オードブルは贖罪のネコちゃん ―1―
夕刻、伯爵邸に来客があった。
“吸血鬼伯爵”に来客があるのは、非常に珍しい。不気味な“吸血鬼の館”には誰もが恐ろしがって近づかないのだ。
「雪か、何をしに来た」
愛染は応接間に入るなり、挨拶もなしに、客に用件を聞いた。
雪、という愛称で呼ばれた竹光子爵の御曹司、竹光雪之丞は、愛染の不躾な態度に腹を立てるわけもなく、にっこり微笑んでいる。
甘いマスク、優雅な物腰、当代切ってのプレイボーイ。巷では“大正の光源氏”と言われ、持て囃されていた。
雪之丞は金持ちの放蕩息子らしく、いつも洒落た格好をしている。高級な生地で設えた背広、ベストから懐中時計の金糸がチラリと見える。黒光りする革靴、純銀の握りのついた黒檀の杖を突いて、かんかん帽をクルクル回している。まさに伊達男だ。
愛染は応接間の重厚で落ち着いた牛革張りの椅子に座ると、長い足を組んで雪之丞を睨んだ。
「用件を言え」
「相変らず、せっかちだね」
雪之丞はのんびりと答えると、マホガニーのテーブルを挟んで、愛染の真向かいの椅子に座った。
「昨晩の件だったら、お断りだ」
先手を打った愛染に、雪之丞はくっくっくと楽しそうに笑った。
雪之丞は昨晩の晩餐会をボイコットして、女優と帝国劇場にオペラを見に行っていたのだ。早朝に帰宅してみると、継母の夢乃の懐妊騒動に浮気騒動。そして妹、彰子は愛染と結婚出来なければ、誰の元にも嫁ぐ気はない、とヒステリックにわめき散らしていた。どうやら昨晩は、オペラなんかより数倍楽しい喜劇が自宅で繰り広げられたようだ。見逃してしまうとは、残念至極。
「別段、私は君が義理の兄になってくれてもかまわないよ」
そしたら毎日が波乱万丈で楽しそうだ。雪之丞は心の中で付け足した。
「断る」
愛染は邪険な態度で突き放した。愛染がゾッとするほど端整な顔で睨むと、大の男でも怖気づいて逃げ出したくなるほど迫力があった。しかし、雪之丞はくっくっくと喉の奥で笑いだした。
「そう怒りなさんな。可哀想な妹はお前に一目惚れをした、と言い出して、恋わずらいで床から起き上れない始末。子煩悩な父が心配して、お前との縁談を進めてやると、大手を振っている」
竹光子爵は、たったひとりの愛娘を全力で溺愛している。
愛されることが当たり前の彰子にとって、愛染に袖にされたことは相当堪えたようだ。意固地で粘着質な性格の彰子は意地でも愛染と結婚する意気込みだ。こうなると手がつけられない。
「冗談じゃない。誰があんな女」
「人の妹を捕まえて“あんな女”呼ばわりはないだろう。まあ、私も“我が儘娘”はお断りだがね。結婚なんて怖気が走る」
「婚儀など一生ありえん。お前も縁結びなど下らない事をしてないで、さっさと帰れ」
愛染は扉を顎でしゃくった。
「まあ、ちょっと待ちなよ。私は昨日の無礼を詫びにここまで来たんだ。父は詫びの印に君を遊郭に連れて行って、贅沢三昧のドンちゃん騒ぎのをして、最後にはの“花魁”を宛がうつもりだったんだぞ」
「誰がそんな所にのこのこ付いて行くものか」
賑やかな花街に、鼻の下を伸ばした老人と連れ立って歩くなんてゾッとする。
色鮮やかで煌びやかな部屋で、しどけない姿の女たちに囲まれ、馬鹿騒ぎを繰り広げ、要らぬ世辞を聞くのはうんざりだ。第一、女を抱くのに、お膳立てなど必要ない。
「そう言うと思ったよ。父は無類の女好きだから、美女に目がないのさ。男なら誰しも遊郭が好きだと思い込んでいるんだよ。しかし、君はどんな美女だろうと酔わない。君が酔うのは、最高の美酒だけさ」
そう言うと雪之丞は、風呂敷に包んだ最高級の葡萄酒を差し出した。濃厚な血のような赤黒い葡萄酒。退廃的な官能を生み出す甘美な飲み物。
「私が父の代わりに、君に謝ることにしたんだ。これなら君も喜んでくれるだろ」
雪之丞は、父親より知略に長けている。のらりくらりとした性格だが、隙なく回りを見渡し、的確な判断を下す。それゆえ人嫌いの愛染とも、付き合っていく事が出来るのだ。
「ほう、さすがは雪。わかっているな」
愛染は早速、応接間に備えつけてあるミニバーからグラスを取り出すと、葡萄酒のコルクを開けた。コルクの匂いを嗅いで満足そうに頷くと、どろりとした赤黒い葡萄酒がグラスに注いだ。赤い夕日が葡萄酒を照らし、深淵の輝きが増す。
「父が手に入れた最高級品の葡萄酒さ、コレが私からの詫びの印さ」
愛染は血のように濃い葡萄酒を口にした。目を細めてゆっくり味わう。口の端が満足そうに上がり、艶な微笑みを浮かべた。まさに赤い血を啜る妖艶な吸血鬼だ。
「……どうだい?」
雪之丞が感想を訊くと、愛染は雪之丞にグラスを渡した。雪之丞は目の高さまでグラスを上げてから、葡萄酒を口に含んだ。
「うわ、濃厚。まるで美しい悪女のような葡萄酒だ。男を破滅させるだけの魅力がある。我が継母を思い出す」
「夢之を?」
「私にも、褥を共にしようと、誘いを掛けて来たのさ。義理の息子と寝ようと思うとは、さすがとしか言いようがない」
「胎の子は雪の子か?」
「まさか、いくら垂涎ものの美女だからと言って、さすがに継母とは寝ていないさ。それをやったら小梅に叱られちまう」
小梅は雪之丞の身の回りの世話をする、雪之丞の乳姉弟に当たる上女中。雪之丞は小梅だけには、頭が上がらないのだ。小梅がいなかったら雪之丞は袴ひとつ着る事が出来ない。
「そういえば、この屋敷もとうとう若い女中を雇ったんだな。歳を取った通いの家政婦だけじゃ、大変だからな」
女中を雇うのは上流階級で流行っており、借金を作ってまで女中を雇う見栄っ張りも少なくはなかった。竹光子爵邸の使用人は、奥に十五人、台所に五人、家令、家扶、家従、家丁、小使い、馭者、馬丁、車夫、園丁などなど、ざっと百名以上いる。
しかし、愛染はプライベートな場所にどかどか入って来られるのが煩わしく、最低限の人間しか雇っていない。“吸血鬼の館”の使用人は心臓に毛の生えた兵で、無骨で無口の変わり者ばかりだ。若い女中など雇うはずがない。
「若い女中など雇った覚えはない」
「あれ? おかしいな。私がここに来る途中、若い女が屋敷内を掃除をしていたぞ。まさか幽霊? やめてくれ、私はその手の話が苦手なんだよ」
若い女と言ったらお玉しか心当たりがない。
お玉は午前中のうちに、愛染の部屋から掃除を終えたばかりの埃っぽい客室に移った。昼過ぎに覗いてみると、巨大な寝台の上で小さな寝息を立てていた。
「……まさか」
愛染はお玉の様子が気にかかり、いても立っても居られなくなった。愛染は素早く立ち上がると、目の前に居る雪之丞の事など気にかけず、応接間から出て行った。
応接間に残された雪之丞は、愛染らしからぬ行動に唖然としつつ、彼を追うように応接間を後にした。
※
客室に向かう途中で、お玉を見つけた。
応接間は二階にあるため、扉を開いて少し歩くと、赤い絨毯が敷き詰められた階段が見えてくる。お玉は四つん這いになり、雑巾で階段を拭いていた。壮麗なステンドグラスの光がお玉に降り注いでいる。女性用の浴衣に着替えたお玉の後ろ襟は広く開き、白いうなじに後れ毛がかかっている。袖は襷で括り、腕を動かすたびに身八つ口から胸のふくらみが見えそうだ。
(あの女、あんなに弱りきった身体で、階段から落ちたらどうする気だ)
愛染は激しい怒りが込み上げてきた。その怒りに愛染自身も戸惑いを感じた。お玉の首筋の傷を見ると、怒りを抑えられなくなる。
「お玉、何をしている!」
愛染の叱責にお玉は飛び上がって驚いた。その拍子にバランスを崩し、あろうことか階段を踏み外したてしまった。お玉の体が傾く。
「――!!」
愛染は咄嗟に、お玉に手を延ばした。
(間に合わない)
愛染は階段を蹴ると、お玉の頭を胸に抱え込み、空中で身体を反転させた。二人は折り重なり、愛染がお玉を庇うように階段を転げ落ちた。
凄まじい音と、埃が舞い散る。
「愛染!」
愛染の後を付けて来た雪之丞が、血相を変えて階段を二段飛ばしにして駆け降りた。愛染とお玉は重なり合うように階段の下に倒れている。愛染が仰向けに倒れ、その上にお玉が倒れていた。お玉の浴衣の裾がはだけ、白いふくらはぎと傷だらけの足の裏が見える。
「愛染、無事か!?」
「私は平気だ。お玉は!?」
愛染は首だけを起こして、自分の身体の上に倒れているお玉を見た。
「は、はい。大丈夫です」
お玉は急いで愛染の身体の上から降りようとした。しかし、頭がぐるぐる回って身体が思うように動かない。目の焦点も定まらない。
愛染はお玉の背中に手を回して、一緒に起き上がった。
お玉は、床に座り込む愛染の膝の間に座る格好だ。愛染の胸に寄りかかると、狂ったような心臓の音が聞こえる。
愛染はお玉の肩に腕を回し、顎をお玉の頭に置くと詰めいていた息を吐き出した。安堵すると、今度は怒りが込み上げてくる。
「お玉、何を考えていた。今日は一日寝ていろと言ったはずだ」
愛染が怒鳴る。
「私の命令が聞けないのか?」
脅すような口調だったが、お玉の肩を抱く愛染の腕は優しかった。
「申し訳ありません。だけど、よく寝たお陰で随分身体が良ぐなったので、恩ある伯爵様に何か恩返しがしたぐて」
美味しいご飯に清潔な寝床、そしてお医者様にも看て頂いた。身に余る思いだ。なんとか恩返しがしたいお玉は、自分の出来る事を探した。愛染に喜んで貰いたくて、お玉は床をピカピカに磨き上げることにしたのだ。
「迷惑だ」
愛染は冷たく言い放った。お玉はがっくりと項垂れる。
「すみません」
しょんぼりと謝るお玉を見て、自称“女の味方”雪之丞が声をかけた。
「まあまあ、二人とも怪我は無いかい」
その声に、お玉は首を巡らし、雪之丞を見た。そして、素っ頓狂な声を出あげた。
「あれま、お客様は双子でらしたんですか」
雪之丞はお玉の意味不明な言葉に、首を捻った。
「双子? もしかして君は、酔っ払っているのかい」
雪之丞の言葉に即座に反応したのは、愛染だった。愛染はお玉の目の前に長い指を持っていった。
「お玉、私の指が何本に見える」
「田舎者だからって馬鹿にしないで下さい。数ぐらい数えられます。それは、二本です」
自信満々に答えるお玉。
愛染は指を一本しか立てていない。物が二重になって見えている証拠だ。愛染は唸り声を漏らすと軽々とお玉を抱き上げた。
「あんれまあ、降ろして下さい。歩けます」
「黙っていろ」
顔を赤く染めて抗議するお玉に、愛染は冷たく一喝する。
愛染はお玉を抱えなおすと、階段に足をかけた。と、その時、足に鋭い痛みが走った。
「愛染、足を捻ったんじゃないのか? 私が彼女を運ぶよ」
片足を庇いながら階段を上る愛染に、雪之丞が申しでた。
「お玉に触るな!」
愛染は誰にもお玉を触らせたくなかった。特にこの雪之丞には。雪之丞は手が早い、そんな男にお玉を任せられるわけがない。雪之丞はニヤリと笑うと、降参とばかりに、両手を挙げて見せた。
焦ったのはお玉だ。自分のおっちょこちょいに巻き込んで、愛染を負傷させてしまったのだから。
「伯爵様、わたし降ります。降ろしてください」
「黙れ」
暴れるお玉を痛いほど抱きめると、愛染は片足を引きずりながら、客室に辿り着いた。
「いいな、次、寝台から抜け出した所を見つけたら……、覚悟しておけ!」
愛染はお玉を乱暴に寝台に降ろすと、鋭く睨みつけてから怒りに任せて扉を閉めた。これ以上ここにいたら、お玉を抱きしめてしまいそうだった。
お玉は扉の閉まる大きな音に身を強張らせ、呆然と愛染の背中を見送った。目は後悔の涙で潤んでいる。
(また、やってしまった……)
お玉は頭をフカフカの枕に沈めると、薄紅色のベールがかかった天蓋を見つめた。唇が震え、一滴の涙がこめかみを伝い落ちる。お玉は自分のドジな性格に心底嫌気がさしていた。
(伯爵様の足は大丈夫かしら?)
恩を仇で返してしまったようなモノだ。思い出しただけでも血の気が引く。
(これ以上、伯爵様に迷惑を掛けたら駄目だ)
ここを出て行こう。お玉は静かに起き上がると、浴衣の袖で涙を拭いた。