婚約者が闇落ち寸前なので、世界を滅ぼす前に寝かせます
ついさっきまで、王都は目の覚めるような快晴だったはずだ。
だが今、空は分厚い暗雲に覆われ、時折禍々しい赤黒い稲妻が轟音と共に空を切り裂いている。
それだけではない。
王都そのものが、巨大な黒い繭のようなものに包まれていた。
白亜の建物は墨を流し込まれたように輪郭を歪ませ、石畳の隙間からは影のような霧がじわじわと這い出している。
噴水の水は黒く濁り、庭園の花々は風もないのに怯えるように震えていた。
そんな王都の中心である王宮からは、世界を呑み込むような黒い魔力が溢れ出していた。
「きゃあああっ!」
「一体何が起こってるんだ!?」
文官やメイドたちがパニックに陥り、あちこちで悲鳴が上がっていた。
そんな中、アニータは臆することなく、黒い瘴気が最も濃く渦巻く場所へと足を進めていた。
王宮の敷地内にある、特別研究棟。
普段なら白い石壁が陽光を受けて美しく輝くその建物は、今や内側から闇に侵食されているかのように、窓という窓から黒い霧を噴き出している。
その最奥にある部屋の前までやってくると、フルアーマーの騎士たちが悲鳴のような声を上げた。
「アニータ様! 危険です、下がって!」
「ノエル様の魔力暴走が止まりません! このままでは研究棟ごと王都が、いや、世界が滅びかねません!!」
彼らの視線の先――崩壊しかけた研究室の中心には、アニータの愛しい婚約者であり、王国の筆頭魔導士であるノエル・アースライトが宙に浮いていた。
彼の周囲には、触れるだけで精神が崩壊しそうなほど濃密などす黒い瘴気が渦巻いている。
そして、部屋に積み上がっていたのであろう無数の羊皮紙の束が、まるで猛吹雪のように荒れ狂う魔力に乗って室内を舞い散っていた。
それ以外にも重そうな家具も飛び交い、中に入るのは危険だと誰もが判断する状況だった。
だが、その中心にいるノエルの声だけは、なぜかはっきりと届いた。
「あぁ……愚かな……」
どす黒い魔力そのものが彼の声を運び、耳ではなく頭の奥に直接染み込んでくるようだった。
ノエルの美しかった銀糸の髪は乱れ、血走った瞳は虚空を見つめている。
「こんな世界など、僕の業火で灰にしてしまおうか……」
「ノエル様が闇落ちしかかってるぞぉぉぉ!!」
騎士たちが絶望の声を上げる中、アニータは小さくため息をつき、騒ぎの中心へと足を進める。
「アニータ様!? どこへ行かれるのですか!」
彼女は振り向くと、まるで駄々をこねて寝ないと泣きわめく子供を寝かしつけに行く母親のような落ち着き払った顔で、きっぱりと言った。
「ちょっと婚約者を寝かしつけてきます」
◆
ノエルとアニータは、親同士が仲の良かったこともあり、物心つく前からの幼なじみだった。
そして彼は、昔から誰もが認める天才でもある。
七歳で上級魔法を使いこなし、十歳で王立アカデミーを歴代最高の成績で卒業。
周囲の大人たちは彼を『神の恩寵』『王国百年の傑物』と讃え、畏怖した。
同時に。
あれほどの力を、幼い子どもが本当に御しきれるのか。
いつかあの天才は、自分自身の魔力に呑まれてしまうのではないか。
そんな不吉な噂が、王宮の片隅で囁かれていたこともある。
けれどノエルは、どれほど強大な魔力を持っていたとしても、本当は雷の音が苦手な泣き虫で、不器用で、心優しい男の子だ。
――昔、雷がひどい夜があった。
本当はノエルの方がずっと怖がっていたくせに、彼は泣きそうな顔でアニータの隣に座り、小さな手をぎゅっと握ってくれた。
『大丈夫。僕がいるから、怖くないよ』
そう言って、彼は震える指先で小さな防音結界を張った。
まだ幼かったノエルの魔法は不安定で、雷鳴を完全に消すことはできなかった。
けれど、耳をつんざくような音は少しだけ遠ざかり、代わりに彼の震える息遣いがすぐ隣で聞こえた。
次の雷鳴で、ノエル本人の方がびくりと肩を跳ねさせた。
それでも彼は、結界を解かなかった。
アニータの手も、離さなかった。
その時から、アニータは知っている。
ノエルは、自分が怖くても誰かを守ろうとする人なのだと。
そして、数年前。
『アニータ。僕がこの国を……君の生きる世界を、絶対に守るから』
正式に婚約の誓いを交わした日。
彼は少しだけ震える手でアニータの手を取り、悲壮なほどの決意を込めてそう言った。
その言葉通り、彼は不器用なほど全力で国に尽くしてきた。
ただし、その全力が少々――いや、かなり問題だった。
周りの騎士たちは、ノエルが深淵の魔に精神を喰われたのだと絶望していることだろう。
天才魔導士が、抱えきれないほどの魔力に呑まれ、世界に牙を剥く。
まるで吟遊詩人が好んで歌いそうな、悲劇の英雄譚のようだ。
だが、アニータに言わせれば違う。
これは、単なる自己管理の失敗の結果なのだ。
◆
アニータは宙に浮く婚約者に向かって歩みを進める。
本来なら、立っていることすら不可能なほどの暴風が吹き荒れている。
部屋中の備品や分厚い専門書、割れた窓ガラスの破片が猛スピードで宙を飛び交っているが、彼女に当たるものは何一つない。
なぜなら、ノエルがアニータにだけ『いかなる物理・魔力もアニータを傷つけない』という強固な防御結界を何重にも、それこそ執念深くかけているからだ。
なので彼女は一切気にすることなく、禍々しい瘴気の渦巻く中心へとズンズン足を踏み入れていく。
「あぁ……壊してしまおう……すべて……」
虚空を見つめ、赤い瞳で呪詛を呟き続けるノエルの真下に辿り着くと、アニータは彼に呼びかけるために声を張り上げた。
「ノエル。世界を滅ぼすのは後回しにして、とりあえず降りてきなさい」
アニータの呆れたような声が響いた瞬間、ビクンとノエルの肩が跳ねた。
焦点の合っていなかった赤い瞳が瞬きを繰り返し、ゆっくりと彼女を見下ろす。
「アニ、ータ……? なぜ、君がここに。逃げて、今の僕に近づいては……」
「いいから降りてきなさいと言っています。このまま見上げ続けていると私の首が痛くなりますから」
「だめだ! 僕の中の深淵が、すべてを無に還せと囁いて――」
「今すぐこないと、あなたのこと嫌いになりますよ」
アニータが冷ややかな声で言い放つと、「深淵が」と語っていたノエルの口がピタッと止まった。
そして、世界を滅ぼしかけていた筆頭魔導士は、シュンと肩を落として上空からスルスルと降りてきた。
とはいえ、彼の魔力暴走そのものが収まったわけではない。
部屋の崩壊はますます進み、壁にはヒビが走り、風は轟音を立てている。
周りの凄惨な状況と、二人の周囲だけがぽっかりと平和な無風状態になっているギャップが凄まじい。
「ほら、そこに浮いている長椅子を下に下ろしなさい」
アニータが指差すと、ノエルは素直に魔力を操作し、宙を舞っていた豪奢なソファをすぐ傍へと着地させた。
彼をそこに座らせてから、隣に座ったアニータは真面目な顔で尋ねる。
「ノエル、質問に答えなさい。最後にベッドで横になったのはいつですか?」
「……五日、前……の夜に、仮眠室の椅子で二時間……」
「食事は?」
「高濃度魔力ポーションを、六時間に一本……あと、今朝クッキーを一枚……」
アニータは深く納得したように頷くと、持参していた分厚い毛布をバサッと広げ、しょんぼりと座るノエルの頭から容赦なく被せる。
そして自分の太ももをポンポンと叩いた。
「はい、横になってください」
すると意図を察したらしいノエルが、ぼんっと音が出そうなほど顔を赤くした。
「えっ……ひ、膝枕……!?」
「それ以外の何に見えるんですか」
「い、いいのかい……? 僕は魔力暴走のせいで埃まみれだし、それに瘴気も…… せ、せめて浄化魔法で僕自身を無菌状態にまで綺麗にしてから――」
「私は気にしませんから」
「でも……」
「五秒以内に寝転がらないなら、私は帰ります。五、四、三——」
「乗せます! 乗せるからカウントダウンはやめて!」
世界を滅ぼしかけていた魔王(仮)は、慌ててアニータの膝に頭を沈めた。
緊張でカチコチになっている彼の乱れた銀髪にアニータは指を入れ、凝り固まったこめかみから頭皮にかけて、ゆっくりと揉みほぐしていく。
「あ……痛っ、いや、すごく、気持ちいい……」
やがてノエルの体からすっと力が抜け、アニータのドレスの裾を子供のようにギュッと握りしめた。
すると、あれほど激しく渦巻いていた真っ黒な瘴気が、まるで空気に溶けるように消えていく。
同時に、宙を舞っていた書類や瓦礫がバサバサと床に落ち、窓の外の暗雲も嘘のように晴れ渡って、温かな陽光が部屋に差し込んできた。
「……すき……あにーた……むにゃ……」
ものの三分だった。
ノエルはすっかり無防備な顔になり、規則正しい安らかな寝息を立て始めた。
「……寝顔は、昔から天使なんですけどね」
アニータは微笑み、彼の肩までしっかりと毛布を掛け直す。
入り口付近で震えていた騎士たちは、ポカーンと口を開けたまま、石像のように固まっていた。
アニータは膝の上の彼を起こさないよう、小声で騎士たちに告げた。
「ご覧の通り、世界滅亡の危機は去りました。彼はこのまま十時間ほど眠らせます。目を覚ましたらすぐ食事を取らせますので、温かくて消化の良いものを用意しておいてください」
騎士たちは青ざめた顔をしながらも、こくこくと頷いた。
◆
さて、このノエル・アースライトには、一つ大きな欠点がある。
それは、ひとたび仕事や研究にのめり込むと、休憩も食事も睡眠も完全に忘れて没頭してしまうことだ。
しかもノエルは、頼まれた仕事だけで終わらせない。
「ついでに術式も最適化しておいたよ」
「再発防止用の補助魔法陣も組んでおいた」
「気になったから関連資料を百年分さかのぼって調べておいたよ」
そんなことを平然と言いながら、気づけば何徹もする。
ノエルは研究が好きだ。
だが、それ以上に、この国を少しでも良くしたがっている。
なにしろここは、アニータが生きている世界なのだ。
アニータが暮らす場所を少しでも良くしたい……そう思うと、つい手が止まらなくなるらしい。
本人に悪気はないし、周囲も最初は止める。
だが、ノエルは笑顔で「大丈夫、楽しいから」と言い、実際楽しそうに仕事を片づけてしまう。
だから皆、つい油断する。
ノエルは本当に平気なのだろう。
天才とは、そういうものなのだろう。
むしろ止めたら、集中を邪魔してしまうかもしれない。
だが、アニータに言わせれば違う。
ただの自己管理不足である。
どれだけ楽しかろうが、どれだけ成果が出ようが、人は寝なければ壊れる。
世界最高峰の天才魔導士だろうと、不眠不休を続ければ普通におかしくなる。
そして限界を超えて疲労が蓄積すると、彼の思考回路はおかしくなり、謎の『闇テンション』に突入する。
しかもノエルの場合、限界を超えた時の壊れ方が少々大げさである。
厄介なのは、直前まで本人がわりと普通に見えることだ。
けれど、その内側では疲労と空腹と魔力消耗がじわじわ煮詰まっている。
そして最後の一滴が落ちた瞬間、ほんの些細なことで、ノエルは唐突に世界へ絶望する。
四年前には、魔力炉の設計図の余白が一ミリずれているのを見て、
「この程度の均衡すら保てない世界に、地脈を預ける意味があるのか……」
と呟き、王都の地脈を消し飛ばしかけた。
三年前には、魔法省の書庫のインデックスが一行間違っているのを見て、
「知識の秩序が崩れた以上、この世界の境界もまた崩れるべきなのかもしれない……」
と嘆き、禁忌の召喚魔法で次元の穴を開けかけた。
そして今回は、おそらく闇落ちする直前に食べたクッキーが原因だろう。
側にいたメイドによると、ノエルはそれを一口かじった直後、虚ろな目でこう呟いたらしい。
「……甘味にすら救いがないのなら、もう何を信じればいいんだろうね」
直後、王宮全域に暗黒の雷雲が立ち込めたという。
寝不足と空腹と魔力消耗が限界を超えると、ほんの些細なことが世界終末の引き金になってしまう。
もっとも、これまではアニータがその一滴の前に気づいていた。
研究棟の上だけ急に豪雨になったり、王宮の噴水が濁ったり、廊下の燭台の炎がすべて紫色になったり。
そういう分かりやすい前兆が出た時点で、アニータがすぐに駆けつけ、強制的に寝かせ、食べさせ、休ませてきたのだ。
おかげで、直接的な被害はほとんど未然に防がれていた。
だが今回は、運が悪かった。
アニータが商会の仕事――隣国との新たな魔石取引のルート開拓――で、一週間ほど王都を留守にしてしまったのだ。
もちろん、出発前にはノエル本人にも、周囲にも、これでもかと言い聞かせていた。
「ノエル。徹夜は禁止です。食事は一日三回。魔力ポーションを食事代わりにしないこと。夜になったらベッドで寝ること。椅子で意識を失うのは睡眠ではありません」
「分かっているよ、アニータ」
「本当に分かっていますか?」
「分かってる」
「周囲の皆様も、ノエルに仕事を積みすぎないでください。それから、本人が勝手に仕事を増やし始めたら即座に止めてください。『ついでに……』と言い出したら危険信号です」
そう厳命してから王都を発った。
しかし、ここ数年ノエルが大きく爆発していなかったせいで、彼が過去に起こした世界崩壊未遂の恐ろしさを直接知らない者たちは、少し甘く見ていたらしい。
王都全域の結界の点検、古代魔法陣の鑑定、新種魔獣の生態解析、魔力炉の調整――高度な魔法実務が、次々とノエルのもとへ持ち込まれた。
そしてそこで、ノエルの悪癖が出た。
「どうせなら、ついでに全部見直しておこう」
誰もそこまでは頼んでいない。
その結果が、先ほどの惨状である。
◆
ノエルが意識を失うように眠りにつき、きっかり十時間後。
「はっ……!?」
アニータの膝の上で、ノエルが弾かれたように目を覚ました。
「おはようございます、ノエル」
アニータが声をかけると、彼はバチッと瞬きをしてから起き上がり、自身の状況と周囲の惨状を交互に見比べる。
窓ガラスは割れ、壁は崩れ、冷たい夜風が吹き込んでいる。
すっかり日は落ちており、部屋はひんやりと寒かった。
アニータの両足は十時間同じ姿勢だったせいで完全に感覚を失い、ビリビリと痺れている。
だが、世界滅亡の危機に比べれば両足の痺れくらいどうってことはない。
「ア、アニータ……僕は、いったい……」
「十時間熟睡していましたよ。起きたばかりでなんですが、すぐにお食事を持ってきてもらいますね」
アニータが傍らに置いていた小さなハンドベルをチリンと鳴らすと、扉の向こうで待機していたらしいメイドと騎士たちが、恐る恐る、しかし手際よく温かいスープやパンを運び込んできた。
「ごめん、アニータ……僕、また、君に迷惑を……」
ノエルは己のやらかしを完全に思い出したようで、耳をペタンと伏せた子犬のようにしゅんと落ち込んだ。
「気にしないでください。婚約者であるあなたを助けに行くのは私の役目ですから……くしゅっ」
そう返事をしたアニータだったが、冷たい夜風に思わず小さくくしゃみをして、自身の二の腕をさすった。
かすかに彼女が震えているのを見て、ノエルははっとして顔を上げた。
ノエルが指先を軽く鳴らすと、淡い光が部屋を包み込んだ。
次の瞬間、粉々になっていた窓ガラスが逆再生のように元通りになり、崩れた壁が修復され、暖炉にはポッと温かい火が灯る。
一瞬にして、快適な研究室がよみがえったのだ。
さらには、彼の手がアニータの膝にそっと触れたかと思うと、じんわりとした温もりが広がって、足の痺れが嘘のように消え去った。
「足、痛かったよね。ごめんね……」
泣きそうな顔で謝る婚約者を見て、アニータは思わずふっと笑ってしまった。
これほどの規格外の魔法を、寝起きで、しかも無詠唱で、部屋を片付けて婚約者を温めるためだけに使えるのだ。
そんな人が本気で暴走したら、この国なんて簡単に滅ぶだろう。
「謝るくらいなら、しっかり食べて、ちゃんと寝てください。愛しの婚約者にもしものことがあったら、私も困るんですから」
「……はい」
「あと、私のために世界を良くするつもりなら、肝心のその世界を壊さないでください」
「……今度こそ、ちゃんと改める。徹夜もしない。食事も抜かない」
「その誓いは、これまでにも何度か聞いています」
呆れながらも、アニータは匙でスープをすくい、ノエルの口元へ運ぶ。
ノエルは少し気まずそうにしながらも、差し出されるたびに素直に口を開ける。
すっかりノエルが落ち着きを取り戻し、お腹も満たされた頃。
様子を見に恐る恐る部屋に入ってきた魔法省の高官が、アニータに向かって深く頭を下げた。
「アニータ様……ノエル様を鎮めていただき、誠にありがとうございます。そこでご相談なのですが、今後のノエル様の心の安寧のために、どうかアニータ様には彼のお傍にもっとついていていただけないでしょうか」
筆頭魔導士の暴走を防ぐため、この国のため、常に安全装置を置いておきたい。
高官の切実な思惑は痛いほどわかった。
しかし、アニータはにっこりと微笑み、きっぱりと告げた。
「嫌です」
「えっ」
即答された高官が間の抜けた声を上げる。
「もちろん、婚約者として彼のお世話はします。ですが、私はノエルの専属世話係としてこの世に生を受けたわけではありません。私には私のやりたいこと、商会のお仕事がありますから」
絶句する高官をよそに、アニータはノエルの方へと向き直った。
根本的に危険な状況であるのは確かなのだ。
ならば、彼の認識自体を彼自身に改めさせるしかない。
「ノエル、あなたは私のことが好きですか?」
「当然だよ! 君より大切なものなんて、僕には思いつかない!」
食後の紅茶を飲んでいたノエルが、勢いよく身を乗り出して答える。
「では、私のどんなところが好きですか?」
「えっと……アニータが、楽しそうに商会のお仕事の話をしてくれるところ、かな。すごく生き生きしてて、キラキラしてて……綺麗だから」
「ありがとうございます。私も、そんな風に自分の好きな仕事に打ち込めている時間が大好きです」
アニータはそこで一度言葉を区切り、真剣な眼差しでノエルを見つめた。
「ですが、もしあなたが今後も自己管理を怠り、これ以上世界の終末を引き起こしかけるようなら、私は愛する仕事を辞めて、あなたにつきっきりにならざるを得ません」
「えっ、アニータとずっと一緒!? それはそれで……」
ノエルの顔が明るくなったが、彼はすぐに何かに気づいたように目を見開き、みるみるうちに眉尻を下げてしょぼくれた顔になった。
「でも、駄目だ。君から商会の仕事を奪うなんて、僕が一番したくないことだ」
「でしょう? 私も嫌です」
「うん……」
「じゃあ、これからどうすればいいか、分かりますね?」
アニータが優しく問いかけると、ノエルは拳を握りしめ、真っ直ぐに彼女を見つめ返した。
「……分かった。君に君の好きなものを諦めさせないために、僕は僕自身をちゃんと管理する」
「よろしい」
「徹夜はしない。食事を抜かない。『ついでに』と思いかけたら、一度手を止める。今度こそ!」
「完璧です」
アニータが褒めると、ノエルは少しだけ照れたように目を伏せた。
◆
それからというもの、ノエルは本当に約束を守った。
無茶な徹夜はきっぱりとやめ、食事もしっかりと摂り、定期的にアニータの元へ自分から休息を求めに来るようになった。
おかげで彼が過労で闇落ちし、世界を滅ぼしかけることは完全になくなった。
――かのように思われたが、問題がすべて解決したわけではなかった。
「ノエル、あの背後に浮かべている魔法陣を今すぐ消しなさい。挨拶に来ただけの令息を消し炭にする気ですか」
「だって彼、アニータにダンスを申し込もうとした……万死に値する」
「夜会での申し出としてはごく一般的なものです」
また、ある時は。
「ノエル、私の取引先の商人に『永遠の凍土へ追放する』という呪詛入りの手紙を送ろうとしないでください。ただの社交辞令の礼状です」
「アニータの微笑みが素敵だったなんて書く、そんな不埒な男は……僕の氷結魔法で……」
そう、彼は仕事の自己管理こそ完璧にできるようになったものの、アニータに近づく男への、嫉妬と独占欲の自己管理が全くできていなかったのだ。
過労による魔力暴走はなくなったが、今度は嫉妬による局地的な魔力暴走が頻発するようになってしまった。
「これは、別の意味で『自己管理』を叩き込む必要がありますね……」
今日も今日とて理不尽な業火に焼かれそうになっている無害な貴族を庇いながら、アニータはそう呟き、深く頭を悩ませることになるのだが。
それが解決するのは、また別の話である。
お読みいただきありがとうございます!
現在、長編『聖母令嬢はお布団に帰りたい』も連載中です。
有能だけど限界気味な令嬢と、彼女を全力で甘やかす王太子のお話です。
よろしければそちらも覗いていただけると嬉しいです。




