銀のスプーンでポタージュを ―2―
「お玉様、伯爵様がお帰りになられました」
その報せを聞いた時、お玉は腰を痛めた千代の傍で看病をしていた。自分の責任で千代に迷惑をかけたのだから、せめて看病ぐらいさせて欲しいと懇願したのだ。執事も千代もしぶしぶといった感じで承諾をくれた。
「お玉様も私とご一緒に伯爵様をお迎えして下さい」
「はい」
執事の言葉に、お玉は嬉々として頷いた。
伯爵邸の玄関先で黒塗りの見事な自動車が停車すると、お玉の心が高鳴り、自然と顔も綻ぶ。まるで主人を待つ子犬だ。自動車の扉が開き、愛染の長い足が見えた。お玉は愛染の元の駆け寄りたくなる気持ちをグッと押さえ込むのに苦労した。
愛染の長身が自動車から降り立つ。山高帽子からはみ出す黄金色の髪、黒いインバネスコートを肩で着こなし、黒いステッキを持つ白い手袋が異様に目立つ。まさに洗礼されたモダンな紳士だ。
「愛染様、お帰りなさいませ」
愛染の青い眸が満面の笑みを湛えるお玉を捉えると、満足そうに頷きお玉に向かって足を一歩踏み出す。
「コホン」
お玉の元へ歩き出そうとしていた愛染を、上品な空咳が引き止めた。自動車の中にはまだ人が残って居るようだ。
愛染は渋い顔を作りながらも仏蘭西帰りの紳士らしく、自動車の方に向かって手を差し出した。すると、嫋やかな手が愛染の手に添えられる。
愛染にエスコートされて、自動車から優雅な物腰な降り立たったのは、洋装の美女だった。
断髪にパーマメントをあてた“耳隠し”という流行のヘアースタイルにビロードのつばの小さい帽子をかぶり、ローウェストのワンピースにショールを肩にかけて、エナメルのハイヒールを履いている。紅を引いた唇は、血を啜ったように紅い。
『モダンガール』と言われる、流行の最先端をいく女性だ。
モダンガールは理知的なアーモンド形の黒眸をした美女で、愛染と並ぶ姿は一枚の絵画のようだ。
お玉の胸がズキンと痛んだ。
「お玉。雪に押し付けられたお前の教師だ」
――愛染、紹介しよう。
愛染の脳裏に、雪乃丞の声が蘇る。
――モダンガールで元華族の蝶子さん。茶道や琴だけではなく、ヴァイオリンやピアノも嗜み、元華族だけあって淑女たる女性の“いろは”を心得た人物だよ。お玉ちゃんを淑女にするにはもってこいの人物だろ。ああ、そんな嫌そうな顔をするなよ。第一“吸血鬼の館”と言ったらみんな怖がって逃げてしまってさ。彼女しか残らなかったのさ。
「あら、失礼ですわよ、伯爵様。“押し付けられた”だなんて酷い言い草ですこと。わたくしだって、雪乃丞様に足元を見られたようなものですもの」
――蝶子さん、私の頼みを聞いてくれたら蝶子さんが運営する赤字続きの“ミルクホール”を生まれ変わらせてあげるよ。それから、弟さんの大学行きも私が世話しよう。君ならきっと私の言うことを聞いてくれるよね。
「あの方は、笑顔で懐に入ってくる悪魔のような方だわ」
蝶子は、雪乃丞の含みのある笑顔を思い出し、ため息を落とした。
どこでミルクホールが赤字経営だと知ったのだろうか、さらには、弟の大学問題はまさに蝶子の急所でもあったのだ。弱点を突くのが旨い人だと空恐ろしくなった。まだ、目の前で怒りを露にする、悪魔的な美貌の持ち主のほうが人間くさく感じる。
その美貌の伯爵様は執事に何事か耳打ちされていた。
「――では、ばあやは腰を痛めたのか?」
愛染は執事の報告を聞いて、眉を顰めた。ばあや――千代は愛染にとって育ての親といっていい人物であり“隠居しろ”と一戸建ての平屋と女中を与えても、未だにこの伯爵邸に通ってくる律儀で頑固な老女だ。
「大事には至りませんでしたが、無理をしてまでご自宅に帰すのは忍びなく、以前お使いなられていた女中部屋でお休みです」
「そうか」
困ったことになった。ばあやが居なければ誰がお玉の着付けや髪を結い上げるのだろう。知らず、知らず、愛染の視線は蝶子の上で止まる。不服だが仕方あるまい。愛染は蝶子を見据えたまま、重たい口を開いた。
「……話がある。応接室へ来てくれ」
※
愛染と蝶子は応接室へ入ったまま、なかなか出てこない。
お玉は気になって仕方がなかった。
蝶子は魅力的な美女だ。銀座を闊歩するような知的で麗しい美女。自分の考を持ち、自立した職業婦人は、お玉にとって憧れの的だ。なのに、胸の奥がムカムカする。特に愛染と一緒に居ると思うと……。
(どうしたんだろう、胸がムカムカする。変な物でも食べた?)
お玉は、革張りのソファーに座ると溜め息を漏らした。
「あら、お玉さん、ため息をつくと幸せが逃げていきますのよ」
突然、蝶子に声を掛けられ、お玉は飛び上がるほど驚いた。その拍子にソファーから転がり落ちる。
「あら、いやだ、大丈夫?」
「は、はい」
蝶子はすぐさま駆け寄り、お玉を助け起こした。
「ふふ、伯爵様のおっしゃられた通りね」
「え?」
「お玉さんは、とってもドジだっておっしゃられたの」
お玉の顔がみるみる赤く染まる。自分のドジさ加減は骨に染み入るほど分かっているつもりだ。
(なぜ、愛染様は私のとんまな性格を蝶子さんにお話になられたのだろう?)
何だが釈然としない。愛染と蝶子は他にどんな事を話したのだろう。
「あの、愛染様は?」
お玉の問いかけに、蝶子の柳眉をひそめた。
「……お玉さん。貴女は伯爵様を名前で呼んでらっしゃるの?」
「はい」
「感心いたしかねますわ。爵位ある方に対して非礼に当たりますことよ。それから伯爵様は千代さんの見舞いに行かれましたわ」
非礼に当たる。確かにその通りだ。お玉は愛染との身分さを再認識させられ、急に心細くなった。自分は田舎者で元女工、彼は華族で伯爵。何かを期待していた訳ではない。それでも大きな溝を感じると、孤独感に苛まれる。
「あらあら、お玉さん、そんなに悲しそうな顔をなさらないで、叱ったわけじゃないのよ。わたくしはお玉さんの淑女教育を任された以上、淑女の“いろは”をお教えしないといけないと思ったの。ひとつ、ひとつ、学んでいけばいいわ」
蝶子はにっこりと笑うと、お玉の手を優しく包んだ。蝶子の笑みは奥ゆかしい品のある微笑で、お玉は自分の事をより一層みすぼらしい野良猫のように感じてしまった。恥じ入るように顔を伏せていると、深みのある声が耳に届いた。
「お玉」
「はい」
顔を上げると、愛染が再び帽子をかぶりインバネスコートを羽織っている。
「お出かけですか?」
「ばあやを病院に連れて行く」
「千代さんを!?」
お玉の顔が青ざめる。
「心配しなくていい、念のためレントゲンを撮ってもらうことにした」
そう言うと愛染は、千代と共に自動車に乗り込み病院に向かった。青ざめるお玉の肩を蝶子の暖かい手が包み込んだ。
「大事無いとよろしいですわね」
「……はい」
お玉は小さく頷き、励ますように微笑んでいる蝶子に小さな笑みを返した。
※
夕食時、お玉の前にずらりと並んだナイフとフォーク。
「こ、これは?」
見たことも無い食器の数々に、お玉はどうやって食事をしてよいのか皆目検討がつかず、燭台越しに蝶子を見た。蝶子はにっこり微笑むと、スプーンを手にとった。
「私のマネをしながら食べて下さい」
とは言われたものの、出てきたポタージュをスプーンで飲もうとしたら、膝の上にこぼしてしまったり、ナイフとフォークの使い方が上手く出来ず、お肉が皿の外に飛んだり、肘があたってコップを倒してしまったり、てんやわんやの大騒動。さらにはナイフで肉を口に運んでしまい、口の端を切ってしまった。
「いひゃい(痛い)!」
口の端から一筋の真っ赤な血が伝い落ちる。
「あら、大変!」
蝶子は吃驚してお玉に駆け寄り、ハンカチを口の端に当てた。ハンカチはあっという間に赤く染まった。血はすぐに止まったが、口の端には痛々しい傷が残り、口を開くのも痛い。
「痛そうね」
「らいひょうぶです(大丈夫です)」
お玉の舌ったらずな返答に、蝶子は愛染が言った事を思い出した。
――お玉はすぐに“大丈夫”というが、口癖のようなものだから信じなくていい。やせ我慢しているだけだ。“大丈夫”という言葉は無視しろ。
「ふふ、伯爵様の言った通りね。今日はもう休みましょう、淑女特訓は明日の朝からいたしましょう」
明日は朝から頑張りましょう。そう告げると、蝶子はにっこり微笑んだ。
※
その夜、お玉は片手に角灯を持ち、伯爵邸の地下に足を運んでいた。
寒くて暗い地下室。びっしりとワインが並ぶ、ワインセラーだ。
愛染は小さな机に角灯を置き、ワインを目の高さまで運んで色合いを見ていた。
赤黒いワインは上部の方が角灯の炎に照らされて紅玉のように輝いている。それを真剣な眼差しで見つめる青い眸は瑠璃のギヤマンのように美しく、圧倒されたお玉は声もなく見つめていた。
「お玉、何をしに来た」
静かな地下室に愛染の声が響く。お玉は、はっと我に返った。
「あの、千代さん、いかがでしたか?」
「大事ない、ゆっくり休めば良くなる」
「そうでしたか、よがった」
お玉は心から安堵した。なにせ千代の腰は自分にも責任があるのだから。
「お玉、こちらへ」
愛染が猫でも呼ぶように人差し指を動かし、お玉を呼んだ。お玉は素直に愛染の傍に足を進める。すると愛染に顎をつかまれ、強引に顔を上向きにされた。長身の愛染に顎を掴まれると首が痛い。
「……口の端、どうした?」
お玉の口の端が痛そうに赤くなっている。転んだか、どこかにぶつけたか? 目を離すたびに傷が増えている気がする。
「食事中に、間違えてナイフで切りました」
思いもつかなかった返答に、愛染は絶句してしまう。何をどうやったら料理と自分の口を間違えるのだ? お玉はドジ過ぎる。怪我をしないように真綿で包み、未来永劫手元に置いておきたい。一方、そんな事を考える自分が腹立たしい。自分はずっとひとりで生きてきた、これからもその矜持は捨てたくない。ひとりで居るほうがずっと楽だ。そう自分に何度も言い聞かせてきたのだ。愛染は突き放すようにお玉を離した。
「明日は早い、早く床につけ」
「はい、お休みなさいませ。あ――伯爵様」
お玉は愛染様と呼びかけてから、慌てて伯爵様と言い直した。
――非礼に当たります。
蝶子の言う事は正しい。礼儀を尽くす事は大切であり、庶民のお玉が伯爵という位の人物の名前を軽々しく呼ぶものではないのだ。
しかし、愛染とっては、お玉が自ら一線を引き、自分から遠のいていく感覚に陥った。
取り残される。
愛染の心が急速に孤独に苛まれた。お玉が離れていく。自分から突き放すことが出来ても、相手から突き放されることはあってはならない。
気づいた時には愛染はお玉をきつく抱きしめて、戒めるような口づけをしていた。
「あ、は、伯爵様」
唐突変貌した愛染に、お玉は恐怖すら覚えた。
「愛染だ。愛染と呼べ」
口づけは更に深くなり、お玉の傷口が開き血が滲む。濃密な口付は葡萄酒と鉄の味が混じる、酔いしれるような罪深い味。
愛染がお玉の唇からゆっくり顔を上げると、愛染の唇がお玉の血で紅く染まっていた。角灯の炎を照らされた紅い唇は妖しく官能的にぎらぎらと輝き、耽美な吸血鬼のように背徳的で濃艶だ。
「次、伯爵と呼んだらコレだけでは済まさないぞ」
愛染はお玉を乱暴に突き飛ばすと、お玉から視線を外し、ワイングラスを傾け紅い血のような葡萄酒を啜った。
「もう寝ろ」
驚愕に目を見開いていたお玉は、急いで深々と頭を下げると逃げるようにワインセラーを後にした。
静かなワインセラーにひとり残された愛染は、唇に残るお玉の血と葡萄酒を、真っ赤な舌で舐めとった。