白衣のネコかぶり校医(2)
「まず、一番重要なことを言っておく。自分が異世界から召喚された者だと口外しないように。絶対、誰にも」
葵が大人しく座ったことを確認すると、アルヴァはそう言って話を始めた。うまく意味を汲めなかった葵は眉根を寄せて問い返す。
「絶対、誰にも?」
「そう。絶対、誰にも」
「どうして?」
「理由は、色々ある」
口外しようとしなかろうと、自分がこの世界の者でないことに変わりはない。そう思っている葵にはアルヴァの曖昧な返答が不審に思えた。
「色々じゃ分からない。ハッキリ言ってよ」
「ハッキリ言ったところで今のミヤジマには理解出来ないと思うよ? この世界のこと何にも知らないみたいだしね」
「それは、確かにそうかもしれないけど……」
「一つ言えることがあるとすれば、異端者は孤立しやすいってことかな」
「……どういうこと?」
「この意味も分からないようじゃ今は何を説明しても無駄だ」
理解させようという努力もせずに無駄と決め付けられるのは感じが悪い。だがアルヴァの言っていることも一理あると思った葵は早々に追及を諦めた。葵が口をつぐんだのを見て、アルヴァは話を続ける。
「まあ、百聞は一見に如かずだよ。話を聞くより実際に体験した方が色々なことが見えてくる」
先程までの突き放した喋り方とは違い、アルヴァは少し口調を和らげてそう言った。しかし励まされた葵はアルヴァの心遣いよりも、別のことが気になって上の空だった。
(アルの口からことわざを聞くと変な感じ)
金髪にブルーの瞳をしているアルヴァは、葵の目から見れば外国人そのものである。葵とアルヴァは厳密に言えば、お互いに意思疎通が出来ていても使用している言語が違うのだが、そのことを理解していても違和感は拭えなかった。それは、アルヴァの発する言葉があまりにも流暢だからに他ならない。
「どうした?」
葵が急に黙り込んだためか、アルヴァが不審そうな表情をして問う。説明するのも面倒だったので、葵は何でもないとだけ答えた。
「さて、では授業を始めよう」
話を切り替えたアルヴァが突拍子もないことを口にしたので葵はぽかんと口を開けた。
「えっ? 授業?」
「そう、授業」
「ここで?」
「そう、ここで」
アルヴァの返答は鸚鵡返しに近いものがあり、質問しても何も解決しなかった。改めて周囲を見渡してみても、この部屋は保健室のようである。そして他の生徒は誰もいない。葵は抗議しようと口を開きかけたが、この状況が自身に都合がいいことを察して再び閉口した。
(教室で授業受けるより楽じゃん)
この部屋にはベッドがあり、疲れた時には休むことも出来る。なにより異世界の子供達と何を話していいのか分からなかった葵は個人授業のありがたみを遅ればせながら感じた。
「いいよ。それで、何するの?」
「やけに聞き分けがいいね。何か企んでない?」
「なんにも?」
「……それなら、いいけど」
納得はしていないようだったが、アルヴァはそこで話を切り上げた。彼は組んでいた脚を解いて表情を改め、それから葵に向き直る。アルヴァはだらしない格好をしているものの白衣は着ているため、真面目な表情をされると教師に見えないこともなかった。
「まず、一人称は『わたくし』を使うこと」
「……は?」
授業と言うからには魔法だと思い込んでいた葵はアルヴァに間の抜けた返事をした。するとすかさず、アルヴァから叱責が飛ぶ。
「返事は『はい』か『分かりました』」
「いや、そうじゃなくて……」
「いえ、そうではなくて」
「は? どういうこと?」
「ミヤジマ、君は言葉遣いを正すことから始める必要がある」
言葉遣いが悪いと指摘された葵は不可解に眉根を寄せた。決して美しいとは言えないかもしれないが暴言を吐いたりはしないので、葵の言葉遣いはごく一般的である。葵自身にも自分の言葉遣いが特別悪いという意識はなかったため、彼女は不服に口唇を尖らせた。
「先生にはちゃんと敬語使うよ。別に、直す必要ないじゃん」
「別に、じゃん、などは使用禁止だ。目上の者にだけ媚びていればいいというものじゃない」
「何でアルにそこまで強制されなきゃいけないの?」
「トリニスタン魔法学園に通うからだ」
そこまで言われれば、葵にも理解することが出来た。アルヴァが言っているのは、要はお嬢様のような言葉遣いをしろということである。トリニスタン魔法学園は良家の子息が通う学校なのだと事前に聞いていたものの、そこまで規律にうるさいと思っていなかった葵は面倒さも伴って不満を募らせた。
「私、お嬢じゃないし。大体、何でそこまでして学校に通わなきゃいけないの?」
理不尽な理由で異世界に召喚され、帰れない。加えて次々と理不尽なことを押し付けられれば不満に感じない方がおかしいのだ。胸の内を言葉にするうちに感情が昂ってきた葵はさらに不平を並べ立てた。
「こんなことしたって元の世界に戻れば関係ないし、ムダだよ」
葵の言い分を黙って聞いていたアルヴァは考えこむように顎に手をあてた。少し間を置いた後、アルヴァは真っ直ぐに葵を見据えてから口を開く。
「じゃあ、ミヤジマを学園に通わせたがる理由を教えよう。都合がいいんだよ。その方が、誰にとってもね」
アルヴァの発言は理不尽以外の何物でもなく、葵は心底嫌になった。要するにアルヴァやレイチェルに都合のいいことが最優先されるべきで、被害者である葵の気持ちなど二の次ということなのだ。
「……バカらしい」
これ以上アルヴァと話をしたくなかった葵は吐き捨てるように言い、立ち上った。しかしドアまで歩み寄ったところで、その扉が開けられないことを思い出して立ち尽くす。葵が為す術なく動きを止めていると背後からアルヴァの声が聞こえてきた。
「この部屋から一人で出ることも出来ない君に何が出来る? 僕との会話を避けていても、君にはデメリットしかないと思うよ」
葵は悔しさに拳を握ったが、アルヴァの言う通りであった。元の世界へ戻れる方法が見付かることを待つしかない葵には他にするべきこともない。自由を満喫しようにも先立つものがなく家すらも貸し与えられているだけの、自由とは程遠い環境なのだ。魔法が使えないことを除いたとしても、この世界は葵にとって優しくないことばかりだった。
「ミヤジマ」
ドアの前で突っ立っていることしか出来なかった葵の肩に、歩み寄って来たアルヴァがそっと手をかける。彼の声音は、先程までの厳しいものから一変して柔らかなものだった。
「君が腹を立てる気持ちも分かる。だけど突っ張っていても何もいいことはないよ?」
「……大人しくしてたらどんないいことがあるっていうのよ」
アルヴァの手を払い除ける気力もなかった葵は投げやりな気持ちで話に応じた。アルヴァは強引に葵を振り向かせ、瞳を覗き込みながら答える。
「ミヤジマがやるべきことやってくれれば不自由はさせないよ。元の世界に帰せとかは無理だけど、僕に出来ることなら望みを叶えよう」
「私がやるべきことって何?」
「この世界を学ぶこと。学びなよ、ミヤジマ。そうすれば自由も増える」
アルヴァの瞳から顔を背けた葵は次第に心が流されていくのを感じた。いつ帰れるかも分からない、他にすることもない。そんな状況では何かを強制されてやっているくらいがちょうどいいのではないかと、思い始めてしまったのだ。
「ミヤジマがお望みとあれば、物品面だけじゃなく他のことでも満足させてあげるよ?」
顔を背けている体勢をこれ幸いと、アルヴァは葵の頬に軽いキスを落とした。頬に触れた柔らかな感触に驚いた葵は悲鳴を上げてアルヴァを突き飛ばす。動揺して顔を真っ赤にしている葵とは対照的に、アルヴァは余裕たっぷりの微笑みを浮かべた。
「四六時中バカみたいに丁寧な言葉遣いをしろなんて言わないよ。学園の中にいる時だけ我慢してくれればいいんだ」
葵の硬質さが崩れたタイミングを狙いすまして、アルヴァは先程の話をぶり返す。彼が再び近寄ろうとしたため葵は条件反射的に頷いてしまった。
「いい子だ。じゃあ、会話の練習をしようか」
もう迫る必要もないと言わんばかりに、アルヴァはさっさとデスクの方へ戻って行った。扉を背にへたりこんだ葵はそのまま、頭を抱える。
(こ、この嫌なパターンは……)
ユアンに丸め込まれた時も、そうだった。挑発したかと思えば肩透かしを食らわせ、最後は色仕掛けで丸め込むのだ。
「ミヤジマ、始めるよ。いつまでも座り込んでないで立ちなよ」
アルヴァの無情な言葉と共に、葵の受難の日々は幕を上げたのであった。