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オードブルは贖罪のネコちゃん ―3―

 雪之丞は葡萄酒を飲み干し、ふと窓の外に目をやった。春だというのに、雪が舞い始めている。夕日が沈み、茜と紫の交じり合う夜空に舞う雪は、繊細ではかなげだ。


「おや、花冷えすると思ったら雪が降ってきたよ」


 雪之丞はグラスを置き、窓辺に近づくと伯爵邸の広大な庭を見下ろした。桜の蕾に舞い降りる粉雪は、あっという間に溶けて消えてしまう。


「積もる事はなさそうだが、私はもう帰るよ」


 雪が積もれば、自動車は動かない。人力車なんて寒すぎる。早々に帰ったほうが身のためだ。


「その前に、野良猫ちゃんに挨拶して帰ろっと」


 高級な葡萄酒に軽く酔った雪之丞は、かんかん帽を人差し指でクルクル回しながら陽気に言った。

 その言葉に反感を持ったのは愛染だ。愛染は形の良い眉をしかめると、杖を突いて扉の前に立ちはだかった。


「まっすぐ帰れ」


 お玉の寝室に自分以外の男が入るのが許せなかった。それが、プレイボーイの雪之丞とくれば尚更(なおさら)だ。

 しかし、雪之丞は訳知り顔で笑うと、愛染の肩をポンポンと叩く。


「独占欲が強く、嫉妬深い男は嫌われるぞ」


 “嫌われる”その言葉が愛染の胸に突き刺さる。色恋に長けた雪之丞が言うのだから間違いないだろう。と愛染の心が揺れ始める。そこに、雪之丞が最後の一手を打ち込んだ。


「それにだな、口下手な君からじゃなくて、私から子猫ちゃんに“淑女になる理由”を説明した方がいいだろ」


 確かにその通りだった。愛染はお玉に“この城に居る理由”を説明する気はまったくなかったのだ。“ここに居ろ、私の命礼に従え”それさえ言えば丸く収まると信じていたのだ。


「駄目だぞ、ちゃんと説明しなきゃ。野良猫ちゃんが可愛そうだ。さあ退いてくれ。雪が積もったら私は家に帰れなくなる。この城には泊まる部屋が準備されてないだろ、野良猫ちゃんと一緒に寝ても良いと言うなら話は別だが」


 愛染は、にたにた笑う雪之丞を見下ろし、憎々しく舌打ちすると扉を開けて、お玉の部屋に向かった。自分が同伴していれば、間違いは起こらないだろう。いや、起こさせない。

 愛染は気だるそうな緩慢な動作で、扉を三回ノックする。返ってくるのは静寂のみ。


「……返事がないね」


 雪之丞が愛染を見上げ、目配せしてもう一度ノックするように促した。しかし、二度目も返事がない。愛染と雪之丞は重厚な扉の前で、顔を見合わせた。


「…………」

「……寝ちゃったのかな?」


 雪之丞の言う通りなら良いのだが、愛染の胸に不安が込み上げ、乱暴に扉を開ける。


「お玉。私だ、入るぞ!」


 返事はない。それもそうだ、客間はもぬけのカラだった。暖炉の燃えカスがくすぶる仄暗い部屋。しんしんと降る粉雪が窓から見える冷たい部屋は、ひっそりと静まり返っていた。


「あれ、居ないね。(かわや)かな?」


 愛染の後に続いて入ってきた雪之丞が子猫を探すように、チチチと舌を鳴らしながら布団をめくり、寝台の下を覗く。何処行ったんだろう、と呟きながら振り返った雪之丞は、呆然と立ちつくす愛染の顔を見てドキッとした。


「子猫ちゃんの事は心配するな。また、どこかで掃除でもしているんだよ。だから“そんな顔”をするな」


 雪之丞は愛染の肩を叩くと、執事を探しに部屋を出ていった。


(そんな顔?)


 愛染は舶来品(はくらいひん)の繊細な金の彫刻が施された華麗な鏡を覗き込んだ。ソコに写ったのは、親に置いていかれた子供の顔。不安で、寂しくて、孤独で……。


『どうして、お父様とお母様は僕を置いていったの』

『お前が要らない子供だからだよ』


 古い記憶が疼く。祖父に言われた情け容赦ない言葉。心を凍りつかして耐えてきた傷が再び疼きだす。


「――っクソ!」


 部屋のなかに、鏡の割れる大きな音が反響した。

 愛染の拳が鏡に映る自分の顔を殴っていたのだ。鏡は蜘蛛の巣状にヒビが入り、愛染の紅い鮮血が一滴伝い落ちる。


「愛染、何事だ!」


 鏡の割れる音に雪之丞が駆けつけてきた。部屋に入るなり、割れた鏡を見て瞬時に理解した雪之丞は、鋭く息を飲み込んだ。


「……大丈夫か?」

「かすり傷だ。お玉は?」

「今、執事が城のなかを探している」

「そうか」

「……見つけても、あまり叱るなよ。子猫ちゃんは子猫ちゃんで、お前に恩返しがしたくて一生懸命なんだから」

「…………」


 雪之丞は、黙りこんだ愛染と割れた鏡を交互に見てから小さく嘆息した。今、愛染に何を言っても無駄だろう。一抹の不安を抱えた雪之丞は、割れた鏡に映る愛染の“愛に飢えた瞳”を見つめていた。



「伯爵邸に、お玉がいない?」

「はい、城内も庭も隅々まで探しましたが、姿が見当たりません。私は自転車で辺りを探したと思います」


 そう言った執事はすでに、とんびコートを羽織っている。


「うん、そうだね。私も自動車で探しに行くよ。この寒さだ、早く見つけてやらなきゃ。愛染、君は家に待機していてくれ」

「何故だ!?」

「君は足を捻挫しているだろ。それに家に誰か居たほうがいい」


 雪之丞はそう言ったものの、愛染の逆鱗がお玉に直接向けられるのを避けるための方便だった。暴力に出る男ではない事は百も承知の上なのだが、割れた鏡に写る愛染の瞳が、思考にこびり付いてしまい、安全策を考慮してしまうのだ。執事か雪之丞、もしくわ厩番がお玉を見つければ、お玉に愛染の怒りが直接降りかかることはないだろう。


「さあ、早く探しに行こう。グズグズしているとお玉が雪だるまになってしまう」


 雪之丞が愛染の返事を待たず、執事を引き連れ捜索に出かけてしまうと、愛染はだだっ広い伯爵邸内に、ひとり寂しく取り残された。

 淡い光を放つ鈴蘭(すずらん)の形のランプが、贅沢を尽くした瀟洒な部屋をぼんやりと照らし出し、しんしんと降り続ける春の雪は、満月に照らされ、えも言われぬ幻想的な美をあやなしている。

 雪化粧した、色のない世界。

 孤独が愛染を蝕む。独りは平気だった。むしろ、静かな孤独を愛していた。なのに、何時しか心の氷にヒビが入り、お玉の太陽のような笑顔を恋しく想うようになっていたのだ。

 愛染は白い歯を噛み締め、ぎりっと歯ぎしりした。

 お玉が居ない。城から逃げ出したのだ。その事実に愛染の喉が詰り、胸が締め付けられる。不安と怒りが渦巻く。


(何故?)


 きつく叱ったからだろうか、それとも……。

 それとも、噂の“吸血鬼伯爵”が怖くなって逃げ出したのか。


(私の傍に居たくなかったのか?)


 愛染はその考えが閃いた途端、心臓を鷲づかみにされた衝撃を受けた。一瞬止まった心臓は、すさまじい勢いで早鐘を打つ。耳の奥で流れる血汐が頭に轟く。怒りで目の前が真っ赤に染まる。


(許さない)


 愛染はやにわに黒いコートを羽織ると、革の手袋をはめながら、(うまや)に向かった。そこに待つのは、愛染の愛馬。漆黒のビロードのような美しい毛並み、愛染以外を乗せようとはしない気性の荒さ、巨大な体躯に引き締まった筋肉、荒々しい鼻息。悪魔のように美しい馬だ。

 愛染は愛馬の鼻面を撫でると、手際よく鞍を取り付け、ひらりと飛び乗った。


(――待っていろよ、お玉)


 桜の花びらように舞い散る粉雪が、愛染の長い睫に落ち、涙のように溶けていく。


(――私から逃げ出すことなど、決して許さん!)


 地獄の使者のような漆黒の馬が、雪のなかを駆け抜ける。闇夜に溶け込んでしまいそうな黒いコートをはためかせ、瑠璃のような青い瞳を妖しく(きらめ)かせた愛染は、魔性のごとく壮絶な美しさだった。



 雪が降る。季節外れの春の雪。満月の淡い光りのなかを桜吹雪と雪が混じり合う、幽玄的な美。恐ろしくもあり、壮大でもある。


「寒い……」


 凍えそうな寒さが、お玉を襲う。黙って伯爵邸を出てきてしまった罰だろうか。

 お玉は浴衣の合わせ目を掻き合わせると、遠くにそびえ立つ、伯爵邸を振り返った。満月の下、雪景色に霞むお城は、荘厳で孤独で、どこか愛染を思わせる。


(何とがお金を貯めて、ご恩は一生掛けてもお返していごう。だけど今は、伯爵様の顔を見ると、決心が揺らぎそうで……)


 本当は伯爵邸で、女中として雇って欲しかった。少しでも伯爵様の近くに居たかった。でも、伯爵様にまた迷惑を掛けてしまう。

 お玉は崩れ落ちるように、両膝を着く。とめどなく涙がこぼれ落ちる。酷く疲れた。


(最後にもう一度、伯爵様の顔が見たかったな……)


 お玉の意識は、冷たい雪の中に埋もれて行った。



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