カフェは小粒でピリリと苦い ―2―
闇だ。深い闇。自分の手さえ見えない真っ暗闇。上下の感覚さえわからない。口が動かない、それどころか身体さえ動かない。私はどうしてしまったのだろう。
ミルクホールを出てから運転手を待っていたが、彼はなかなか戻って来なかった。仕方がない、歩いて帰ろう。そう思った時だった。突然、何者かに襲われた。
嗚呼、ここは天国なのだろうか? それとも地獄? まだ、ダメ。愛染様に伝えていない言葉がある。誰か、誰か助けて。お願い、愛染様に伝えて、お願い誰か、……神様!
(……ま、……さま)
声が聞こえる。途切れ途切れの小さな声だ。誰かが呼んでいるの? 誰、誰なの?
お玉は声のする方に手を伸ばそうと必死だ。自分の指が微かに動く感覚がした。
「……様、おたま……、お玉様、起きて下さい」
女性の声だ。はっきりと聞こえる。お玉を呼んでいる。
起きなくては、何としてでも起き上がらなくては……。
お玉の瞼が震え、目が開く。
――ここは何処だろう?
お玉は石畳の上で横になっていた。身体を動かすと、みぞうちに痛みが走る。
「うっ……」
苦痛の声が漏れた。
「ごめんあそばせ、強く殴り過ぎたみたい」
女がクスクス笑っている。お玉は声のした方角に視線を動かし、顔をしかめた。
女。――竹光子爵夫人、夢乃が艶やかな微笑みをたたえ、お玉を見下ろし微笑んでいたのだ。
「子爵夫人、どうして? ここは?」
お玉の頭が混乱する。何が起こっているのか、さっぱりわからない。ただ、夢乃は恐ろしい女だという事はわかっている。以前、お玉を手籠めにしようとしたことがある。お玉は着物が肌蹴ていない事を確認すると、ほっと胸をなでおろした。
「ここは教会よ」
夢乃がうす笑いを浮かべながら答えた。
「教会?」
「そうよ。お玉様にこれほど似合いの場所はありませんわね。だって吸血鬼の女なのですもの」
夢乃が仰け反って大きな声で笑った。教会に響く狂女のけたたましい笑い声。
お玉の背筋に冷たい物が流れ落ちた。逃げなくては! 素早く視線を教会の出口に走らせた。
「無理よ」
「え?」
「逃げようとしたって無理よ。出口は私の間夫が見張っているの。貴女は吸血鬼としてこの教会で処刑されるのよ。素敵でしょ」
恍惚とした微笑みを浮かべる夢乃。
「……私は吸血鬼ではありません」
「あらあら、嫌な子ね。白を切るだなんて」
夢乃は着物の袖口で口元を隠してコロコロと笑う。一切お玉のいう事を聞く気がないのだ。このままでは本当に吸血鬼として処刑されてしまう。
お玉は不思議だった。出会った時から夢乃の目には狂気と殺意が宿っていた。彼女に憎まれる覚えはない。何が彼女を駆り立てているのだろう。
「夢乃さん。なぜ貴方はこんなにも私を憎むのですか」
お玉の頬に平手が飛ぶ。頬を打たれた音が教会にこだました。
「何故だと、愚かな小娘が!! 平松伯爵様は私のモノなんだよ、私の男なんだよ!」
夢乃が金切り声をあげた。
「愛染様は誰のモノでもありません」
「黙れ、この小娘! お前のような聖女ぶった小娘には虫唾が走るんだよ! 可憐なフリをして聖女ぶって、平松伯爵の愛人とはっ、恐れ入ったね。……その耳かっぽじって良くお聞き」
夢乃はお玉の胸倉をつかむと、恐ろしい形相で凄んだ。
「平松伯爵と私は何度も肌を合わせた関係なのよ」
夢乃が真っ赤な唇を閉じると、お玉の胸倉を離して勝ち誇ったような満面の微笑みを浮かべた。
お玉はみぞうちが蹴られたような衝撃を受けた。頭から血の気が引いていく。愛染と夢乃の裸身が絡み合った幻影が見えてくる。
お玉は幻影を振り払うように、勢いよく頭を振った。
「……嘘です」
お玉の舌がもつれ、上手く喋れない。愛染と夢乃が肉体関係にあっただなんて、信じたくない。
「嘘なものかい。平松伯爵は女を喜ばせるのが上手いお方だわ」
夢乃が懐かしむように、うっとりとした表情を浮かべた。夢乃が愛染に抱かれたのは、何年も前の話だ。
夢乃がまだ芸妓だった頃、愛染と褥を共にした。肌を合わせたのは数回。お互い口も聞かなかった。愛染は夢乃の事を覚えていなかったが、夢乃はよく覚えていた。ずっと恋焦がれていた。彼のような存在を忘れろと言う方が無理なのだ。
縁あって竹光子爵の後妻に収まっても、その想いは捨てきることが出来なかった。それでも、今の地位と財産に満足していた夢乃は、その想いを心の中にしまっておくつもりだった。
――お玉が現れるまでは。
お玉を見る愛染の眼差しは、歓びに溢れている。それが何を意味するのかは、夢乃はすぐにわかった。彼はこの小娘を愛している。彼は私のモノなのに――。
「彼は誰にも渡さない。だから、消えてちょうだい」
言っている事が滅茶苦茶だ。夢乃は狂っている。
「貴女が居なくなったら、私が平松伯爵様をお慰めしてあげるから。安心して」
悠然と笑う夢乃に、お玉は怒りが込み上げてきた。夢乃は竹光子爵の妻だ。さらに竹光子爵を裏切り、浮気をして、男から男へと渡り歩いている。夢乃は自分しか愛していない。我がままで満足ということを知らない。そんな人に愛染様を渡してなるものか!
「愛染様は、貴女に見向きもしないわ」
攻撃的な言葉が口を突いた。
「どんなに待っても、例え私が消えても、愛染様は貴方には目も触れない」
お玉は声を張り上げた。夢乃の顔が一瞬、青ざめてからみるみるうちに赤みを増した。
反撃が来る。と身構えたお玉だったが、夢乃は大きく深呼吸をして爆発的な怒りを収めた。
「小娘、自分がどういう立場に居るのか考えてから喋るんだね」
夢乃は口元をゆがめた。
「命乞いをしたら、許してあげるわ」
許すわけがない。そんなことお玉にはわかりきっていた。命乞いをしても、夢乃が喜ぶだけだ。お玉はまっすぐ夢乃を見つめ返した。
「強情な小娘が! 夜まで待とうと思ったがしゃらくさい。とっとと始末しておしまい」
夢乃が叫ぶと、何者がお玉を後ろから羽交い締めした。後ろにも人が居たのにまったく気が付かなかったお玉は、心臓が止まるほど驚いた。
お玉は首を回して、背後に居る人物の顔を見た。そして、お玉は愕然とした。
そこに居たのは伯爵邸お抱えの庭師だった。
※
ミルクホール。
愛染の前に現われた運転手は、見るも痛々しい姿だ。
「愛染様、申し訳ございません」
愛染の前で膝を折るように崩れ落ちた運転手は、そのまま深々と頭を下げた。彼は体中が痣だらけで、服もボロボロだ。
「油断しました……、庭師です。庭師がいきなり私の後頭部を殴りつけたのです」
「庭師が……」
愛染は苦々しく呟いた。やはり使用人の中に犯人が居たのだ。
「一人ではありませんでした。他に少なくとも二人……」
数人から暴行を受けた運転手は気を失い、人通りの少ない道端に転がされたのだ。意識が戻った後は、這いずるようにミルクホールに帰ってきたのだった。
運転手の言葉を信じるなら、お玉は庭師に連れ去られたという事になる。
お玉はいったいどこへ連れ去られたのだ? 身代金を要求するつもりなのか? 無事なのだろうか?
「伯爵様!」
蝶子が鋭い声で愛染を呼んだ。片手を耳に当て、何かを聞き取ろうとしている。
「何か、聞こえませんか?」
愛染も目を瞑り、耳を澄ました。
――……カラーン、カラーン。
鐘の音だ。教会の鐘。
愛染はミルクホールを飛び出していった。
※
「貴方が何故……」
お玉が信じられない様子で呟いた。
「どうしして!?」
お玉は庭師の腕を振りほどくと、彼に向かい合い詰問した。声は上ずり、悲痛な叫び声に聞こえる。
「お願い、教えて! どうしてこんなことをするの?」
「……初めて見た時、お前さんを聖母マリア様みたいな人じゃと思ったんだ」
椋の木の下で歌う姿は清らかで気高く。まさに聖女の様だった。
「だがっ!! あの吸血鬼がお前さんを堕落させた! 許せんかった!」
あの吸血鬼に裁きを降してやろうとした。最初の付け火は警告だった。自動車に細工したのは運を天に任せた。そして毒……。
「吸血鬼は生きてやがる、やはり杭を胸に打ち込まなければダメなんだ」
庭師の手には杭が握られている。お玉の頭に警告の鐘が鳴り響く。
「どうして、私を連れ去ったの?」
「決まっておる」
庭師は杭を持ち上げた。
「お前さんはすでに汚れ、堕落した吸血鬼の女。儂が神に代わって裁きを降す」
庭師がお玉に向かって杭を振り下ろした。お玉は俊敏に避けたが、二の腕を掴まれた。
「離して!」
お玉は蜻蛉玉の簪で庭師の手を挿した。
「ぐああ!」
庭師の手が離された瞬間にお玉はとっさに逃げる。
「このアマ!」
庭師は憤怒の形相でお玉を追いかける。このままでは直ぐに捕まってしまうだろう。
お玉は素早く視線を這わせる。
――鐘だ!
教会の鐘が目に入る。鐘を鳴らせば誰かが駆けつけてくれるかもしれない。
藁をも掴む気持ちで紐を引っ張る。
――カラーン、カラーン、カラーン、カラーン……。
鐘の音が響き渡る。
それに色を失くしたのは、子爵夫人だった。
「小娘が、何てことを!」
夢乃は素早く目配せすると、“人が来る前に、ずらがるよ”と叫んだ。
「何を言っているんでさ子爵夫人。儂らがずらがる必要がどこにるんですかい? 儂らは吸血鬼を成敗しているんですよ。世のため人のためってもんでさぁ」
庭師は自分の行いは善幸だと信じて疑っていない。夢乃は小さく舌打ちする。
「愚か者、わたくし達の姿を見られては拙いのよ」
夢乃はいても立ってもられないようすで出入り口を気にしている。早く逃げなくては人が来てしまう。今の子爵夫人という地位は血を吐く思いで築いた地位だ。監獄送りになってたまるか。
「悪を屠ることは儂の使命だ。夫人は黙っとれ!」
庭師はお玉を見据えたままがなり立てる。夢乃は苦々しく悪態をつくと、慌ただしく逃げ出した。
教会に残ったのは、お玉と庭師。
庭師がゆらりとお玉に近づく。お玉の胸が大きく上下する。庭師の持つ杭に視線を動かした。先の尖った頑丈そうな杭だ。
――殺される!
身を翻して逃げるも、着物の裾が邪魔で上手く走れない。お玉はあっという間に庭師に捕まった。
庭師はお玉に馬乗りになると、胸の前で十字を切った。
「神を冒涜する吸血鬼に裁きを――」
杭が高く掲げられ、庭師が恍惚に笑う。
――杭が振り下ろされる。
※
あの教会だ。愛染は鐘の鳴った方角に弾丸のように馬を走らせた。駿馬の蹄が力強く大地を蹴り上げ、風が肌を切る。
頼む、無事でいてくれ。不安で心臓が痛い。ひたすらお玉の無事を願う。銃に手を伸ばし、最悪の事態に備えた。
「お玉!!」
教会の扉を蹴り破り、銃を構えた愛染が駆け込んだ。
愛染の目に飛び込んできたのは、祭壇で胸に杭を打ち込まれているお玉の姿。
「――お玉あああぁ」
すべての音が消えた。
すべての色を失った。
銃が火を噴く。
弾は庭師の肩を貫通した。
庭師は打たれた反動で床に倒れ、肩から鮮血が零れ落ちる。
「…………」
すべてが終わった。
愛染は失ってしまったのだ。
――かけがえの無い人を。
愛染はお玉の元へおぼつかない足取りで近づいた。
お玉の胸には杭が刺さり、ピクリとも動かない。閉じられた双眸、青白い顔。
愛染は震える手でお玉の顔を包んだ。
……間に合わなかった。
人が太陽を求めるように、愛染はお玉を求めた。太陽を失っては人は生きて行けない。先の見えない絶望の暗闇で、人は生きて行けない。
愛染の青い瞳から涙が零れ落ちた。愛染はお玉を掬い起すと、しっかりと抱きしめた。愛染の涙がお玉の頬を濡らし、お玉のまつ毛が微かに動いた。
「……あい、ぜん、さま」
お玉の声に愛染は目を見開く。幻聴だろうか? 愛染は顔を上げるとお玉の顔に視線を落とした。
「……愛染様」
お玉が目を開き、黒い瞳が愛染を見つめ返している。お玉は生きている、生きていたのだ。
「お玉!」
愛染は信じられない思いだった。お玉の心臓には完全に杭が刺さっているように見えた。
お玉はゆっくりとした動作で着物の合わせから、銀色のペンダントを取り出した。ペンダントにはへこんだ跡がある。
杭はペンダントに刺さり、お玉は無傷だった。
「これは?」
愛染はペンダントを手に取った。壊れたペンダントには“Mon fils le precieux”という文字が読み取れた。
「Mon fils le precieux(最愛の息子)」