第一回
転居には慣れている。ひどいときは三日で新しいところへ引っ越したこともあるくらいだ。根が苛ちかも知れない。気にいらないとすぐに飛び出していく。こう何回も転居癖が身についてくると引越しの要領も心得たものだ。絵具一式と寝具さえ詰め込めばこうして埃っぽくて騒がしい天神明町から朝露の弾く音まで聞こえてきそうな八丁堀の裏通りの長屋に落ち着く段取りだ。
春朗は部屋に戻って顔を拭きながら新居の爽快な朝の匂いを感じ取った。何が童子の智なくあどけなさを示しているか。この度の狩野派総帥の激しい怒りが今も鮮明に浮かぶ。それとその前の勝川派破門の原因となった経緯が同じように繋がってくるのだった。しかし、今は我が道を行くしかなかった。
早速唐辛子売りの支度に取り掛かり今日は両国橋あたりから油町へ抜けることに決める。銭がなけりゃ好きな浄瑠璃も見られないしそれに絵の励みも出来ない。自分に言い聞かせつつ戸口を出た。
最初の女房とも別れ今は独り暮らし。当分このままで余計な食い扶持の心配は一人分しなくてすむ。
朝靄のかかった長屋の路地に立つ商いの格好をした姿は十日前に除名され食い扶持を失った嘗ての勝川派一門を代表する役者絵師の姿とは誰も思えない風情である。
天秤棒を担ぎながら思う。自分には絵を描くことしか能がない。勝川派破門も狩野派追放も何の障りもない。絵を如何にして自分特有のものとして完成させていくか、それが常に求めるものであったからだ。絵は五つのときから彫っていたので体じゅうに絵に対する興味は染みついている。
歯を食い縛りながら両国近くの千石坂を上りやがてそこから下っていって油町筋の問屋街へと進んで行った。
カタカタと戸を開ける音が響くなかを春朗の張りきった売り声が流れる。とおがらしー。とおがらしー。その声は朝陽のなかを弾むように反射する。
「ちょいとこれ高いよ」「いいかげんの辛さなのかい」「産地はどこなのさ」。乱れ飛ぶ女将さんの問いや使いの僕やらの喧騒にまみれながらぺこぺこしていると春朗にとっては初めて経験する世界なのでついこの間までの鬱積は姿を消してしまいそうであった。
こうやって唐辛子売りをするのも決して画道を捨てたわけではない。つい先だっての日光神廊の絵事再修理の随行、総帥狩野融川が描いた絵はまさに疎きに帰していた。童子の智なきあどけない様を示すといえ絵は第一に写実を基にするものだ。いくら裏に心を含んでいても評価に値しない。
その絵はひとりの童が竿を持って柿を落とす図を描いていた。しかし、竿の端は既に遥かに柿の所を過ぎていた。にもかかわらず童子は尚も足をつま立つ。果たして何の意味があるのかと指摘したことが融川に伝わり融川は怒って私を追放したのである。
今でも絵には先ず写実に忠実であることが画道の前提だと思っているし何も狩野派を非難するつもりはない。流派には秩序が一番重要なことなのだと教えられただけのことだろう。その前の勝川派破門の件だって結局は兄弟子春好との仲違いが原因のように思われてしょうがない。
いずれにせよ再起を図る機会を待つだけだ。当分は雅号のない絵師として唐辛子売りをつづけていくしかない。