銀のスプーンでポタージュを ―1―
まだ、朝日の昇らない、凛とした静かな早朝。
「……大変、寝坊した!」
お玉は、寝台から勢い良く跳ね起きると、あくせくと辺りを見渡した。
「あれ?」
そこは、お玉が長年寝起きしていた粗末な女工部屋ではなかった。
天蓋つきの瀟洒な寝台に、アール・デコ様式の豪華でお洒落な部屋。ここは松平伯爵邸の客室だ。お玉の寝ぼけた頭に、ゆっくりと昨日のことが思い出される。迷惑を掛けたくない一心で伯爵邸を去った後、鬼気迫る愛染に連れ戻されたのだった。
『逆らうことは許さぬ。いいな、私から決して逃げるな』
昨夜、お玉はこの伯爵邸に居るように、愛染に強く言い渡されたのだった。何故そこまで伯爵邸に留まって欲しいのだろう、と首を捻ってみた。
(女中不足、なのかしら?)
中流階級のサラリーマン家庭でさえ女中を雇うご時勢。女中の需要は高まる一方、非人間的な扱いを受ける女中の成り手は少なく、結果、慢性的な女中不足を引き起こしていた。
どんなに頭を絞っても、それぐらいの理由しか思いつかない。田舎生まれ、女工上がり、これといった特技もなく、平凡な顔に貧相な身体。絶世の美貌を誇る華族様が戯れに相手にするとは到底思えなかったのだ。
お玉が寝台から降りると、高級な絨毯に踝まで足が埋まる。浴衣に男性用の兵児帯を締めたままの格好だ。いくら見渡しても、お玉が以前着ていた服は見当たらない。
(どうしよう?)
女中だったら、夜が明ける前から仕事があるはず。こんな所で怠けていては職務怠慢だ。
お玉は、そっと扉を開けると、静かに廊下に滑り出た。夜明けの城は不気味なほど静まり返っていた。
(台所に行けば、きっと誰か居るはずよね)
それから指示をもらえばいい、とお玉は静かな廊下を素足でひたひたと歩き始めた。しかし、お玉はその考えをすぐに後悔した。伯爵邸が広すぎて迷子になってしまったのだ。
(どうしよう、ここはどこだろう?)
伯爵邸は人気がなく不気味なほど静まり返っている。ほとんどの家具に白い布がかけてあり、おどろおどろしい。怪奇な廃墟のように見える。
(あれ、なんだろう? すごくいい匂い)
伯爵邸内をどれくらいうろついただろうか、ふとお玉の鼻腔に食欲をそそる甘い香りが漂ってきた。お腹の虫が鳴る。
お玉は匂いに導かれるように台所にフラフラとたどり着いた。そこに居た小太りの男性は、鼻歌交じりに鍋をかき回しており、お玉にまったく気がついていない。
「あの……」
お玉が控えめに声をかけると、男が振り向いた。すると、男の瞳は驚愕に見開かれる。
「ぎゃああ、出た! 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏 」
男はお玉に向かって手を合わせ、えいやっとばかりに塩まで投げつけてきた。この男はお玉を幽霊だと思い込んでいるのだ。先ほどまで、幽霊に出くわしてもおかしくないほど不気味な伯爵邸内をうろついていたお玉だ、この男の気持ちが分からないでもない。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
男は怯えきって、お玉を見ようともしない。どうしようと悩んでいる時、大きな音で腹の虫が鳴った。お玉はお腹を押さえ、顔を赤く染めた。
「幽霊でもお腹が空くのか?」
「幽霊じゃありません」
男はお玉の足に視線を落とすと、足があると呟き、安堵のため息をついた。
「よかった、幽霊じゃない」
男はごめん、ごめんと謝りながら、お玉の頭についていた塩を振り払った。
「昨夜おそくまで、小泉八雲の怪談を読んでいたものだから、つい勘違いしちゃって」
「いえ」
私こそ驚かせてしまって、と言おうとしたが、再びお腹の大きな音に邪魔された。
男はくすくす笑うと、お玉に一枚の焼き菓子を渡した。とてもおいしそうな甘い匂いだ。
「食べてごらん、ビスキットだよ」
「ビスキット?」
「西洋の焼き菓子さ」
お玉は進められるままに、ひと口、ビスキットとやらをかじってみた。口に広がる甘く香ばしい味、鼻から抜ける牛酪の匂い。
「美味しい!!」
お玉の顔に花が咲いたような笑顔が広がる。お玉にとっては始めて味わう西洋菓子だ。
「とっても甘くて、すごく美味しいです! ん~ほっぺたが落ちそう!!」
お玉があまりにも絶賛するので、男はほんのり頬を染めて照れたように笑い、焼きたてのビスキットを布に包みお玉に渡した。男の名前は相馬春風といい、伯爵邸のシェフだ。フランス留学中に愛染と知り合い、そのまま伯爵邸で雇ってもらっているらしい。ころころと太った柴犬を彷彿させる男だ。
「えっへっへ、その笑顔を見るだけで、作ったかいがあるってもんだよ。ところで君は誰だい?」
私は、と口を開いた時、血相を変えた執事が台所に飛び込んできた。
「お玉様!!」
血相を変えた執事にも驚いたが、身なりのきちんとした人物に“様”を付けで呼ばれたことにことさら仰天した。
「こちらに、おいででしたか」
執事はほっとため息をついて、お玉にむかってやんわりと朝の挨拶をした。
「お玉様、伯爵様がお呼びです」
「えっ、あ、はい!」
※
お玉が大急ぎで部屋に戻ると、きちんと身なりを整えた愛染が居た。その横顔は煌くナイフのように妖しく、悪魔的に美しい。背筋に寒ささえ覚える美貌だ。
「おはようございます。愛染様」
「どこへ行っていた」
ぶっきら棒に訊いてくる愛染。正直なところ、朝起きると再びお玉が居らず、内心では不安が渦巻いていたのだ。お玉の顔を見て安堵と同時に怒りがこみ上げてきた。なぜ、お玉はじっとしてないのだろう。出来うることなら鳥篭にでも閉じ込めておきたい。
「台所へ」
「あまり、うろつくな。迷惑だ」
愛染に叱られ、お玉は肩を落とした。一番迷惑をかけたくない人に、なぜこうも度々迷惑をかけてしまうのだろう。
「何を持っている」
「ビスキットです。とても美味しいのですよ」
お玉はニコッと笑った。美味しい物が人を幸せにしてくれる力は絶大だ。
「愛染様もいかがですか」
お玉は嬉しそうにビスキットを一枚手に取り差し出した。愛染は顔の筋肉をひとつも動かさないまま、ビスキットを眺めた。
「……もしかして、愛染様は甘いものが苦手なのですか?」
また、迷惑をかけてしまった、とお玉が慌てて手を引っ込めようとが、その手首を愛染に掴まれた。愛染はお玉の手から直接ビスキットを一口かじり、甘い、と小さく呟いた。お玉の顔が真っ赤に染まる様を眺めた愛染は満足そうに溜飲を下げると、お玉の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「私はこれから出かける。後のことは執事に訊けばよい」
愛染はそれだけ告げると、颯爽と部屋を後にした。
愛染が去ってしまうと、お玉は豪華絢爛な部屋に一人取り残されてしまった。ふわりと甘いビスキットの香りがお洒落で贅をつくした部屋に漂う。
「……」
お玉は急に、五月蝿くて小汚い女工の相部屋が恋しくなった。
食事もままならなく、蚤やしらみ、病気が蔓延する不衛生な相部屋が恋しくなるなんて自分はなんて風変わりなのだろ、と感じながら、あまりにも高価な物ばかりに囲まれていると、肩が凝って仕方ない。命の恩人である愛染には迷惑の掛けっぱなしなのに、こんな風に感じること自体罰当たりだ。
お玉は、ため息をつくと寝台の端にちょこんと座って、ビスキットを一口かじる。甘い。なんだか勇気と元気が沸いてくる。
「頑張ろう!」
単純なお玉が気合を入れて立ち上がると、扉をノックする音が聞こえた。
「貴女がお玉様ですね」
部屋に入ってきたのは、随分と年を召した老女だった。白髪を品よく日本髪に結い上げ、地味な着物を着ている。背筋のまっすぐ伸びた矍鑠とした老女だ。
「……はい」
再び“様”を付けて呼ばれた事にお玉は戸惑いを隠せなかった。
(私のようにさもしい身分に、そのような敬意を払う必要なないのに……)
「お初に御目文字かかります。わたくしこちらの家政婦の千代にございます」
背筋に定規が入ってそうなお辞儀をする老女は、武士の姿を想わせる。一本筋の通った気骨あふれる人物だ。
「あ、はい。こちらこそお初にお目にかかります」
「では、早速わたしに着いてきてください」
「え?」
どちらに、と訊く暇も与えず千代は踵を返した。その歩みは老女と思えないほど速い。お玉は老女の後を訳も分からず追いかけた。
「こちらでございます」
通された部屋は全ての家具に白い布が掛けられ、誇りっぽい匂いがした。長年使われた形跡のない部屋。この部屋の主は高貴な女性だったのだろうと思わせる内装だ。
「ここは?」
「奥方様のお部屋でした」
奥方様――愛染の祖母に当たる女性であり、旗本のお姫様だった。家政婦の千代は愛染から“お玉に祖母の服を着せてやってくれ”と指示を受けていたのだ。
千代は、迷うことなく足を進めると部屋の隅に置いてある長持を運び出そうとした、その矢先、千代の腰から“ゴキッ”と不吉な音が響いた。
「――っ!!」
声にもならない痛み。千代の額から脂汗がにじみ出る。只ならぬ様子にお玉は千代に駆け寄った。
「千代さん、どうされました!?」
「こ、腰が……」
「腰?」
お玉は何の気なしに千代の腰に手を当てた。その瞬間、女傑と謳われた千代の悲鳴が『吸血鬼の館』に響き渡ったのだった。
※
「私は疫病神だ……」
お玉は膝を抱え、樫の木の根元に腰を下ろしポツリと呟いた。あの後、執事が医者を呼び、千代は絶対安静を言い渡されたのだ。
昨夜は愛染に捻挫を負わせ、今日は千代のぎっくり腰。田舎に居ると時も、女工になってからも周囲に迷惑を掛けっぱなしだ。
「やっぱり私は疫病神だわ」
大切なクロスは無くしてしまうし、頑張っても、頑張っても、悪い方向にしか転がっていかない。ドジな自分が悪いんだ。情けなくて涙が出てくる。泣いたって誰も助けてくれない。ますます自分が惨めになるだけだ。
お玉は泣くものかと、唇を噛みしめ空を仰いだ。爽やかに澄んだ、透けるような青空。
「綺麗……」
塞ぎこんでいた気持ちも、ゆっくりと晴れ渡っていく。頑張ろう。命の恩人でもある愛染様のためにも。
お玉は立ちあがると、スゥと息を吸い込んだ。
「主よ、み手もて ひかせたまえ ただわが主の 道をあゆまん いかに暗く けわしくとも みむねならば われいとわじ」
澄んだ賛美歌は、青空に溶けるように、吸い込まれていった。歌い終えたお玉が、すっきりとした気持ちで振り返ると、そこには藍色の上下に紺の地下足袋を履き、豆絞りの手ぬぐいを頭に巻いた、庭師と思われる風体の男が立っていた。
「耶蘇教か?」
男の声は低くしゃがれていた。お玉は不意に怖くなり、一歩後退する。耶蘇教は異教徒と弾圧された歴史もあり、未だに忌避する者も少なくない。お玉のおびえた様子に男は太い眉を片方あげて見せた。
「心配しなさんな、わしの親が通事だったゆえ、幼い頃、外国人居留地に出入りしていたもので、懐かしく思っただけだ、わしの事は気にせず歌え」
男はむっつりとした様子で、背を向け、そのまま歩み去ろうとした。
「あ、あの、また歌いに来ていいですか?」
お玉が去り行く男に声を掛けると、男は肩越しに振り向き、小さく頷いた。お玉の心がぱっと晴れ渡る。大きな声で歌うと鬱々した気分を吹き飛ばし、気持ちがすっきりする。
「ありがとうございます!」
それからお玉は度々この樫の木の下で、美しい庭園を眺めながら歌を歌うようになった。