第三回
三日三晩隣人の謡はつづいた。愈々心動かされてその正体を見極めようと決心する。浄瑠璃の声色にも似たその女の怪しさに複雑に心動かされて以って生まれた好奇心を押さえきれず遂に行動を起す。
「御免よ」
売れ残った唐辛子の籠を入口の傍らに置きその戸口の前に立つ。夜風が冷たく足元は凍っていたが上気する胸はときめいていた。やがて隅の方から女の一呼吸置いた返事が聞こえてきた。
「どなた?」
声はするが姿は現われない。怪訝な空気を察知してか暫く音すら消えた。
「隣に引っ越した者です。夜分に失礼します」
とつづければ、ややあってようやく現われ出でくる気配がしてきた。
「何かご用でも?」
女の風采を初めて見た。歳に違わず気品に満ちていてこれは深川の芸者かはたまた何れかの賭場の大姉御風情である。春朗より一回りは上の年恰好だった。まごつく隙を見せてはならずと先ず丁重に挨拶をする。
「姐さんの謡を拝聴し誰にとぞ風流の主がいらっしゃることかと。一度話でもお聞きしようかと伺ったわけでして」
「立ち話もぶざま、よかったらお入りなさい」
女に案内され部屋に入った。なかは炬燵が敷かれまわりの雰囲気にもまだ正月気分が漂っていて掛けてある衣装の匂いにもそれは感じられる。全体が小奇麗に整頓され男の自分の部屋とは雲泥の差だ。
「謡を励んでおられる様子は玄人とお見受けしますが何処かで伝授しておられるのか」
「なんの。なんの」
女は照れるようにして笑った。
「騒がしく伝っていたでしょう。とんだ迷惑をかけましてすいません。ただの稽古でございます。それに謡などではなくあれは小唄でございます」
三味の音も確かに混じっていたが小唄とは思わなかった。
「これはとんだ失礼をしました。ただ大したお声だと感心したので。して家元はどちらにて」
「ははは。家元だなんてとんでもございません。ただの座敷稽古でございます」
女は落ち着いていた。小唄にしては年季が入っているし座敷稽古とはいえよほどの芸人といえる。その手の経歴の持ち主であろうと春朗は思った。
「芸者でいらっしゃるのですか」
「神楽坂のお座敷に呼ばれています」
女は立ちあがって茶を汲みにいく様子。やり取り短く交わすうちに不思議と和んでいく。なるほど見渡せば箪笥の陰に三味線が置かれていた。掛けてあった着物にも芸鼓の馨りが漂う。
「不景気になったねえ、ひどい世の中だよ。松平様のご着任で町人方の豪勢な振舞いもさっぱり無くなっちまってさあ。このところお座敷もあがったりだよ。なんていう時代なんだろうねえ」
確かに今敷かれている倹約令は次第に巷の奢侈を奪いつつあった。
「森田座、市村座が休業したのも役者の給金を下げたからやってくことが出来なくなったっていうじゃないか。役者にも格付けがあろうってもの、ばかばかしくてやってられないよ。お上公認の芝居小屋なんて所詮つぶれるのが当たり前だよ」
「まこと、おっしゃる通り」
「芝居が好きでねえ…、三代目瀬川菊之丞なんて麗しの極めだよ。眺めていると世の憂さも忘れるわ」
春朗は女の口から放たれた言葉に不意を衝かれた。瀬川菊之丞といえば自分の嘗て描きし役者のひとりである。勝川春朗の役者絵として三代目瀬川菊之丞の大磯の虎こそちょうど一年前出版していたものだった。