オードブルは贖罪のネコちゃん ―2―
「何を笑っている」
応接室の椅子に深く座った愛染は、にたにた笑う雪之丞を睨んだ。捻挫した足は赤く腫れ上がり、濡らした布を当てて、冷やしている。上着を脱ぎ、ネクタイも緩め、乱れた前髪が額にかかる姿は異様に艶かしい。
「いや、君にもついに春が来たんだなと思ってさ。嬉しくて、つい顔がにやけてしまう」
「万年常春男が、ついに頭の中に虫でも湧いたか」
愛染の皮肉に、雪之丞はのけぞって豪快に笑った。
「ハハハッ、上手いこと言うな。私は名に雪とつくが、万年常春だし、君は名に愛とつくが、愛を頭から否定している。名前を交換したら調度よいな。それで、さっきの娘、お玉と言ったな。何者なんだ?」
好奇心を隠そうともせず、雪之丞が訊いた。
雪之丞にお玉の事を知られたくなかった。愛染は、憮然と黙り込み、いつものように相手が引くのを待った。むっつりと黙っていれば、相手は愛想笑いを浮かべて去っていく。しかし、今回の相手は運の悪い事に雪之丞だ。簡単には引かない男だ。
「なあ、君がそうやって無口で極端に人嫌いだから、巷の人々は好奇心を煽られて変な噂で盛り上がるんだぞ。さっきの娘だって“吸血鬼伯爵”のご馳走かと勘違いしてしまう」
「噂に踊らされる人は愚かだ」
愛染は食いしばった歯の間から、呻くように言った。噂話ほど嫌悪するモノはない。
「そうかい? 噂話はなかなか愉快だぞ」
雪之丞は一旦言葉を止めて、いたずらを思い付いた子供のようにニヤリと笑った。
「さっきの娘、抜けるように色が白かったな、仲間にしたのか? 耽美な妄想を掻き立てられるよ。あの白い柔肌に牙を食い込ませ。葡萄酒のような紅い鮮血が白肌を伝い落ちる。紅い血は真っ白な乳房の間を――」
「雪!! 貴様これ以上、お玉を淫らな妄想の対象にしたら、お前とて許さん!」
愛染は雪之丞の言葉を遮り、胸倉を掴んだ。その迫力に、飄々とした雪之丞でさえ目を瞬かせて驚いた。彼が息巻く姿など初めて見た。普段は冷静沈着な愛染が暴力的になるなんて、誰が予想だに出来ただろうか。
少しばかりからかい過ぎた、と雪之丞は反省した。
「すまない」
雪之丞が素直に謝ると、愛染は雪之丞を突き放して、椅子に腰を降ろした。何故こんなに腹が立つのか自分でもわからない。それがまた不安を煽り余計に腹が立つ。
雪之丞は服のシワを伸ばすと、先刻とは打って変わって真剣な表情で愛染を見た。
「噂話を立てさせないためにも、真実を教えてくれ」
「……」
「例え、君の雇っている使用人達が無口でも、噂話はどこからでも広がる。淫らで不名誉な妄想を掻き立て、噂をばら撒く口さがない輩はいくらでもいる。特に記者とかね。彼女を守るため、真実を教えて欲しい。未婚の娘が“吸血鬼伯爵の館”に泊まったんだぞ。恰好のネタだ。ゴシップ好きの奴らはすぐに食いつくぞ」
たしかに、雪之丞の言うとおりだ。不名誉な噂は、お玉の身の破滅を意味する。
「……昨夜、拾った小娘だ」
愛染は、不承不承重たい口を開いた。
「拾った? 犬や猫みたいにかい」
「ああ、そうだ」
「ふ〜ん、宿無しの野良猫ちゃんか」
「女工だったそうだ。工場を追い出されて、行く当てもなくさ迷い歩き、たまたま我が家の自動車の前に倒れていた」
「なるほどね。しかし君が慈善活動するなんて珍しいじゃないか。彼女が元気になったら女中として雇うのかい?」
「まさか、明日にでも追い出すつもりさ」
愛染は冷酷無比に告げた。仕方なく保護した野良は、元気になったら自然に帰すのが当たり前だ。しかし、追い出すと考えるだけで胸がざわつくのは何故だろう。
「それはいけ好かないな。彼女行く当てなどないんだろ、ここを追い出されたら身を落とすだけだ“女工上がりの花魁”と蔑まれるだろうよ」
“女工上がりの花魁”女工が、夜の女たちの最下層、私娼になることを皮肉った言葉だ。女工は醜女で無知というレッテルが張られているため、他に稼ぐ手段がないのだ。
愛染の脳裏に、薄暗く汚い部屋で、お玉が白い股を見知らぬ男のために開いている姿が浮かんだ。
愛染は雷に打たれたようなショックと、目の眩むような怒りに駆られ、足の痛みなど忘れて立ち上がった。
「誰がそんな事をさせるか!」
愛染はイライラと部屋を歩き回った。檻に入れられた獰猛なライオンが、怒り狂いさ迷い歩いているかのようだ。
雪之丞は、そんな愛染の様子を目で追いかけて、にんまりと笑った。愛染は怒りで雪之丞の策にかかった事に気付かない。
「足が余計に腫れ上がるぞ。まずは落ち着け」
愛染は雪之丞を睨んでから、椅子に腰を降ろした。
「あんなに痩せっぽちの身体で、男を喜ばせる事が出来るわけがないだろう」
「だったら、この屋敷で女中として雇えばいいじゃないか」
「冗談じゃない。とんまな女中など」
この城には、目が飛び出すほど高額な葡萄酒がいくつもある。
「だったらどうするんだ、妾として囲うつもりか?」
「まさか、あんななまっちろい女は私の好みではない」
愛染はきっぱりと否定したが、雪之丞は愛染に見えないように訳知り顔で微笑んだ。
「だったら我が家、竹光邸で預かろう」
「駄目だ! お玉は私の物だ! 誰にもやらん!」
「ついに、本音が出たな」
雪之丞はしたり顔でニヤリと笑った。
愛染は愕然とした。学も色気もない鄙びた女。それでいて鈍臭い女。そんな女のどこがいいのだ。
――微笑み。
そう、あの太陽のような笑顔が欲しい。太陽を浴びると灰になってしまうという“吸血鬼”。皮肉な話だ。太陽を求める吸血鬼とはな。恋い焦がれて灰になるのだろうか。
「誰か、嘘だと言ってくれ……」
愛染は茫然自失で呻いた。
「彼女は君の、宿命之女だよ」
宿命之女、それは赤い糸で結ばれた運命の女。男を破滅させる魔性の女。
愛染は雪之丞を睨んだ。その冷たい目には、女などに心を奪われ身を滅ぼしたりしない、という強い意思が読み取れた。
雪之丞はその冷たい視線を軽く受け流すと、表面上だけ、申し訳なさそうな顔を見繕った。
「おっと、すまない。失言だったな。では改めて、君の“野良猫ちゃん”の事だが……遅かれ早かれ、噂になるぞ」
「くそっ」
「しかも、良い噂じゃないぞ。ただでさえ女性の素行にうるさい世の中だ。未婚の女性が付添人なしで男の家に泊まっただけで、あばずれと罵られる。更には泊まった屋敷が“吸血鬼の館”だ」
どうなる事やら……。と雪之丞は言葉を濁した。
雪之丞が最後まで言わなくても分かりきった事だ。先程、雪之丞が夢想したことが、人々の間で囁かれるのだろう。お玉は後ろ指を差され“吸血鬼伯爵婦人”として蔑まれる事だろう。それどころか、爵位も財産も持たない彼女は、噂好きな人間たちの恰好の的だ。最悪、“吸血鬼”を信じる狂信者たちに命を狙われるかも知れない。
愛染はお玉の胸の谷間に、杭が打ち込まれる姿を想像して、悪寒が走った。
「お玉はこの屋敷から外には出さない」
「それじゃ“青髭”だ。噂が噂を呼び本末転倒だぞ」
「他にお玉を守る方法はあるまい」
「私に考えがある」
雪之丞が含みのある笑みを見せた。
「考え?」
「そうさ、噂を一蹴するんだ」
「どうやって?」
「君が太陽の下で笑うのさ」
「…………」
愛染は“物凄く嫌そうな顔”をした。
「そんな顔をしないでくれ。君の“吸血鬼伯爵”のイメージを払拭するんだよ。出来るだけ人前に出るんだよ」
「最悪だな」
「君の“吸血鬼伯爵”の噂は、君が人付き合いを極端に避け、陰気な城に閉じこもり、秘密のベールに包まれているから、産まれたんだよ。陽気な人間に“吸血鬼”なんてあだ名さないよ」
「陰気で悪かったな」
「まあ、君にニンニクを首に巻いて陽気に盆踊りでも踊れ、とまでは言わないさ」
「……ふざけているのか?」
「まさか、私はいたって真面目さ。さて、ここからが本題だ。“野良猫ちゃん”の事さ」
雪之丞は一旦言葉を切ると、愛染を見つめ返した。
「彼女を、“学婢”という女書生として、屋敷に置くんだ」
「学婢?」
「ああ、後見人というか、後援者だね」
「パトロンか」
「これで少なからず、堂々と野良猫ちゃんを屋敷に置く事が出来る」
女を屋敷に置くには建前がいる。女を囲うか、女を雇うかでは、例え内容が同じでも、外聞が違ってくる。
「君が野良猫ちゃんを素敵な“大和撫子”にするのさ。美しく、才知に長けた淑女が君と一緒にダンスホールに現れてごらん」
雪之丞は己に陶酔して、大袈裟に両手を広げた。
「……想像がつかんな」
愛染がスパッと切り捨てる。
みすぼらしい野良猫のようなお玉が、優雅な長毛種のような淑女になってダンスホールに降り立つ姿は、愛染がニンニクを首に巻いて踊っている姿以上に想像しがたい。
「君は想像力がないぞ。まあ、しかたがない。君が彼女を“紫の上”にするんだよ」
古典『光源氏』の登場人物“紫の上”。光源氏自らが育てあげた、麗しの姫。
「私は女を自分好みに育てる好色な趣味はない」
眉を潜める愛染に、雪之丞は盛大なため息を漏らした。愛染は冗談が通じない、生真面目な男だ。
「君は言葉を額縁通りに取りすぎる。趣味やどうこうじゃなくて、君が、彼女を、淑女としての教育を施すんだよ。家庭教師をつけたり稽古事に通わせたり」
「……」
愛染は、めんどくさそうな顔をしている。
「全部、野良猫ちゃんのためだよ」
「本当にそんな事で噂が鎮まるのか?」
愛染は疑い深い。長年、噂話に翻弄されてきたのだ、そんな事で噂が消えるとは到底思えない。
しかし、雪之丞は自信たっぷりに微笑んだ。
「私を見てごらん」
愛染は言われた通りに雪之丞を見た。
身長は混血児の愛染より少し低いものの、純日本人から見れば長身だ。甘いマスクは常に、けだるそうな微笑みを称え。色素の薄い黒髪に琥珀色の瞳は、先祖に異人の混血を思わせる。洒落男でいつも仕立てよい服を着ている。自称“女性の味方”。ある意味では“女性の大敵”だ。当代切っての放蕩者。それが雪之丞だ。
「私はこの“吸血鬼の館”に出入りする唯一の人間だ。吸血鬼の仲間だと噂されてもおかしくない。しかし、私は“陽気な吸血鬼”と呼ばれた事が一度もない」
「“陽気な吸血鬼”などいない」
「そう、それなんだよ。人はイメージに執着しがちなのさ。君が紳士で野良猫ちゃんが淑女だと人々に見せれば、噂は自然消滅していくさ。“陽気な吸血鬼”の私が保証するよ」
「……」
「もちろん私も協力する」
「あの鈍臭いお玉が本当に淑女になるのか」
「やるんだよ、彼女のためだ」
愛染の脳裏に、お玉の白い柔肌に狂信者たちが杭を打ち込む姿が、再び浮かび上がった。愛染は寒気を感じて藍色の瞳を閉じた。
――太陽のような笑顔。
失いたくない。失ってはならない。お玉は笑顔でまっすぐ前を向き、太陽の下で笑う姿が良く似合う。癪にさわるが、お玉の笑顔を見ると、心が温まるのは事実。
お玉の命を守るためだ。愛染は渋々、雪之丞の案に乗ることにした。
「……了承した」
「よし! 決まりだ。それじゃあ、まずは乾杯と行きましょうか」
雪之丞は意気揚々に、紅い甘美な葡萄酒を乾杯というように上げた。
「ファム・ファタルに」