白昼の悪夢(6)
シエル・ガーデンを徒歩で出た後、葵は夏の日差しにうんざりしながら校舎へと戻った。まだどこの教室でも授業が行われているようで、エントランスホールには人っ子一人見当たらない。授業が終わって生徒があふれ出す前にさっさと帰ろうと思った葵は、そのまま早足で一階の北辺にある保健室へと向かった。
この世界で言う『魔法』とは、二月が浮かぶ世界に生を受けた者に受け継がれる潜在的な血の力である。故に魔力の強弱はあるものの、この世界の者は誰でも魔法を使うことが出来る。しかし魔法は、超能力で言うところのサイコキネシスのように念じただけでは発動させることが出来ない。どのような魔法であれ、魔法を発動させるには魔法書や魔法陣といった魔法道具が必要なのである。普通に生活している者はせいぜい指輪やネックレスなどを身につけているくらいだが、トリニスタン魔法学園の生徒ともなれば分厚い魔法書を常に持ち歩いている姿が当たり前だ。だから形だけではあっても魔法書を肌身離さず持っていろと、葵はアルヴァに言い含められているのだった。
(……ない)
保健室前の廊下で足を止めた葵は、見渡す限りチリ一つ落ちていない光景に失望を感じた。魔法書を落としたとすればシルヴィアとサリーに突然両腕を拘束された、この場所くらいしか考えられない。だが落とした場所にないとなれば、校舎を常に美しく保っている魔法道具が掃除してしまったのかもしれない。
(落し物ってどこに取りに行けばいいんだろう)
困ってしまった葵はとりあえず、保健室の中を覗いてみることにした。アルヴァは不在でも、保健室の主であるウサギが何か知っているかもしれないという淡い期待を抱いたからだ。
鍵を使わずに保健室の扉を開くと、そこにはアルヴァの言う『僕の部屋』と似て非なる光景が広がっている。簡易ベッドが並ぶ保健室風の『アルヴァの部屋』には窓がないのだが、本物の保健室には教室と同じように窓があるのだ。夏の斜光が燦々と差し込む中、白い毛並みをしたウサギは窓際のデスクの上にいた。だが平素とは異なり、葵を迎えたのはウサギだけではなかった。
「ロバート先生」
「授業中に油を売っているのは感心しないな、ミヤジマ=アオイ」
開口一番に教師らしい科白を放った青年は、葵達のクラスの担任であるロバート=エーメリーである。顔を合わせるなり怒られてしまったため、葵は少し怯みながら後ろ手に扉を閉ざす。しかし葵が謝ろうとすると、ロバートは人好きのする爽やかな笑みを浮かべた。
「とはいえ、私もこうして授業中に油を売っているのだから他人のことは言えないな」
ロバートの笑みに癒された葵は安堵の息を吐き、それから改めて頭を下げた。
「すいませんでした。あの、昨日補習をさぼっちゃったことも」
「ああ、気にしなくていい。大体の事情は分かっているから」
マジスターにも困ったものだと付け足したロバートは、どうやら葵の置かれている状況を理解してくれているようである。今まで理解者らしい理解者もなく、独りで肩身の狭い思いをしていた葵は嬉しさのあまり泣きたくなった。
(いい人だなぁ、ロバート先生)
黙って勝手にいなくなる誰かとは大違いである。デスクの上で大人しくしているウサギに目を移しながら葵がそんなことを考えていると、ロバートが言葉を重ねた。
「補習は、君の都合が良い時に行おう。補習を受けられる日は四階の特別教室に来てくれればいい。都合が悪い日は無理をしなくていいから、そのことは心に留めておいてくれ」
「先生……。でも、それじゃ先生がかなり待つことになりませんか?」
「教師は受け持っている生徒が校内にいるかどうかくらい、簡単に知ることが出来る。問題はないさ」
「そうなんですか……」
便利だなぁと胸中で呟いた葵は、アルヴァにも似たような手口で監視されていたことを思い出して一人で納得した。便利すぎるのも善し悪しがあると苦笑いをしながら、葵はロバートに視線を移す。
「そういえば先生、この辺りで魔法書を見ませんでしたか?」
「あれのことか?」
ロバートが窓際のデスクの方へ顔を傾けたので、葵もつられてそちらを振り返った。デスクの上ではウサギが、短い両手で抱えるようにして魔法書を持っている。どうやら掲げて見せているらしい魔法書の表紙には円陣で囲まれた五芒星が描かれていて、葵はホッと胸を撫で下ろした。
「保健室前の廊下に落ちていたのだが、探し物はそれのようだな」
そう声をかけた後、ロバートは葵に魔法書を手放さないよう注意を促した。というのも、魔法書を他人に見られるということは全ての手の内を明かしてしまうことと同義だからだ。以前、ステラにも同じようなことを言われたなと思い返した葵はロバートの注意を素直に受け止めた。
「ああ、それと、今日の授業が中止になったことを伝えておく」
「えっ、何でですか?」
「私が教室へ行った時、誰もいなかったからだ」
「あ、そ、そうなんですか……」
教室が空だったのはまず間違いなく、マジスターと葵のせいである。不本意ながら騒動に関わっているだけに、葵はロバートに申し訳なさを感じた。そんな葵の胸中を読み取ったかのように、ロバートはその端整な顔に柔らかな笑みを浮かべる。
「困ったことがあれば、いつでも相談に乗ろう」
すれ違いざまに葵の頭にぽんと手を置くと、ロバートはそのまま保健室を出て行った。優しくされることに慣れていない葵は嬉しいような困ったような複雑な気分で、とりあえずウサギから魔法書を受け取る。そしてウサギからアルヴァがまだ不在であることを聞き出した後、葵も保健室を後にした。
(ロバート先生、ステキだなぁ)
アルヴァは特殊な例として、今まで出会ったトリニスタン魔法学園の教師は葵と関わること自体を避けていた。そのため何をしても注意を受けることなく、授業中に指されたことすらないのだ。つまり葵は、教師にとって特殊な生徒というわけである。そうした生徒を平等に扱ってくれるロバートは、それだけ教育熱心なのだろう。
マジスターに振り回された後だけに、葵は余計に常識人であるロバートに好意を募らせた。彼の下で、学びたい。そう思った葵は補習に備えて少し家で勉強しようなどと考えながらエントランスホールに足を向ける。しかし緩いカーブが続いている廊下を歩いているうちにあまり顔を合わせたくない人物と遭遇してしまったため、歩みを止めた。
(うわっ、イヤなヤツと目が合っちゃった)
葵がおもむろに顔をしかめた相手は、黒髪に黒い瞳といった容貌をしている私服姿の少年である。マジスターの一人である彼と、葵は相性が悪い。これまでにも幾度か謂われの無い暴力を受けている葵は彼に関わりたくなかったため、くるりと踵を返した。その直後、背後で怒声が上がる。
「待ちやがれ!!」
静かな廊下に響き渡った大声に驚いた葵は、背後を振り返ってさらに驚いた。キリルが、何故かこちらに向かって走って来るのだ。周囲を見回しても他に誰もいなかったので、葵はとりあえず逃げ出すことにした。
「てめっ、待てって言ってんだろ!!」
背中に届く怒声から察するに、やはりキリルが追いかけているのは自分らしい。そう理解した葵はますます止まるわけにはいかなくなり、全速力で廊下を疾走した。
(何で追ってくるの!?)
理由は分からないがキリルは怒っている。彼が怒っているとくれば殴られるという図式が頭の中で出来上がっていたので、葵は恐怖と闘いながら足を動かし続けた。しかし背中から迫り来る怒鳴り声は、少しずつ間近なものへと変わってきている。最終的には肩口を掴まれて力任せに引き倒され、廊下にへたりこんだ葵は魔法書を抱いて縮こまった。
「ムダなことしてんじゃねーよ、うぜぇな」
荒い呼吸の合間に葵への文句を吐き出したキリルは走ったせいで滴った汗を無造作に拭っている。彼の口調も表情も不機嫌そのものであり、絶対に殴られると直感した葵は知らずのうちに歯を食いしばった。魔法書を抱いているため胸倉を掴み上げられなかったからなのか、代わりにキリルは葵の髪を乱暴に掴み上げる。恐怖のあまり固く目をつむった葵は次の瞬間、口唇に何かが押し付けられた驚きで可能な限り目を見開いた。
恐怖と驚愕で何が何だか分からなくなってしまった葵は、キリルが離れて行った後もあ然としていることしか出来なかった。開いた口が塞がらない状態の葵をキリルはしばらく眺めていたが、やがて不可解そうに眉根を寄せながら空を仰ぐ。
「……わからねーな」
難しい表情で独白を零したキリルは腕組みをし、呆けている葵を捨て置いてエントランスホールの方へと歩き出した。一人取り残されてからも動くことが出来ずにいた葵は、やがて正気を取り戻して口元を手で覆う。口唇にはまだ、あまりにも突然で不可解すぎるキスの感触がはっきりと残っていた。
(い、意味が分からない……)
どうして自分がこんな目に遭わなければならないのかと、葵はそればかりを胸中でくり返しながら立ち上がり、フラフラと廊下を歩き出した。