第十一回
夏盛り。窓に風はなく四隅には半紙の屑が足の踏み場もなく広がっている。一段落して外の空気でも吸ったらいいのだが時間を惜しんで描きつづけていた。この狂気は根っからの執着心の強さからきているのだ。
小紫から聞いた光琳派一門の情報。早速翌日から江戸中歩き回って居所を探し、二日目に運よく突き止めて入門の願いを申し出、思い叶って修練の機会を与えられた。重々懇々にて求道する者、俵屋の門筋を守り浮世絵の類なきよう勤めることの門是の説明を受ける。描くのは主に花鳥風月鳥獣に宿る明瞭にて幽玄及び淡白にて緻密を墨の濃淡にて写実することを第一とすべきことを言渡される。
春朗は翌日より夜昼構わず描きつづけた。この画風を習得し嘗ての恨みを晴らすために必ず舞台に躍り出てやる。秘める思いは常に変わらなかった。
「おっ、描いてるねっ」
聞き慣れた声が飛び込んできて狭い背後に立ち塞がった。十郎兵衛だ。
「暑いのによ、毎日精が出るもんだな」
春朗は返事もせず一心に筆をとる。もろ肌を脱ぎその背中に汗が滲んでいた。
「それによくもまあ同じものばかりを描いてやがるな」
十郎兵衛は春朗の目の前にある鉢植えの草花を眺めながら呆れたようにつぶやいた。しばらくむさ苦しそうに顔を手で扇ぎながら春朗の絵を覗き込んでいたがやがて声を潜めて告げた。
「聞け、愈々並木五瓶なる者が江戸にやってくる。上方歌舞伎が上演されるぞ。おれは早々に中村座を離れて準備で忙しくなる」
予感は的中した。春朗は彼が入ってきたときから十郎兵衛の異様な息づかいを読み取っていたのだ。
「とうとう参上か。楽しみだなあ…それにしても何故中村座を去るのですか?」
「だから準備のためよ」
しかし春朗は不思議に思った。何か彼の言葉の裏に隠されたものがあるようでならない。大方、中村座での興行が易しくないからなのだろうか。「洩れるとやばい」と言った彼の言葉を思い出す。しかし十郎兵衛は詳細を語らなかった。
「中村座を離れて他の場所でその準備に就くっていうわけですか?」
「そのとおり。中村座は間もなく潰れるだろう。並木五瓶率いる一座の受け入れは控櫓の都座に決まっている。そこで…」
十郎兵衛は居ずまいをただすようにしてから更に声を落とし「実は頼みがある」と本題を切り出した。
「絵を描いてくれ。役者の似顔絵だ。興行に先だって広めたる宣伝用だ」
「似顔絵?」
「そうさ、看板絵でなくていい。こんな半紙にて十分だ」
十郎兵衛は春朗が手にしている半紙を指した。春朗は草花の写実をつづけながら内心謎に包まれているような十郎兵衛の企てを不気味に感じずにはおれなかった。
「頼むよ」
「しかし、どうやって似顔絵を描けば」
春朗にとって具体的な疑問が湧いた。
「心配に及ばぬ、すべて段取りはこちらでやる。ただおぬしには絵筆の腕のみを用立てて欲しいのさ」
十郎兵衛のいう段取りとは「中見」を指していた。興行の幕開けまでのあいだ小屋に篭って稽古を演じる役者のそのままの姿を描き写して欲しいと言った。しかも十郎兵衛の望んでいる宣伝絵とは単なる贔屓絵ではなく個性の溢れた似顔を強調していた。
「幕開けはいつだ?」
「分からん」
十郎兵衛は今は確信がつかめないとでも言いたげに顔を曇らせたがその表情は決して空言とは思えない熱さが宿っていた。新しい画風を今学んでいる春朗にとって再び役者絵の誘惑とは何の因果だろうか。渦巻く迷いがしばらく絵筆を停めていた。
春朗は暑いことに気付き半紙で顔を扇いだ。散らかした紙のなかを歩きながら、「分からん興行のためにその宣伝絵を描けというのですか?」と言うと慌てた十郎兵衛はすかさず手を振り「必ず、必ず」と言い直した。
十郎兵衛は再度念を押して宣伝絵のことを頼むと急いで居をあとにしていった。そのときの目は路地の片隅でトントントンと走って舞い、振り返りざまに見せたあの鋭い光を帯びていた。