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デザートは甘美な背徳の味 ―2―

 

 愛染はお玉をひたすら甘やかした。

 お玉の喜ぶ顔を見たいがため、さらには梅沢男爵への牽制のため、様々な所へ連れまわした。

 帝国劇場はもちろん、浅草オペラ、凌雲閣、寄席から活動写真(キネマ)、はたまた動物園から甘味所。女性が好みそうな所へ連れて行き、お玉にせがまれるまま大っ嫌いな写真まで撮った。

 伯爵邸のお抱え運転手は足を骨折しているため、愛染たちの移動はもっぱらタクシーを使った。時には相乗り馬車や市街電車を利用した。

 誰の目から見ても、二人の仲は睦まじく、さらには愛染の美貌は人目を引くものだった。

 二人は瞬く間に時の人となっていく。


「あの“吸血鬼伯爵”が日中に出歩いている!!」と驚く者。


「あの葡萄酒が主食の伯爵が、木村屋のあんぱんを食べている!」と面白がる者。


「伯爵様って、なんて美しい男性なのかしら」とため息をつく者。


 そして注目は、愛染の傍らに寄り添う、お玉に向けられていった。


「あの女性は誰?」

「うらやましい人ね」

「あれ位の容姿なら、私の方が上だわ」

「伯爵様とどういった関係かしら?」

「あら、見てごらんなさいよ。伯爵様の顔」

「伯爵様の顔?」

「あの女性を見つめる熱いまなざし」

「二人は恋人同士ね!」

「まったく、あんな小娘に“吸血鬼伯爵”が入れ込んでいるなんてがっかりだわ」

「悪魔的な“吸血鬼伯爵”は小娘に魂を取られたのね」

「つまらないわ」

「吸血鬼伯爵も所詮はまやかし。只の一人の男ってことよ」


 口々に囁かれる噂話。人の口には垣根は立てられないというが、噂話はあっという間に広まった。


 ※


 帝都が夏の暑さに包まれる頃、ビヤホールは活気に溢れていた。

 明治時代、ほとんど飲まれなかった麦酒(ビール)だが、大正に入ると、ビヤホールやカフェー(※大正時代のカフェーは水商売のようなサービスを行っていた)で飲まれるようになり、日本の夏の涼味となっていった。

 ヴァイオリンとピアノが奏でるジャズに乗って、肌も(あら)わなモダンガールとモダンボーイがダンスを踊り、ビリヤードに興じる紳士たち。部屋に充満する煙草(タバコ)の煙。活気に溢れる夏の風物詩だ。


「愛染、お玉ちゃん。はいビール」


 雪乃丞は泡が零れんばかりの麦酒(ビール)を愛染とお玉に渡した。


「今日は私のおごりだ。好きなだけ飲んでくれ」

「当たり前だ」


 愛染は麦酒(ビール)を一気に喉に流し込んだ。

 今日はお玉と二人っきりでのんびりするはずだった。そこへ突然やってきた雪乃丞が半ば強引に二人をビヤホールに誘ったのだった。


「ほら、お玉ちゃんも飲んでごらん」 

「……でも」

「ビールは嫌い?」

「いいえ、飲んだことが無くて」

「なら飲むべきだよ、何事も経験さ。経験が人を成長させるんだ。ささっ、ググッと」


 お玉は雪乃丞の勧めるまま、ジョッキの縁に口をつけた。苦い、と感じた。しかし、その喉越しの爽快感は癖になりそうだ。


「葡萄酒とは全然違いますね」

「そうだな」


 愛染は笑いながら、お玉の唇に髭のようについた泡を親指で拭った。そのかいがいしさに、雪乃丞は目を細めた。


「今さらだけど、乾杯しない?」

「何に?」


 愛染はお玉の腰を抱き寄せながら、雪乃丞に訊いた。


「もちろん、お玉ちゃんが素敵な淑女(レディ)になったことに、乾杯!」


 雪乃丞はグラスを高々と掲げると、ビールを喉に流し込んだ。


「くうっ! やっぱり夏はビールがうまいね」


 程よく酔いが回った頃、愛染と雪乃丞はビリヤードを楽しんでいた。

 ビリヤード台の上に屈む愛染の姿は、キネマに出てくる俳優よりかっこいいとお玉は惚れ惚れと見つめていた。愛染は上着を脱ぎ、ベストから懐中時計のチェーンが覗き、袖をめくり真剣な表情で構えている。

 雪乃丞は放蕩者らしく、数人のモダンガールを(はべ)らせている。

 ゆったりと、満ち足りた時間が過ぎていく。そんな折、ひとりの酔っ払いが絡んできたのだ。


「おやおや、吸血鬼でもビールをお飲みになるのですね」


 そう言って下卑た笑いを浮かべる酔っ払い。

 絡み酒とは厄介なものだ。普段は気弱な男が酒に飲まれ、虚勢を張るのだから堪ったものじゃない。酔いが醒めて後悔するのは自身だというのに。

 愛染たちは徹底的に無視することにした。それが酔っ払いの面目を潰し、周りから失笑を買った。酔っ払いの頭に一気に血が上る。


「お高く留まりやがって、洋妾(ラシャメン)の息子が!」


 その瞬間、酔っ払いの顔に麦酒(ビール)がバシャッとかかった。


「愛染様を愚弄する人は、私が許しません!」


 お玉が酔っ払いの顔に向かって、麦酒(ビール)をぶちまけたのだ。


「何しやがるこの女!!」


 酔っ払いの顔が憤怒の色に染まる。それでもお玉は逃げることなく振袖をまくり上げ、細くて白い拳で酔っ払いに殴りかかろうとしたのだ。

 さすがに愛染がソレを止めた。後ろから愛染に羽交い絞めさされたお玉は、華奢な拳を振り回している。


「愛染様、離してください! あの男を一発殴らせてください!!」

「……お前、酔っているのか?」


 愛染たちがビリヤードの興じている間、お玉はちびりちびりと麦酒(ビール)を飲んでいたのだ。心なしか目がすわっている。


「おやおや、我らの子猫ちゃんは実は大虎だったのか」


 雪乃丞が横からおひゃらかす。野次馬も集まってきた。


「お玉、つまらん男なんぞ放っておけ」

「何故でございます。愛染様が目の前で侮辱されて、どうして許せましょうか!」


 お玉は愛染に抑えつけられながらも酔っ払いに噛みつこうとする。酔っ払いは小柄な小娘に麦酒(ビール)を浴びせられて怒り心頭だ。


「黙れ、このあばずれ!! お前は吸血鬼の糧となり、仲間になった女吸血鬼だ。二人とも杭を打ってしまえ」

「んまっ、なんて事を! 愛染様は吸血鬼なんかじゃないわ! ほんのちょっと人見知りなだけよ! それを理由に杭を打ち込む道理はありませんわ。第一、そんな迷信を信じる人がこの時代に未だいたとは驚きですわ!」


 お玉の言い分に雪乃丞は思わず麦酒(ビール)を噴いてしまった。ほんのちょっと人見知りだって? 笑いが止まらない。お腹がよじれそうだ。


「愛染様を侮辱するのは、この私が許しません!」


 お玉が言い切った。その威勢に酔っ払いは及び腰になる。しかし、小娘に言い包められたとあっては男の沽券に係わる。


「はっ! 今どきの女は何たる図々しさ! 男を立てる事を忘れ、男のように髪を切り、男の行くような場所にみだらな恰好で足しげく通うとは、なんと情けない時代になったのもだ」


 酔っ払いの言葉に反応したのは、周りのモダンガールたちだった。


「ちょっと、今の言葉、聞き捨てならないわ」

「みだらな恰好って、洋装のことかしら?」

「スカートが短くて喜んでいるのは殿方たちじゃない」


 モダンガールたちが次々とお玉に加勢していく。


「青鞜(※女性による女性の雑誌)はこう始まるわ。原始女性は太陽であった」

「そうよ、太陽神、天照大御神は女性。あんただって女の腹から生まれてきたんだよ」

「傲慢で暴力的な男性にはこりごりよ。皆さん、“女の平和”を掲げてみませんこと」


 女の平和。戦争に悲しんだ女性たちが団結してセックス・ストライキを起こすという古代ギリシャの戯曲作家、アリストパネスによるディオニューシア祭で演じられた喜劇だ。


「それは困る」


 と、素直な感想を漏らしたのは雪乃丞。さすがに全女性を敵に回すのは可哀想だと思い、仲裁するために声を張り上げた。


「皆々様、私は泡を喰わされるより、泡を飲むほうが好みであります。男性諸君の夜の平和のためにも、酒の席という事で全てを水に流して楽しもうじゃありませんか」


 ビヤホールにどっと笑いが上がった。雪乃丞の合図でジャズが陽気に流れ始め、人々が麦酒(ビール)を愉快にあおる。

 だが酔っ払いは引くに引けなくなっていた。女どもに好き勝手言われて、尻尾を巻いて逃げるわけにはいかない。

 酔っ払いがお玉に向かって拳を振り上げる。


「はすっぱめ! ぶん殴ってやる!」


 それは一瞬の出来事だった。

 愛染はお玉を背中に庇うと、ビリヤードの杖が風を斬り、酔っ払いの喉仏で寸止めした。


「お玉を殴ると言ったか?」


 背筋が凍りそうな声だ。張りつめた空気が痛い。時を止めたような静けさの中、紫煙だけがくゆる。

 滝のような脂汗を流す酔っ払いは、蛇に睨まれた蛙だ。


「お玉に指一本でも触れてみろ、お前の命はないと思え」


 瑠璃色の瞳が剣呑に光る。酔っ払いの喉仏が大きく上下した。


「――去れ」


 ビリヤードの杖が酔っ払いの喉元から退かれ、酔っ払い泡を食って逃げてしまった。

 酔った男が逃げ出した途端、緊張の糸が切れたビヤホールはざわつきはじめる。


「……お玉」


 喧騒(けんそう)のなか愛染は子供でも叱るようにお玉を睨んだ。


「どうして、お前はそう落ち着きがないんだ」

「ンまあ! お言葉ですけど、愛染様! 大切なお方を目の前で愚弄されて黙っていられるわけがありません! 世界中を敵に回しても、私は愛染様をお守りしたいのです」


 まくし立てるお玉の威勢に、愛染は目を瞬き絶句してしまった。逆に説教されるとは思いもよらなかったのだ。


「女は強いね」


 と、雪乃丞が瞠目する愛染に小さく耳打ちした。


「ああ、まったくだ」


 愛染の魂は喜びに震えていた。早くお玉と二人きりになりたい。腕の中に閉じ込めておきたい。例え、お玉が嫌がっても、手放すことは出来ない。このままお玉を連れて帰ろうとした時、雪乃丞が肩を汲んできた。


「私に今日の相手が見つかるまで、お玉ちゃんとしっぽりなんてさせないぞ」


 雪乃丞は愛染に向かって片目を瞑ると、大きく息を吸って声を張った。


「さあさあ、皆さん。仕切り直して乾杯の音頭を取らせて頂きます。さあ皆さんビールを持って。――女性に完敗(カンパイ)!」


 軽快にグラスがぶつかる音がビヤホールに響いた。陽気なジャズがながれ、ダンスのステップを踏む男女、麦酒(ビール)と煙草の匂い。

 人々の賑わいのなか、愛染はお玉の腰に腕を回し、麦酒(ビール)で喉を潤した。

 愛染の心は完全にお玉に囚われてしまったのだった。 



 ビヤホールの一角。

 柱の陰に隠れるようにして、仲睦まじい二人を見つめる不穏な人物が居た。

 竹光子爵夫人、夢乃だ。真っ赤な紅を引いた口唇が禍々しく曲げられる。


 ――憎い、憎い、あのオンナが憎い。


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