想いの檻(5)
夏月期最初の月である、岩黄の月の十六日。その日、朝からトリニスタン魔法学園アステルダム分校に赴いた葵とクレアは、校舎一階の北辺にある保健室を訪れていた。本来ならそこには校医であるアルヴァの姿があるはずなのだが、現在は彼の姉であるレイチェルが代理を務めている。葵からそうした話を聞いていても、実際に白衣姿のレイチェルを見たクレアは目を丸くしていた。
「ほんまにレイチェル様が女医になっとる」
「レイって何着ても似合うよね」
クレアと葵は本人の前でそんな会話をしていたが、当のレイチェルは意に介さない。平素のように淡々と、彼女は話題を変えた。
「レリエは手に入りましたか?」
レリエというのは通信魔法に必要な魔法道具のことで、昨日のうちにオリヴァーから受け取っていた葵は鞄からそれを取り出した。レイチェルの手に渡ると、彼女は自分の情報をレリエに刻んで行く。それを使うためには特定の呪文も必要になるため、魔法書を手にした葵は必要な情報をそこに書き込んでいった。
「その魔法書は、わたくしが差し上げたものですね」
すでに作業を終えているレイチェルは、葵がノートを取っている様子を見ながら独白のように零した。魔法書にペンを走らせながら、葵は頷いて見せる。
この世界に来た当初、葵は他人の魔力を借りるという形で魔法を使っていた。それを提案したのはレイチェルで、この魔法書は初心者の葵のために彼女が用意してくれたものだった。もともとはユアンが基礎的なことを学ぶために使用していたものらしいのだが、後半は葵が付け加えた呪文や魔法陣が収められているため、もはや葵のノートと化している。昨日教えてもらったハルやオリヴァー、クレアの連絡先なども、そこに記してあった。
「最初の頃はけっこう使ってたんだけどね。これ、重いから。いつの間にかアルとかに頼るばっかりになっちゃってた」
この学園のマジスターやレイチェルなどは異なる次元を倉庫代わりに使えるため、重い魔法書を持ち歩く必要がない。しかしそんな真似が出来ない葵は、常に分厚い魔法書を持ち歩かなければ満足に魔法を使うことが出来ないのだ。そのため自然と誰かに頼るばかりになっていったが、これからはそんなことを言っていられない。そう決意して魔法書を手にした葵は、閉ざしたそれを胸に抱いた。
「魔力の補給は、ここに来ればレイがやってくれる?」
「はい。ですが通信魔法を使う程度でしたら、しばらくは補給の必要はないと思われます」
まだ学園に通う前、葵はレイチェルから魔法書と共に指輪を貰った。その時の指輪よりも今回貰った物の方が魔力を多く蓄えられるのだと、レイチェルは補足する。葵が嵌めている指輪を見て、クレアも同感だというように頷いていた。
「レイチェル様がおらんようになっても、アルに頼めばええことやしな」
アルヴァの名前を持ち出したことで彼の不在に思い至ったらしく、クレアはレイチェルを振り向いて話を続けた。
「アルはいつ戻って来るのですか?」
「それは、わたくしにも解りません。ですが心配は無用ですので、戻って来たら平素のように迎えてやって下さい」
微妙に含みのある言い方だと、そう思ったのは葵だけではないようだ。クレアも微かに眉根を寄せていたが、彼女はそこですんなりとアルヴァの話を終わらせる。クレアが引いたので、葵も追及するのは止めておいた。
「それはそうと、」
レイチェルとの会話を切り上げたクレアがいつもの口調に戻ったので、矛先が自分であることを察した葵は彼女の方を見た。目が合うと、クレアはそのまま言葉を重ねる。
「とりあえず時の欠片を集めるっちゅーのは、変わりなしでええんか?」
「え?」
クレアからの質問は意外なもので、意図が分からなかった葵は首を傾げた。何故その質問が出てきたのかを尋ねると、クレアは呆れ顔になりながら話を続ける。
「前に言うてた時と状況が違うやろ?」
「状況……って?」
「今はハルのことがあるやんか」
そこまで言われて初めて、葵はクレアの意図を理解した。この世界で恋人という存在を作ってしまったわけだが、それが帰還を望む気持ちに影響を与えるのではないかと、問われていたのだ。いつか必ず直面する問題を改めて提起されたことで、葵は閉口せざるを得なかった。
(そう、なんだよね……)
この世界で恋人をつくったところで、いつか必ず別れがやって来る。それは召喚された当初から分かっていたことで、葵はこれまで積極的に恋愛をしようとは思ってこなかった。それでも短い間だけ恋人という関係だった者や、恋愛関係に発展しそうだった者は、ハルの他にもいる。彼らとそうした関係になった時はまだ帰還が現実味を帯びていなかったため、あまり深刻に考えていなかったのだろう。しかし今回は、それとは話が違う。
ハルという恋人が出来たことで、葵が考えるべき選択は三つになった。一人で生まれ育った世界に帰るか、ハルを説得して共に異世界へ行くか、この世界に残ってハルと共にいるか、だ。選択肢が増えてしまったが、いずれもすぐに答えを出せる問題ではない。ひとしきり悩んだ後、誰かの意見を聞いてみたくなった葵はクレアに尋ねてみた。自分と同じ状況に追い込まれた時、クレアならどうするか。その問いに、クレアは考える間を置いてから答えた。
「うちやったら、愛する人との未来を選ぶと思うわ」
「お父さんとかお母さんとか、恋人以外に大切な人と会えなくなっても?」
「父親は放っておくとしてもや、おかんが生きとったら……もうちょっと悩むかもしれへんな」
「お父さんはいいんだ……」
「今まで好き勝手やってきた人や。娘の選んだ道くらい、黙って祝福させるわ」
有無を言わせぬ口調ではあったものの、言葉の端々からは親子らしい情が伝わってきた。微笑ましいなと思いながら、葵は話を続ける。
「ユアンとか、レイとかは?」
「せやな、そっちの方が悩みどころや」
腕を組んで眉根を寄せたクレアは、両親の話をした時よりも迷いが深そうに見える。実際には母親を亡くしているクレアにとっては、その後に出会ったユアンやレイチェルの方が未練と成り得るのだろう。しかしあまり考え込むことはせず、クレアは答えを導き出した。
「ユアン様にお仕えすることはうちの生き甲斐や。せやけどユアン様やったら、うちが選んだことならええって笑顔で送り出してくれそうやしな」
それはレイチェルも同じだろうとクレアが言うので、葵はレイチェルを振り返った。
「そうなの、レイ?」
「人生に出会いと別れは付き物です。いつか別れる日が来るとしても出会い自体がなかったことになるわけではないのですから、わたくしはそれで十分だと考えます」
「……そっか」
二度と会えなくなったとしても、共に過ごしたかけがえのない時間は記憶として残る。それだけで十分だと言うレイチェルは、やはり大人なのだろう。そんな彼女が自分と同じ立場に立たされたらどうするか。答えを聞いてみたくて、葵はクレアに投げかけたのと同じ質問をレイチェルにもしてみた。
「その答えを導き出すのは非常に難しい、ですね」
即答すると思っていたレイチェルから返ってきたのは、いつになく歯切れの悪い回答だった。意外に思った葵は目を瞬かせながら話を続ける。
「レイでも、答えは出せない?」
「猶予があるのでしたら、すぐに答えは出せます。しかし今すぐに決断となると……わたくしには決められないかもしれません」
「猶予って?」
「ユアン様が立派な国王になられた後でしたら、わたくしはクレアと同じ道を選ぶでしょう」
それはつまり、現役を勇退して恋人と第二の人生を歩むということだ。それならば犠牲にしなければならいものも、最小限で済むかもしれない。そういう考え方もあるのだと思った葵は改めて、レイチェルという人物の凄さを感じた。
(レイならどこに行っても、うまくやっていけるんだろうなぁ)
だが葵には、レイチェルほどの器量はない。そして彼女が危惧する通り時間も、あまりないのだ。この世界と生まれ育った世界では時間の流れ方に差異があるため、時間をかければかけるほど、帰り辛くなってしまう。
(帰りたい……けど、)
帰るべき場所には両親や友達がいるが、クレアやレイチェルは存在しない。帰還を選択するということは、こうして彼女達と過ごす穏やかな時間が未来永劫失われるということだ。そのことを寂しいと感じた葵は失いたくないと、強く思った。
(ハル……)
つい先日恋人になったばかりの彼は、帰りたいと言ったらどういう反応をするのだろう。キリルとのやりとりを散々見てきたはずなので、付き合おうと言い出した時点で何か考えを持っていたのかもしれない。だがそれを確かめることは、今の葵には出来そうもなかった。
(とにかく、まずは自分がどうするのか決めないと)
帰還か残留か、どちらかを選ばなければハルとは話も出来ない。立ち止まっているわけにはいかないと思った葵は当面の目標として、マジック・アイテムの完成を目指すことが変わらないことをクレアに告げた。