初めて会う春朗にそれ以上深くは聞かずただ最近の動静を軽く嘆いているかのようにしゃべっていた。女の首筋に年増とはいえ座敷芸者の色香がほんのりと漂っていたがどこかに陰鬱な影が写っているようにもみえた。陰りではない別物でそれは苦労の芯みたいな刻印といえそうだった。事情のある過去が小唄に現われていたといっても過言ではなかった。毎晩聞こえていた声のうら悲しさはこのせいだったかもしれなかった。
「ところでまだお若いようだけど何をしておいでだい?」
暫く間をおいてから女は話題を変えるように尋ねた。
「昔はちょっと絵を習っていたのですが何しろこんな時勢、食ってもいけず今は細々唐辛子を売るなどして暮らしてます」
「そうかい。大変だねえ」
「わたしも芝居が好きで、いずれ儲けた金で中村座へ見に行くのを楽しみにしております」
「そうかい、そうかい。まあ、頑張っておやり。あ、そうだその中村座へ出入りしているという能役者ねえ、何だったら聞いてみたら?いい話が聞けるかもしれないよ」
「その方のお名前は?」
「何といったかねえ‥えーっと。そうだ斎藤、斎藤十郎兵衛とかいってたかねえ」
「斎藤十郎兵衛」
春朗はその能役者の名をひそかに心に刻んだ。
戸口まで見送られて外に出ると夜は既に凍りつき微かに白いものが降り注いでいる。
「おやまあ、雪だこと」
「ほんに、こりゃあ初雪」
ふたりは暫く戸口に佇んで雪を眺めた。
春朗が置いた唐辛子の籠の上に白い雪が積もっていた。