帰ってきた日常(2)
エントランスホールへ戻ると、すでにその場所には人気がなかった。おそらくは授業が始まっていると思われるので、生徒達はそれぞれの教室へと散って行ったのだろう。血相を変えていたキリルはきっと、オリヴァーが何とかしてくれたのだ。暴走したキリルを止めに入ってくれた唯一の人物であるオリヴァーに密やかな感謝を捧げながら、葵は一階の北辺にある保健室を目指した。
ワケアリ荘に引っ越しをした時、葵は管理人から鍵の束をもらった。一つ一つが魔法道具であるその鍵は、鍵穴に差し込むことによって転移の魔法と同じ効果を表すのだ。ただ、この魔法の鍵は鍵穴がないと使うことが出来ない。適当な扉がない場所では無属性魔法によって鍵穴を作るのだが、幸いなことにアステルダム分校には鍵穴のある扉が存在していた。人気のない保健室の前で立ち止まった葵はアルヴァからもらった鍵ではなく、ワケアリ荘の管理人から与えられた『202号室』の鍵を鍵穴に差し込む。そうして六畳一間の自室に戻った葵は後ろ手に扉を閉め、敷きっぱなしの布団を避けて部屋の隅を移動した。まずは小さな机の上に魔法書を置き、次に着替えとタオルを手にして再び扉へと向かう。内側には鍵穴がついていないので次に扉を開いた時には、その先にワケアリ荘の眺めが広がっているはずだった。
扉を開けた先に夏の日差しにきらめく大草原を予想していた葵は、想定外の光景を目にすると動きを止めた。トリニスタン魔法学園では夏色だったはずの空に重い雲が立ち込めていて、天からは雨の雫が降り注いでいる。湿った土の匂いがアパートの二階にまで立ち込めていて、激しく胸を揺さぶられた葵は思わず感嘆の息を零した。
(うわぁ……雨なんて久しぶり)
天空に二月が浮かぶこの世界へ来てから、葵は一度だけしか雨に出会ったことがなかった。その一度の体験も夏を迎える儀式の最中の出来事で、人為的なものだ。だがワケアリ荘に降り注いでいる雨は、どうやら自然現象のようである。久しぶりの雨を目にして気分が昂った葵は着替えを部屋の中に放り、おんぼろな階段を下りて屋根のない場所へ自ら進み出た。曇天から降り注ぐ雨の雫が体に落ちて、少しずつ熱を奪っていく。雨のせいで煙っている大草原は美しく、葵は優しい雨を満身で感じながらぼんやりと幻想的な光景に見入ってしまった。
(そういえば、紫陽花が咲いてたなぁ……)
雨が記憶を呼び覚まし、葵は雫を滴らせる青草の海に生まれ育った世界の風景を重ねて見た。今にも雨が降り出しそうな曇天の下、学校に忘れた傘を取りに戻ったことが、もうずいぶんと昔のことのように感じられる。だが二つの世界は時間の流れが違うため、葵が生まれ育った世界ではまだ梅雨時の雨が続いているはずなのだ。
「アオイ?」
雨の中で郷愁に浸っていた葵は不意に背後からかけられた声で我に返った。アパートの方を振り返ってみると、外階段のところに見知った者の姿がある。灰色の髪と空色の瞳が目を引く彼は205号室の住人で、名をアッシュという。
「そんな所で何をしているんだ?」
「あー、えっと……」
濡れそぼっている理由を問われ、葵はどうしたものかと頬を掻きながら言葉を次いだ。
「走ったせいで汗かいちゃったから、着替えようと思って帰ってきたの。そしたら雨が降ってたからちょうどいいと思って」
シャワーの代わりに雨を浴びていたのだと言うと、アッシュは瞬きを繰り返した。彼の表情が驚いているように見えたので、葵は苦笑いを浮かべる。するとその笑みに応えるように、アッシュも柔らかな笑みを浮かべた。
「気持ちいい?」
「うん。後が大変そうだけどね」
「そうか」
口元に笑みを残したまま、アッシュは外階段に腰を落ち着けた。その仕種を不思議に思った葵は首を傾げながらアッシュに問いかける。
「どうしたの?」
「雨を見に来たんだ」
不思議なことを言う人だなと思った葵は言葉を重ねることをせずに閉口した。頬杖をついているアッシュはすでに葵から視線を外していて、雨に濡れている草原をぼんやりと見つめている。アッシュから視線を転じた葵も彼と同じ光景を瞳に映し、無言で雨の中に佇んでいた。
「その制服、トリニスタン魔法学園のものだろう?」
しばらくの沈黙の後、口火を切ったのはアッシュの方だった。再びアパートの方を振り返った葵は外階段に座ったままでいるアッシュを見上げ、複雑な心持ちで頷いて見せる。また少し間を置いてから、アッシュは静かに言葉を続けた。
「学園は楽しい?」
まだアッシュという人物をよく知らない葵は即答せず、この問いにどう答えるべきか考えを巡らせた。これが何の気もないただの世間話であれば、どう答えても支障はない。だが問いの裏に何か思惑が隠されているのであれば、彼の真意を汲み取ってからそれ相応の答え方をしなければならない。そこまで考えたところで葵は小さく首を振った。
(やめよう。たぶんアッシュは、そんな人じゃないよ)
人間不信に陥るような出来事があった後とはいえ、無闇に他人を疑うのは良くない。そう思った葵は思いきって、アッシュに本音を打ち明けてみることにした。
「前は友達がいたから楽しかった。でも今は、楽しいとは思わない」
「その友達とケンカでもした?」
「ううん。その子はもういなくなっちゃったの」
葵にとってトリニスタン魔法学園へ通うことは初めから義務だった。今また義務感から登校するようになったものの、ステラ=カーティスという少女が学園にいた間だけは、その強制感を忘れていられたのだ。思えば、学園生活が楽しいなどと感じられたのはステラと過ごした一時だけだったかもしれない。ステラがアステルダム分校を去ってからの出来事を改めて思い返してみた葵は、その悲惨さに思わず皮肉な笑みを浮かべてしまった。
「アッシュは? 学校、行ってないの?」
気分を変えたかった葵は口調を明るくし、アッシュに問いを投げかけた。この世界に大学というものがあるのなら、アッシュはそこに通っていてもおかしくない年代の青年である。葵はただそれだけの軽い気持ちで問いかけたのだが、アッシュは不意に表情を曇らせてしまった。
「前は行っていた」
「あ、そ、そうなんだ……」
悪いことを尋ねてしまったと察した葵はそう応えたきり、唇を結んだ。アッシュも口を開かなかったので、二人の間にはしとしとと降りしきる雨の音だけが響いている。だが沈黙は長くは続かず、やがてアッシュが表情を改めて口火を切った。
「そろそろ風呂に入った方がいいんじゃないか?」
アッシュの言うことがもっともだったので葵は雨の中から抜け出し、外階段へと向かった。葵が上ってくるのを見て、アッシュもゆっくりと立ち上がる。
「暇だから、沸かしてあげるよ」
すれ違いざまにそう言い置くと、アッシュは外階段を下りて一階の共有スペースへと向かった。どうやって風呂を沸かしているのか知らない葵はアッシュの背中に礼を言い、いったん私室へと戻る。先程放り捨てた着替えを手にして廊下へ出ると、すでにアッシュの姿はどこにも見当たらなかった。
(今度、お風呂の沸かし方聞いておこう)
ワケアリ荘では何でも当番制である。やがては自分にも風呂を沸かす当番が回ってくることを知っていた葵はそんなことを思いながら風呂場へと向かった。