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野良猫と吸血鬼のアペリティフ ―2―

(……暖かい。それに、身体が痛ぐない。まるで雲の上で寝ているみたいだ。なんて、心地がいいんだろう。ああ、そっか、わたしはついに、天国に来でしまっただな……。ああ、お腹が空いた。天国でも、腹は空ぐんだ)


「……おい、起きろ、おい!」


(あら、まあ。なんて口の悪い神様だろう)


「女! 起きろ!」


(はい、はい、今起きますよ。なんてせっかちな神様だ)



 愛染は混乱していた。


(昨夜は、葡萄酒を一本空けて、長椅子で横になったはずだ。それが何故……)


 愛染は自分の寝台で目覚めた。昨夜は間違いなく、長椅子で寝た。それなのに朝、目が覚めた時、自分の寝台だった。夜中に無意識に移動したとしか、考えられない。今まで寝ぼけた事など、一度もなかったのに。

 もちろん、愛染の横にはあの女が寝ている。女は愛染の腕に自らの細い腕を絡ませ、足も愛染の足に絡ませている。まるで抱き枕だ。

 深紅のビロードのカーテンの隙間から、朝日が差し込む。大きすぎる浴衣が着崩れ、女の胸元が覗いていた。朝日が胸の谷間を優しく照らしている。昨夜は、薄汚れ、寒さのため青白かった女の肌は、柔らかい朝日の下で見ると、白くて、滑らかなミルクのような美しい肌だ。愛染の身体に熱い何かが流れた。脈が速くなり、胸がざわつく。――女の服を全て剥ぎ取ってしまいたい。


「……馬鹿な、相手は何処の誰とも知れぬ女だぞ」


 愛染は唸り声を漏らし、女から離れようとした。しかし、女は愛染の腕を逃がさないように、より強く抱き着いてきた。柔らかい胸が愛染の腕に押し当てられる。もう、限界だ。


「離せ、女! 襲われたいのか?」


 愛染は女を揺さぶった。


「何時まで寝ている気だ。おい、起きろ、おい!」


 女が眉根を寄せた。覚醒が近い。


「女! 起きろ!」


 女の瞼がゆっくり開く。



(……さすがは神様。神々しいお顔だ)


 目に飛び込んできた、美貌の神様。

 さらさらとした豊かな髪は、朝日に浴びて黄金(こんじき)に輝き、瑠璃色の蜻蛉玉(とんぼだま)のような瞳。不機嫌そうに潜めた形のいい眉。完璧な美貌だ。天使というには神々しく、神というには仏頂面すぎる。

 

(ふふふ、神様が仏頂面なんて、可笑しいや)



 女は笑った。

 愛染にこれほど暖かい微笑みを向けた者が、かつて居ただろうか。否、ひとりも居なかった。女はゆっくり目を開けると、愛染を見つめてから、慈愛に満ちた微笑みを顔に浮かべた。

 愛染は、その笑顔に酔いしれ、お腹の底で無数の蝶がばたつく感覚を覚えた。燃えるような欲望でなく、もっと穏やかで暖かいものだ。無意識に女の顔に手を伸ばす。


(この笑顔は、幻ではないだろうか……)


 愛染の長い指がためらいがちに、ほんのり桜色に色づいた女の頬を包んだ。柔らかく暖かい頬をそっと撫で下ろすと、親指が唇に当たった。果実のような、みずみずしい唇を(ついば)みたくなる。甘美なポートワインのように、ほろよく、甘いのだろうか?



 きゅるるるる。



(何の音だ?)


 女の盛大な腹の虫が、愛染を現実の世界に引き戻した。


「……お腹、空いた~」


 それが、開口一番。女の言葉だった。



 女は名前を“お玉”と言った。

 貧困にあえぐ農村の八人兄弟の末っ子として生まれたお玉は、売られたも同然で紡績工場の女工となったものの、生来の鈍臭さで数々の失敗を繰り返し、ついに紡績工場を解雇になり、数日間、飲まず食わず、さ迷い歩いていた、と説明した。少なくとも、犯罪者ではないようだ。

 愛染は洋装に着替えると、朝食の席に着いていた。朝食は新聞に目を通ながらサンドイッチと、珈琲で簡単に済ませる。

 大きな両開きの仏蘭西窓(フランスまど)から朝日の差し込む食堂は、瀟洒(しょうしゃ)な西洋風の内装で設えてあり、アール・ヌーヴォーの暖炉の上にロマン派の絵画が掛けてある。


「お玉に、朝食を運ばせたか」


 愛染は新聞から目を離さず、傍に仕える執事に聞いた。長い足を組み、珈琲を片手に新聞を読む愛染は、英国の貴族にしか見えない。


「お部屋に、お粥をお運びいたしました。それと、通いの家政婦が来ましたので、客室を掃除させております」

「服は」

「はい、ご指示通り、廃棄いたしました。新しい御召し物は、すぐに用意出来ます」

「医者はまだ来ないのか?」

「今、車を迎えに出しております」


 愛染はうむ、と頷いた。人嫌いの愛染にとって、有能な執事に出会えた事は幸運だった。少ない人手で、この屋敷を効率よく、切り盛りしているのだから。閑散とした屋敷は、幽霊屋敷のように静まり返っていた。そう、昨夜までは。

 朝になったら女を放り出すつもりだった。しかし、家政婦に客室を用意するように命令を下してしまった。お玉を追い出す気になれなかったのだ。矛盾する想いに愛染は、忌々しく感じた。

 愛染は乱暴に新聞を畳み、テーブルの上に放り投げ、お玉の待つ自室に向かった。



「ご飯が、白い!」


 お玉は目の前に出されたお粥の輝かんばかりの白さに、目を見開いた。麦や(あわ)(ひえ)しか食べた事がないお玉にとって白米は高級品だ。

 天蓋付きの豪華絢爛な寝台。上半身を起こしたお玉の背中には、ふかふかのクッションが何個も据えられ、目の前には白米のお粥に大粒の梅干しが乗っている。口の中に唾が湧き出てきた。


「贅沢だ〜」


 贅沢過ぎて罰が当たりそうだ。お玉はここが天国じゃないのが、信じられなかった。

 豪奢で華麗な室内は、夢のお城のように美しく、触り心地のいい布団。極めつけは、あの神様のように端整な容貌の伯爵。生きている人間とは思えないほど美しい。

 何度、頬っぺたをつねったことか。湯気の立つ白いお粥が運ばれてきて、白い手袋に燕尾服を着た初老の男が、寝台の上で食べられるように準備してくれたのにも、おったまげた。


「それでも、寝台の上でご飯を頂ぐのは、行儀が悪い気がする」


 豪華な寝台の上で食事をする事は、貧乏性のお玉にとって、いたたまれない気分になる。せめて床で食べよう。そう決めたお玉は、緩慢な動作で大きな寝台の端っこまで這っていき、ゆっくりと寝台から降りた。くるぶしまで埋まりそうな、高級絨毯に素足がつく。


「あら、ら」


 足に力が入らない。お玉は寝台の横にへたり込んでしまった。お腹が空きすぎて、力が出ないのだ。


「お玉! 何をしている?」

「すみません!」


 厳しい叱責が飛び、お玉は条件反射で、両腕で頭を庇った。しかし、いつものように拳は飛んでこなかった。


「お玉?」


 目をつぶったお玉の耳に、愛染のかすれた深い声が聞こえ、お玉は恐る恐る片目を開けた。そこには、愛染が扉を開けて立っていた。洋服を着た愛染は目を奪われるほど、優雅で美しかった。


「なんだ。伯爵様だったんですか。わたしは工場長に叱らたんだと勘違いしてしまいました」


 お玉は安堵のため息を漏らした。


「工場長?」

「はい、私はドジばかりで、いつも工場長に叱られていました」

「工場長はお前を殴ったのか?」


 愛染の脳裏に痣だらけのお玉の体が浮んだ。愛染の言葉を聞いたお玉の顔が、さっと青ざめた。


「お玉、工場長はお前に暴力を振るったんだな」


 それは、質問ではなく、確認だ。


「わ、わたしが、いつも、ドジばかりするから」


 お玉は震える身体を、両腕で抱きしめた。恐怖に慄いている。

 愛染は苛ただしく舌打ちを打つと、猫でも抱き上げるように軽々とお玉を寝台に戻した。愛染は寝台の端に腰を掛けると、お玉の首の傷を親指でなぞった。お玉はびくっと身体を動かしたが、愛染の優しい愛撫に、次第に身体から力が抜けていった。


「痛むか?」

「……いいえ」

「細い首だ」


 愛染はお玉の白く、細い首に、長い指を回した。少し力を込めれば折れてしまいそうだ。


「粥を食べていないのか?」

「え?」


 ひとくちも手を付けていないお粥に視線を落とした愛染が、不機嫌そうに聞いた。


「何だか、こんな豪華な寝台でご飯を食べるのが、罰当たりな気がして。床で食べようと思っていたんです」

「だから、床にいたのか? 粥を食べるために」


 お玉は、決まりが悪そうに、はい、と小さく頷いた。

 愛染は呻き声を漏らしそうになった。なんと、間抜けな女だ。お玉のことを心配した自分が、無性に愚か者に感じた。


「食え」


 愛染の固い声色に、お玉は困ったように笑った。


「何だか、落ち着かなぐて」

「お玉が食べなかったら、捨てるだけだ」

「そんな、勿体ないお化けが出てきます! 食べます。今すぐ食べます。いただきます」


 お玉は急いでお粥を頬張った。五臓六腑に染み渡る美味しさだ。一度手を付けたら、もう止まらない。お玉は美味しそうにお粥をたいらげていく。小鳥の餌しか食べない上品ぶった淑女たちが見たら、眉を潜めるような食べ方だが、愛染はその食べっぷりに、爽快感さえを感じていた。


(女が、たくさん食べるのも悪くないな)


 愛染は寝台の端に座り、お玉が食べ姿を眺めた。その顔に、微笑みが浮かんでいる事に本人さえ気付いていなかった。

 お玉がお粥を食べ終わる頃、遠慮がちに扉をノックする音が聞こえた。


「伯爵様、お医者様がいらしています」


 執事の声が、扉を通してくぐもって聞こえる。


「通せ」


 愛染がひと言、扉に向かって声を掛けると、扉が開き、執事に伴われ、禿げ頭の医者が部屋に入ってきた。


「やあ、目が覚めたみたいだね。君の目が覚めなかったら、松平伯爵様は私を締め殺しかねない勢いだったから、本当に安心したよ」

「お医者様?」


 お玉は、食べかけのお粥をごっくんと嚥下(えんげ)すると、不安そうに愛染を見た。お玉にとってお医者様はとても恐ろしい、という固定概念があったのだ。


「そうだよ、羽毛田藤次という者だ。君の名前と歳を教えてくれ」


 羽毛田は“仏の羽毛田”と言われる所以となった、菩薩のような穏やかな微笑みをお玉に向ける。


「な、名前はお玉です。歳は数えで二十歳です。わたし、どこも悪い所はないです」

「悪い所がない? それは私の仕事がなくなって嬉しいね。でも、どこか痛い所があるんじゃないかい?」


 お玉は首を横に振り、いいえと小さく呟いた。それに反発したのが、傍で診察を見守る愛染だった。


「嘘をつくな! その首の傷、腕の火傷、身体の痣! 痛いはずだ!」

「別に痛ぐありません。普通のことです」


 お玉は愛染の方を向くと、しかめっ面で答えた。


「それが普通だというのか?」

「はい、わたしはいつも生傷が絶えないほどドジなんです」

「ドジにも程がある!」


 愛染があざけるように笑った。


「ゴホンッ。松平伯爵様、診断を続けてもよろしいでしょうか?」


 ワザとらしく咳をした羽毛田が、2人の間にやんわりと入り込む。愛染はしぶしぶ身体を引いた。


「では、酷く痛む所はないのだね」

「はい、ありません」

「そうか、それは良かった。でも痛いところがあったら、やせ我慢しないで、素直に言いなさい」

「……はい」

「きちんと受け答えが出来る。咳もでない、熱も無い、傷は化膿していない、では最後にひとつ答えにくい質問だ」


 羽毛田は、そこで一旦言葉を切り、愛染を見た。愛染は絶対そこを動かないだろう。そう判断した羽毛田は、重い口を開いた。


「お玉、君は男に陵辱されたのか?」


 羽毛田の言葉に、愛染もお玉も言葉を失った。顔が青ざめる。

 愛染は怒りに任せて、羽毛田の胸倉を掴んだ。


「貴様! 私がそんな男に見えるか?」

「ち、違います。誤解です。私は伯爵様が女性を手篭めにするなどと、露とも思っていません。ただ、女性がひとり街中を歩いていたら、夜鷹(よたか)と思われて陵辱されてもおかしくない。お玉の傷を見る限り、どこかの粗野な男に乱暴されたのでは、と疑ったのです」


 夜鷹、街角に立ち客を引く遊女。愛染は浴槽で見たお玉の傷を思い出していた。確かにあれは押し倒され、力任せに陵辱されたようにも見える。愛染が羽毛田から手を離し、お玉へ視線を移した。

 お玉は真っ青な顔で、震えている。


「お玉?」


 お玉の答えを聞くのが怖い。お玉は本当に陵辱されたのか? 愛染は、顔をこわばらせて、静かにお玉の答えを待った。


「お玉、思い出すのは怖いだろうが、大切なことなんだ。男から病気を貰っているかもしれないだろ」


 羽毛田が優しい声音で、お玉を促した。


「逃げました。押し倒されたけど、逃げたんです!」

「本当かい、嘘をついてないね。嘘をついても意味がないんだよ。君が未通女(おぼこ)かどうか調べようと思ったら、調べられるんだよ」

「嘘じゃないです!」


 お玉は首を激しく左右に振った。青ざめた顔は今にも泣きそうだ。愛染は必死で感情を抑えた。お玉を押し倒した男を殴り飛ばしたい、怯えるお玉を、抱きしめ慰めたい。しかし、愛染はそのどちらもしなった。羽毛田がお玉の肩に慰めるように手を置いたからだ。


「そうか、怖かったね、もう大丈夫だよ」


 お玉の目が見開かれる。それからゆっくりと、しかし、大きく頷いた。


「さて、私は病院に戻るよ、何かあったら病院に来なさい。ああ、それから白米ばかり食べていると脚気になりやすいから、発芽米を混ぜて食べるといいぞ」


 羽毛田は食べかけのお粥を見てから、たくさん食べなさい、と満足そうに笑った。


「ありがとうございました!」


 お玉は寝台の上で正座すると三つ指をついて、羽毛田の後姿にお礼を述べた。羽毛田はにっこり笑うと山高帽を振って病院に戻っていった。面白くないのが愛染である。

 お玉に感謝されてしかるべきは自分ではないのだろうか? それに、どうしてお玉は私には、襲われそうになった話を話してくれなかったのだろう。どうも納得が行かない。苛々する。


「お玉」

「はい」


 愛染は衝動的にお玉を呼んだ。しかし、何を言うつもりだ? 慰めの言葉ひとつでも掛けるべきなのだろうか。お玉はじっと愛染に無垢な視線を向けている。お玉の関心を独り占めしたい、そんな子供っぽい考えが頭の中を過ぎり、愛染はぎょっとした。


「粥をわざわざ作らせたんだ。脚気になろうと、きちんと最後まで食べろ」


 愛染は自分の気持ちを誤魔化すようにむっつりと、残り少ないお粥を指し示した。この女をさっさと放り出すべきだ。そうしなければ心の平穏はやってこない。


「はい!」


 お玉は笑顔で溌剌(はつらつ)と答えた。お玉の笑顔を眩しそうに眺めた愛染は、放り出すのは明日にしよう、と胸中で呟いた。


「今日は、一日そこで大人しく寝ていろ!」


 愛染は苦々しく言い放ち、部屋を出て行った。


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