カフェは小粒でピリリと苦い ―1―
カラン、カランとミルクホールのドアベルが鳴った。軽やかな断髪、涼やかな洋装姿にフリル付きのエプロンをつけた蝶子が振り返り、来客に向かって暖かい微笑みを浮かべる。
「お玉さん、お久しぶりね」
「お久しぶりです、蝶子さん」
お玉は蝶子に勧められるまま、籐椅子に座り、うなじにかいた汗をハンカチで拭いた。他の客、主に学生達も、手拭いで汗を拭いている。盛夏の昼下がりは、うだるように熱い。
「少しお痩せになったんじゃない?」
「ちょっと、暑気あたりで……」
お玉は俯いて小さな声で答えた。痩せたのは暑気あたりではない。扇風機まである伯爵邸での生活は快適で、食欲も十分あるのだ。痩せたのは愛染の激しいまでの欲望のせいだ。今朝だってなかなか放してくれなかった。思い返すと肌が紅く染まるのを感じた。お玉は暑さのせいで頬が紅くなったのだと、蝶子が勘違いしてくれることを願った。
「まあ、大丈夫なの? 和服は暑苦しいものね。特に帯の辺りなんて汗がびっしょりになっちゃいますものね。
その点、洋装は軽くて涼やかで夏にはもってこいの服装だわ。耳隠しも日本髪を結っていた頃に比べて断然楽ですもの。洗ってもすぐ乾きますし」
お玉は蝶子の洋装を羨ましく感じた。お玉が肌も露わな洋装を着ることは愛染が許さないだろう。
お玉はアールデコ調の水玉模様の青い絽の着物に、麻の白い帯を締めている。髪は束髪を結い、瑠璃色の蜻蛉玉の簪を挿していた。うって変わって蝶子は、美容院帰りのすっきりとした断髪。ひざ丈のワンピースは涼やかな水色。その上に白いエプロンを着けている。
「早く、涼しくなって欲しいものね」
蝶子はミルクたっぷりの“冷やし珈琲”をお玉に出した。氷がカランと涼やかに鳴る。
「かき氷があったらよかったのだけど、午前中に売り切れてしまったの……。今、パンを焼くわ。それ以上痩せたらダメよ」
「ありがとうございます」
蝶子が傍を離れると、お玉は袂から屋根裏部屋で見つけたペンダントを取り出した。ペンダントに彫られた文字を指でなぞる。
ミルクホールに来た理由。それは蝶子にこの文字を翻訳してもらいたいからだ。女学校では外国語も習うので、女学生だった蝶子なら読めるのではないかと思ったのだ。
愛染にペンダントを見せる前に、刻まれた言葉をどうしても知りたかったのだ。
このペンダントの文字が愛染に関わることなのか、まったく関係ない事なのか。もしかしたら、愛染の心の闇を癒してくれるかもしれない。
何もわからないまま、愛染に見せるのは不安だった。
「あら、奇麗なペンダントね」
蝶子が香ばしい香りのパンをテーブルに置いた。
「蝶子さん、これ、読めます?」
蝶子はお玉からペンダントを受け取ると、じっくり眺めた。
「ごめんなさい。情けないお話だけど外国語は苦手なの。女学生時代でも“丙”だったし」
成績表は甲乙丙丁で付けられる。甲が最高評価で丁は最低評価。
「この字は仏蘭西語みたいだから、伯爵様に聞いたらいいわ」
「それが……」
「訳ありなのね」
「はい」
「だったら、伯爵邸お抱えシェフの相馬春風さんに聞いたらいいわ。彼も仏蘭西に留学して料理を学んだそうよ」
「まあ! そうだったんですか!?」
お玉の顔が明るく輝く。ペンダントを首にかけて着物の中に仕舞った。
「さあさあ、冷やし珈琲とパンを食べて頂戴」
「はい、頂きます」
お玉は急いで帰りたかった。早くシェフにこのペンダントの文字を翻訳してもらいたかったのだ。お玉は蝶子が呆れるほど口いっぱいにパンを頬張ると良く冷えた珈琲で流し込んだ。
「蝶子さん、ありがとうございました」
「また、いらっしゃいな」
「はい!」
お玉はミルクホールから出ると、照りつく様な日差しを避けるため白日傘を差した。
「あら?」
外で待っているはずの運転手がいない。運転手はやっと骨折も治り、復帰したばかり。何度誘っても“自分は外で待っている”と言ってミルクホールには入りたがらなかったのだ。
「……どちらにいらしたのかしら? 脚がまた痛み出したのかしら?」
お玉はキョロキョロと辺りを見渡した。馬車や人力車、人々が足早に通り過ぎる。
「困ったわ」
一人で歩いて帰ってもいいのだが、それでは運転手の面目がつぶれてしまう。それどころか愛染様に大目玉を喰らうだろう。
お玉はしばらく自動車の近くで待つことにしたのだった。
※
「伯爵様、醸造所の火災は、やはり放火だったそうです」
執事の報せに、愛染は眉をしかめた。自動車事故も自動車に事故をおこすような細工が施されていたのだった。
さらには、葡萄酒に毒が混入していたのだ。
愛染は金魚が腹を見せて浮く、金魚鉢を見据えた。
葡萄酒の試飲の時、おかしな味に気づいてすぐに吐き出した。当初は腐っているのかと思ったが、まさかと思いつつもためしに葡萄酒を金魚鉢に入れてみたら、案の定……。
――いったい誰が?
伯爵で実業家でもある愛染は、知らぬ間に怒りを買い、命を狙われることは間々(まま)ある。立場上仕方のない事だと腹をくくっているのだが、昨今、立て続けに起こった事件に安閑としていられない。
付け火に、自動車の細工、さらには毒ワイン。確実に命を狙われている。
恐ろしいのは、犯人が伯爵邸まで忍び込んだ可能性が高い。
しかし、忍び込んだ形跡がないのだ。
(使用人の仕業か?)
身内を疑うのは嫌な気分だ。しかし可能性がある限り、目を光らせる必要がある。
執事、家政婦、シェフ、庭師、運転手。誰だ?
毒を混入させ易いのはシェフだ。自動車に細工をし易いのは運転手だ。しかし、運転手は自動車事故を起こし自らも怪我を負った。疑いを避けるための自演か? こうなってくると疑心暗鬼に陥り、すべてが疑わしく感じられる。
(誰かが私を殺そうとしている)
愛染は苦々しい物が込み上げてきた。愛染はお玉と出会う前だったら、屋敷内で事件が起こった時点で全員を解雇して、新しい人間を雇っていただろう。
しかし、お玉に出会ったことで愛染の凍った心はお玉に出会ったことで少しずつ溶け始めていたのだ。
孤独で居る方が、傷つかない事もある。しかし、お玉を手放す気にはなれない。一度噛みしめてしまった幸せは、易々と手放せない。いや、手放すつもりなど毛頭ない。
見えない危険が迫っている今、お玉にも警備を怠るなと通告しておく必要がある。
「お玉は?」
「運転手を伴い、蝶子様のミルクホールにお出かけになられました」
という事は、お玉は運転手と二人っきりになるという事だ。運転手は犯人と目論んだ一人だ。
「――っ! すぐに馬の用意をしろ!」
背筋を悪寒が走った。嫌な予感がする。愛染は執務机の抽斗を開けた。そこには護身用の銃(※この時代、護身のため拳銃を所持することができた)。
――無事でいてくれ。
※
「お玉は何処に行ったのだ!?」
愛染の叫び声がミルクホールに響いた。
ミルクホールまで馬を飛ばしてきた愛染は、蝶子からお玉はすでに伯爵邸に帰ったと告げられた。
「伯爵様、行き違いになれたのではないでしょうか?」
蝶子の顔も不安で曇っている。血相を変えた愛染の様子に、ただ事ではないと肌で感じとったのだ。
「それはありえん!!」
愛染が鋭く叫んだ。
「お玉が帰ったと言うのなら、ミルクホールの前に伯爵家の自家用車が停まったままになっているのは何故だ」
愛染がミルクホールに到着し、伯爵家の自家用車を見た時は一瞬安堵したほどだ。しかし、ミルクホールの中にはお玉も運転手の姿もない。蝶子は随分前に帰ったと言うではないか。
――お玉が消えた。
時はすでに夕刻。早く見つけないと日が暮れてしまう。
早く見つけないと――。
お玉を未来永劫失ってしまうのではないだろうか。絶望の暗闇が愛染を襲う。恐ろしくてたまらない。お玉を失えば自分は生きていけないだろう。愛染は震える手で目元を覆った。
「どこを探したらいいんだ?」
愛染が唸った時、カランカランとドアベルの音が聞こえた。音に釣られるように顔を上げると、そこには見知った顔を見つけた。愛染の目が驚愕に見開かれる。
「お前が、何故ここに!?」