ディジェスティフで幕引きを
「それで、子爵夫人の行方は?」
お玉が顔を曇らせながら訊いた。夢乃に殺されかけたとはいえ、彼女は妊娠中の身であることは変わらない。その身体が心配だ。
子爵夫人夢乃とその間夫は事件後、忽然と姿を隠したのだった。どこを探しても見つからない。一部では心中したのではと噂もある。しかし、夢乃は逃亡の際、金目の物をありったけ持ち出していることから、世を儚むとは考えにくい。
「彼女は身重で、間夫は酒に取り憑かれている。楽な逃避行じゃないだろう。いずれ捕まるさ」
愛染は革張りの大きな椅子に座ると、目頭を揉んだ。その顔には疲労が見て取れる。
「そうですか」
お玉は暗い顔で頷く。
「お玉、こっちらへ」
愛染が両手を広げて、お玉を呼んだ。お玉が腕の中まで来ると、愛染はお玉を抱えて膝に座らせた。
「愛染様っ!」
お玉は驚いて、愛染の膝から降りようとしたが、愛染がお玉の背中を抱いて抵抗を封じ込めた。
「……少し疲れた」
愛染はお玉の髪を撫でなら目を瞑る。
後味の悪い事件だった。
庭師は現行犯で逮捕。信用している人間に裏切られるのは身を切られるように辛いもちろん、お玉を殺そうとした事は許せない。しかし、一歩間違えば自分も嫉妬の鬼になっていたかもしれないのだ。
愛と憎しみは紙一重。自分の物にならないのならいっそ……。
庭師の居なくなった庭園はあっという間に荒れ始めた。草は伸び、花は枯れ、虫が付く。見捨てられた庭は荒れていく。まるで人の心のようだと愛染は暗澹たる思いを馳せた。
知らず、知らずお玉を抱く腕に力がこもる。
「愛染様」
お玉は愛染の肩に頬を寄せた。慣れ親しんだ彼の香りを吸い込むといとしさで胸が締め付けられる。愛染の肩を優しく撫でると、彼の強張った筋肉が次第に緩むのを感じた。
お玉は愛染の緊張が和らぐのを感じると、ほっと胸をなでおろし甘えた猫のように彼の胸に擦り寄った。それに応えるように愛染もお玉を強く抱きしめた。
「――っ!」
お玉の身体がビクッと強張った。愛染が心配そうにお玉の顔を覗き込む。少しばかり顔を歪めたお玉は胸をそっと押さえている。
「お玉、胸の痣は痛むのか?」
「随分、よくなりました」
お玉の胸には痛々しい殴打の痣が出来たが、幸運なことに骨も内臓も異常はなかった。
――偶然が重なり合い、起こった奇跡。
全てはペンダントのおかげだ。愛染の両親の写真が入ったペンダント。仏蘭西語で“最愛の息子”と刻まれていたペンダント。
そのペンダントは今や暖炉の上に大切に飾られている。見るのも思い出すのも嫌悪していた両親の写真。その写真を見ると愛染の顔に自然と笑顔が浮かんだ。
愛を恐れていたのだ。愛情を貰えないのなら、誰も愛さなければいいと頑なに思っていた気持ちが、夏の氷のように溶けるのを感じた。気づかなかっただけで、愛情はずっとあったのだ。すぐ近くに。
愛染は、お玉の頬を親指の腹で撫でた。いとおしさが込み上げる。
お玉は愛情いっぱいの微笑み浮かべて、大きな瞳で愛染を見つめていた。
お玉には愛人として日陰で生きていて欲しくはない。妻として、肩を並べて共に歩んでほしい。
「お玉」
「はい、何でしょう?」
「我々は結婚すべきだ」
「――結婚?」
玉は驚きのあまり、素っ頓狂な声が出た。私と愛染様が? お玉の考えが顔に現れる。
「嫌か?」
不安そうに訊く愛染に、お玉は慌てて横に振った。
「イヤとかではなくて、私は工女で、身分も」
「江戸時代じゃないんだぞ。身分が何だ! 君を私のモノだと世間に知らしめたい」
「でも、私はドジで間抜けで。愛染様のような方には相応しく――」
お玉の言葉は愛染の口の中に消えいった。愛染は時間をかけてゆっくり官能的な口づけをした。お玉の指が愛染の髪の中に埋まる。長い口づけは二人の情熱を燃え上がらす。唇が離れた時、二人の荒い息遣いが部屋にこだます。お玉の唇は紅くしっとりと濡れ、頬は紅く染まり目は潤んでいる。
愛染の目が獲物を見つけた猛禽類のように煌めいた。
「お玉、君は私から逃れなれない」
愛染は微笑み、お玉の手に自分の手を絡めた。
「愛している、結婚しよう」
結婚式は事件のあった教会で行われた。
祭壇に立つ愛染は金髪を後に撫でつけ、長身をフロックコートに包んでいる。彼の瑠璃色の瞳は嬉しそうに輝いた。目を見張るような美しく麗しい男性。吸血鬼伯爵と言われた姿は何処にも見えない。
灰かぶり姫の太陽の笑顔を目の当たりにした吸血鬼は、灰の中から生まれ変わった火の鳥の如く、生命力に溢れている。
愛染にとってお玉はまさに太陽だ。
シャンパンカラーのウエディングドレスを身にまとったお玉がゆっくりと愛染に近づいてくる。父親役の執事は緊張して顔が硬直し、動きがぎこちない。
愛染は微笑みを浮かべ、お玉の手を取った。死が二人を分かつまで。この手を放したりはしない。
お玉ははにかんだ笑みを愛染に向けた。頬は薔薇色に染まり、瞳は輝いている。
教会の鐘が鳴る。祝福の鐘。歓喜が帝都の青空へと舞い上がる。
日本で初めてウエディングドレスで結婚式が挙げられたのは明治六年。ウエディングドレスが舶来品のため、どうしても高価になりがちで、西洋風の結婚式は大正時代に入っても未だ珍しかった、教会の周りは野次馬だらけだ。教会から出てきた二人を誰もが祝福した。
場所は移り、伯爵邸の庭園で模様された披露宴。
「食後酒はいかがですか?」
雪乃丞がワイングラスを掲げて訊いた。
愛染はお玉の腰を引き寄せると、輝かんばかりの笑みを浮かべる。
「蜜月のように甘い、ハニーワインを」
愛染はお玉を見つめながら答えた。手と手を握り合う。その手には輝く結婚指輪。
――吸血鬼に乾杯。
End