under The moon(2)
隣室で物音がしたような気がして、机の上に広げたボードに見入っていた葵は顔を上げた。葵の部屋である202号室には隣室が二つあるのだが、物音が聞こえたのはどうやら角部屋の方からのようだ。物音を聞いてすぐさま立ち上がった葵はアパートの廊下へと出て、201号室の扉を叩いた。
「クレア? 帰ってるの?」
ノックをしてから呼びかけてみたものの、201号室は静まり返っている。しばらく待ってみても扉が開く気配はなかったので、空耳だったことを察した葵はため息をつきながら自室へと引き返した。
(そろそろお風呂入ろうかな)
机の前から動いてしまったことで集中力も切れたため、息抜きをすることにした葵はバスセットを片手に再び自室を後にした。年季の入った外階段を下って地上から空を見上げれば、今宵も伽羅茶色の二月がぽっかりと浮かんでいる。くすんだ月明かりに照らされているアパートの屋根に人間ではないシルエットを目にして、葵は急いで多目的ルームへと向かった。魔法の鍵を使うことによって食堂や風呂場へと姿を変える多目的ルームの扉をそのまま開くと、そこはアパートの屋根の上へと通じている。鍵を使わずに扉を開けた葵は屋根の上に出ると、不安定な足場に気を配りながらゆっくりと歩を進めた。
「こんばんは」
葵が声をかけたのは、屋根の上に見えた小さなシルエット。額に金色の月を抱く毛並みのいい黒猫は屋根の上で行儀良く座していて、侵入者である葵を無言で迎えた。彼はただの猫ではなく、その正体は大草原に佇む小さな家、ワケアリ荘の管理人である。そして猫と人間、その両方を素顔とする彼は葵と同じく異世界からやって来た『召喚獣』でもあった。
「隣、いい?」
葵の問いかけに、黒猫は金色に輝く瞳を向けただけで答えとした。言葉はなかったが彼には動くような気配も感じられなかったため、それは了承の意なのだろう。そう解釈した葵は「おじゃまします」と言い置いてから猫の隣に腰を下ろした。
周囲を夏草の海に囲まれているワケアリ荘は、虫の音も聞こえてこないほど静まり返っていた。自然界にあるべきはずの音色が聞こえてこないのは、ここが『世界』の理からはみ出している場所だからなのかもしれない。それでも、風は吹く。どこかで生まれた風は夏草の海を渡り、少し伸びた葵の髪と黒猫の柔らかそうな毛を優しく揺らした。
(何を、見てるんだろう)
言葉もなく風を受けている黒猫の瞳は、すでに葵から外されている。その金色の瞳が見据えているのは『世界』の境界線である枯れた大木なのか、故郷に似ているのだという青草の海なのか、それとももっと別の何かなのか。そのまま沈黙していると彼のまとう空気に飲み込まれてしまいそうで、葵は自分から口火を切った。
「この前は、ごめんね」
謝ることが、果たして自分の感情に沿っていたのか。それは謝罪を口にした葵自身にも曖昧なままだった。だが一度口にしてしまった言葉は、もう戻らない。ならば話を続けてみようと思い、葵は自身の胸中を探るようにしながら言葉を重ねた。
「昨日ね、元いた世界の人と話すことが出来たんだ。ずっと会いたいと思ってた人だったから、声を聞くことが出来て嬉しかった」
どういった時に通話が可能になるのかは相変わらず謎のままだが、それでも携帯電話の存在がたまに世界を繋いでくれる。繋がっていられることが、どれほど幸せなことだったのか。そのことを改めて教えてくれた携帯電話に、葵は感謝を感じずにはいられなかった。
「こっちに来る前までは毎日会ってて、それがフツウの人だった。でも会えなくなって、改めて大切な人だったんだって思った。大切な人が私の帰りを待ってくれてる。それってすごく幸せなことなんだね」
「……恋人かい?」
「ううん、友達。小学校……子供の頃からの付き合いなんだ」
小学生の時からの友人である弥也は体育会系の少女で、体を動かすのが大好きという人物である。昔から遊びの中心には彼女がいて、そのざっくばらんな性格は男子にも女子にも好かれていた。彼女と共に泥だらけになって遊んだ子供の頃や、他愛もない話で盛り上がった記憶が走馬灯のように頭を駆け巡っていく。そんな日常を思い出すたびに、思うことがあった。
「私、やっぱり帰りたいよ。だから、諦めない」
アルヴァに無理だと言われようが、自分よりも長く同じ状況に身を置いている者が隣にいようが、帰りたいと願ううちは、諦めない。そのことを伝えたかったから葵は今、彼の隣に座っているのだ。
(初めから違いすぎるって、管理人さんは言ってたけど……)
他人の一存で異世界へ連れて来られ、生まれ育った世界に帰りたいと願っているのが、葵。自らの意思で異世界へやって来て、生まれ育った世界へ帰ろうとしなかったのが管理人だ。管理人の言う通り、確かに彼らの境遇は根本からして違う。それでも何もかもが違うわけではなく、少なくとも一つは、葵と管理人に共通する感情が存在していた。
「管理人さんも……」
諦めないで。そう続くはずだった葵の言葉は、管理人の突然の行動によって遮られた。屋根の上から身軽に飛び降りた黒猫はそよ風に揺れている草原へとその姿を消し、あっという間に生物が動いているという痕跡すらも消し去ってしまう。あまりにも突然の出来事に葵が茫然としていると、草原とは別の方向から第三者の声が降ってきた。
「アオイ?」
驚いた葵が顔を傾けると、地上へと続く扉の前に見覚えのある青年が佇んでいた。灰色の髪にスカイブルーの瞳といった独特な容貌をしている彼は205号室の住人で、名をアッシュという。この場所で彼と出会うのは初めてのことだったので、葵は声をかけられた時の驚きを持続させたまま傍に来たアッシュを迎えた。
「驚いた。こんな場所があったなんて知らなかったよ」
葵の隣に腰を下ろしたアッシュは、たまたま扉が半開きだったのでちょっと覗いてみたのだと語った。どうやら彼がこの場所を訪れるのは、今宵が初めてらしい。目線が変わったことで見える風景をしばらく堪能していたアッシュは、やがて世界の境界線に目を留めた。
「草ばかりじゃなく、あんな木があったんだな」
周囲の夏草は青々と茂っているのに、世界の境界線である大木は枯れている。月夜に見るからなのか、葵にはその光景が妙に寒々しく感じられた。凪いでいた水面に小石を落としたような波紋が、胸の奥底で静かに広がっていく。
「猫だ」
知らずのうちに目を伏せていた葵は、アッシュの零した一言に反応して顔を上げた。見ると、世界の果てにある枯れ木にいつの間にか猫が登っている。葉を落とした枝に擦り寄るようにしながら大木の上で体を落ち着けた猫の姿に、葵はひどい胸の痛みを覚えた。
(さびしい……)
月夜にこの場所で管理人と話をするようになってから、ずっと感じていた。彼は生まれ育った世界に帰るつもりはないと諦めながらも、ひどく寂しがっているのだ。そしてそれは、一人きりで非日常の世界へと飛び込んだ葵も同じことだった。
「そういえば、アオイ……」
管理人から目を背けた葵はアッシュの言葉を遮り、隣に座っている彼の腕に縋りついた。葵の突然の行動に瞠目したアッシュは、何が起きたのか分からない様子で動きを止めている。しかし今の葵には、アッシュの心情にまで気を回せるだけの余裕がなかった。
(諦めない……だけど、怖い)
管理人の姿を孤独だと感じるのならば、生まれ育った世界に帰れなかった時には自分も同じ孤独を抱えることになるだろう。しきりに恋人をつくるよう勧めてくるユアンやアルヴァは、もしかするとそのことを見越しているのかもしれない。そう察してしまった時、葵には絶望よりも孤独の方がよっぽど恐ろしいものに感じられた。
思考の深淵からふと我に返った時、葵はアッシュの腕の中にいた。肌の表面からじんわりと染みてくるアッシュの温もりが、凍り付いていた心と体を少しずつ融かしていく。いつからそうしていたのかは分からないが、彼は無言で葵の不安を包み込んでくれていたのだ。その優しさに深い感謝と安らぎを覚えた葵はゆっくりと瞼を下ろし、余分な力を抜いた体をアッシュに委ねた。