メイドがやって来た(2)
夏月期中盤の月である岩黄の月の最終日、休日であるその日もいつもと変わらず穏やかに夏の夜が明けた。斜光は豪奢な飾り窓から差し込んできているため、大理石でできた床には複雑な図形が浮かび上がっている。太陽が上るにつれて少しずつ形を変えていく図形はまるで影絵のようだが、ベッドに横たわっているその部屋の主は寝入っているため、朝焼けが見せる幻想的な光景に目を留める者はいなかった。薄手の上掛けを寝苦しそうに跳ね除け、キングサイズのベッドの上で苦悶の表情を浮かべながら眠っている少女の名は、宮島葵。眉間に深いシワを刻んでいた彼女は不意に悲鳴を上げ、それと同時にベッドの上で跳ね起きた。
(ゆ、夢……)
覚めてしまったことで、それまで見ていたリアルな光景が夢だったことを知った葵は脱力してベッドに逆戻りした。上質なベッドのスプリングがわずかに軋み、柔らかな手触りのシーツがむき出しの肌に触れる。絹のような滑らかさから左手を離した葵は、それを自身の胸の上に乗せてみた。心臓がドクドクと脈打っていて、激しい鼓動はまだ治まっていない。
(……なんて夢、見てんのよ)
夢の内容に居た堪れなさが募った葵は枕を抱き、横向きに転がって体を丸めた。
遡ること七日前、葵は友人だったステラ=カーティスと、初恋の相手だったハル=ヒューイットとの別れを経験した。それは悲しい別れではなかったものの葵にとっては複雑な意味合いを持っていて、七日も経った今でもまだ、その時のことを夢に見てしまうのである。それが現実に起こった出来事だけを忠実に再現してくれるなら、まだいい。だが無意識の産物である夢は、時に自身では制御の出来ない、とんでもない脚色を加えてくれるのだ。
『アオイ……好きだ』
夢の中で聞いたハルの科白がリアルな感触を伴って蘇り、人知れず真っ赤になった葵は枕を抱く腕に力を込めた。夢から醒めたことで少し落ち着いてきていた鼓動が、再び激しさを増していく。しかしすぐに虚しさが募り、葵は重いため息を吐いて体を起こした。
(そんなこと、ありえない)
葵が知り合う以前から、ハルはステラを想っていた。そして彼はステラと一緒にいるために、この地を去ったのだ。そんなことは百も承知だったが、それでも葵が願望を含んだ夢を見てしまうのは、ハルの別れ際の行動に問題があったからだった。
(何で、別れ際にキスなんかするのよ)
色々な意味で衝撃的だったハルからのキスも、彼にすれば餞別くらいの軽い気持ちでしかなかったのだろう。だが彼氏いない歴十七年の葵にとって、あれが間違いなくファースト・キスだったのだ。
(ハルのバカ……)
もう会うこともないだろう少年を思い浮かべ、ベッドの上で膝を抱いた葵は何度目か分からない呟きを胸中で繰り返した。しかし感傷に浸っていたのはわずかな時間で、異変に気がついた葵は物思いを失念して顔を上げる。廊下の方で物音がしたような気がした次の瞬間、葵の部屋への入口である豪奢な二枚扉が中央から静かに開かれた。
「お嬢様、どうなさいました?」
そんな問いかけと共に姿を現したのは、葵には見覚えのない少女だった。葵と同年代だと思われる彼女は赤味の強いブラウンの髪をこざっぱりとまとめていて、何故かメイド服を身につけている。だが葵の目を釘付けにしたのはメイド服姿のニューフェイスではなく、彼女の肩にずっしりと体を預けたまま微動だにしないワニのような生物だった。
「それ……何?」
葵が呆けたまま指差すと、メイド服姿の少女は自身の肩に目線を落とした。それから改めて葵を見据え、少女は問いに対する答えを口にする。
「わたくしのパートナーで、名をマトと申します」
少女の返答は簡略なパートナーの紹介であり、その生物の存在自体に疑問を抱いている葵の意図に副うものではなかった。葵はさらに問いを重ねようとしたのだが、マトと呼ばれた生物から少女に視線を移したことでふと我に返る。
「あの……あなた、誰ですか?」
本来ならば第一声として発さなければならなかった問いを、葵は今さらながらに少女に投げかけた。本日が初対面である少女はロング丈のスカートの裾を軽く持ち上げ、葵に向かって改まった一礼をして見せる。
「申し遅れました。わたくし、本日からこのお屋敷で働くこととなりました、クレア=ブルームフィールドと申します。以後、お見知りおきください」
「あ、どうも。私は宮島葵です」
クレアにつられて頭を下げながら名乗った後、葵は眉根を寄せながら目を上げた。しかし葵が何を問うよりも早く、クレアが再び口火を切る。
「先程、お嬢様の寝室から悲鳴が聞こえたのですが。何かございましたでしょうか?」
「悲鳴?」
「ええ。賊が侵入したのではないかと馳せ参じたのですが……そのような痕跡は見られないようです」
賊というクレアの物言いが場違いに仰々しかったので、そのような事態に直面したことのない葵は思わず苦笑いを零してしまった。しかしすぐ、あることに思い当たった葵は笑みを収めて真顔に戻る。
(そういえば……)
今朝はとんでもない夢をみて、何かを叫びながら目を覚ましたような気がしないでもない。実際にクレアが耳にしたと言っているので、おそらくは悲鳴を上げながら夢から醒めたのだろう。しかし夢見が悪かったのだと話せば、夢の内容について何かを訊かれるかもしれない。そう危惧した葵はさっさと話題を変えることにした。
「ところで、クレアさんは何しに来たんですか?」
魔法という便利なものが存在するこの世界では掃除や洗濯、料理までもが人の手を必要としない。それは即ち、どれだけ大きな屋敷に住んでいようと使用人が必要ないということなのだ。だが疑問をストレートに口にしてしまってから、葵はしまったと思った。
(きつい言い方、しちゃったかな)
不安に思った葵は恐る恐るクレアの顔色を窺ったのだが、彼女は傷つく表情をしているどころか眉一つ動かしていなかった。あくまでも淡白に、クレアは返答を口にする。
「お嬢様、使用人に敬称は不必要です。わたくしのことはクレアとお呼び下さい。そして先程の問いに対する答えですが、わたくしはお嬢様のお世話をするために参りました」
その『お世話』の内容が分からないのだと、葵は胸中で小さく反論を返す。その疑問を口に出せなかったのは、クレアという人物がまとう独特の雰囲気に原因があった。初対面の挨拶を交わした時ですらクレアはニコリともせず、鉄面皮のような彼女の無表情はまったく動く気配を見せない。おそらく彼女は冷静沈着な人物なのだろうが、その態度はともすれば冷淡にも思えてしまうのだ。
「朝食は食堂で召し上がりますか? それとも、お部屋の方へお運びいたしましょうか?」
クレアが再び口を開いたので、彼女のことを「苦手だなぁ」などと思っていた葵は表情を改めてから答えを口にした。
「あ、後で食堂の方に行きます」
「お嬢様、わたしくに敬語を使う必要はございません。平素の通りにお話しください」
「……分かった」
クレアの言う通りに言葉遣いを直してみたものの、庶民である葵にとっては主人と使用人という関係自体がひどく違和感を覚えるものだった。言い知れぬ窮屈さを感じてしまった葵はさりげなく視線を逸らし、クレアに気付かれないよう小さく嘆息する。
「では、お召し替えをいたしましょう」
そう言い置いて、クレアはベッドに腰かけている葵の傍へ歩み寄って来た。彼女自身よりもクレアの肩にいる生物に怯えた葵は無意識のうちに上半身を引く。葵の不自然な動作に目を留めたクレアは肩にいるマトに視線を移した。クレアの動作はアイコンタクトだったらしく、彼女の体を伝って床に下りたマトは短い手足を動かして扉の方へと去って行く。腹這いにのっそりと移動するマトをやはりワニのようだと思いながら見つめていた葵は、クレアの手が突然視界に入って来たことに驚いて声を上げた。
「な、何?」
「お召し替えを」
「い、いいよ! 自分でやるから!」
ネグリジェを剥ぎ取られそうになった葵は慌てて立ち上がり、ベッドの傍から離れてクレアと距離をとった。思いきり拒絶された形のクレアは傷ついた表情をするでもなく、キョトンとして葵を見ている。この世界の慣習に不慣れな葵にはクレアがそういった表情をしている理由も分からず、ただ『まずいことを言ったかもしれない』とだけ思った。
葵は二月が浮かぶこの世界の住人ではなく、異世界から召喚された者である。今現在、身近にいる人たちの中で唯一事情を知っているアルヴァ=アロースミスという名の青年に、葵は自分が異世界から召喚された者であることを誰にも言うなときつく口止めされていた。だからこそ分からないながらも周囲に溶け込もうと努力しているのだが、こうしてふとした瞬間にボロが出てしまうのである。しかしそれは、ある程度は仕方のないことだった。生まれ育った場所ではないため、葵にはこの世界に関する予備知識がほとんどないのだから。
(あ、だから一人暮らしじゃなきゃダメだったのかな?)
葵がこの屋敷で一人暮らしをするようになったのは、全ての元凶であるユアン=S=フロックハートという名の少年と、彼の家庭教師であるレイチェル=アロースミスによって半ば強引にそう取り決められたからである。一人暮らしをしてもらうことになると言っていたユアンの言葉通り、この屋敷にはクレアが姿を見せるまで葵の他には使用人の一人もいなかった。二月が浮かぶこの世界には魔法という便利なものがあるため一人暮らしでも不便さはなかったのだが、どうも葵を一人きりで置いておいたのには別の理由が存在しそうである。ユアンとレイチェルの思惑を今さらながらに理解した葵は納得すると同時にクレアに対する不審を募らせた。
(クレアって、誰に言われて来たんだろう)
彼女の口ぶりから察するに、クレアはもともとこの屋敷で働いていた者ではない。新しいメイドが勝手にやって来るとは考えにくいので、彼女がここへ来たのには第三者の意思が働いているはずなのだ。それはユアンかレイチェルか、あるいは他の誰かなのか。本人に直接尋ねようと思った葵は口を開きかけたのだが、あることに思い至って声を出さないうちに閉口した。葵がアルヴァに言い含められていることは自分が異世界から来た者だと口外しないということだけではない。アルヴァ自身や、彼の姉であるレイチェルのことも、誰にも言うなというのである。
(……アルに聞いた方がいいか)
クレアがどこまで事情を知っているのか分からない以上、迂闊なことは口に出来ない。そう結論を出した葵は何か言葉をかけられるのを待っているらしいクレアを見やり、口火を切った。
「後で行くから、先に行ってて」
「かしこまりました」
腰を低くして一礼した後、クレアは大理石の床にへばりついているマトを回収してから部屋を後にした。クレアの姿が視界から消えてからも足音に耳を澄ましていた葵は、その音が聞こえなくなったのを機に大きく息を吐く。どうして家の中でまで気を張らなければならないのかと嘆きながら、葵はのろのろと着替えを始めた。