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野良猫と吸血鬼のアペリティフ ―1―

   『葡萄酒』


 それは、蠱惑的な紅玉(ルビー)


 それは、魅惑の香り。


 美貌のギリシャ神、ディオニュソス。数多(あまた)の女性を虜にした彼が作り出した、陶酔をもたらす美酒。バビロニアの王からローマ皇帝まで愛飲し、キリストの血とさえ言われた。

 葡萄酒を日本人で初めて口にしたのは、織田信長だと伝えられる。時代が明治に入ると、深紅の葡萄酒は“血の色”と恐れられた。葡萄酒を飲むと、“吸血鬼”になると、荒唐無稽(こうとうむけい)な噂が流れるようになった。


 “吸血鬼”それは、西洋の官能的で背徳的な耽美なる鬼。




 時は浪漫(ロマン)の華咲く、大正時代。煉瓦造りの瀟洒(しょうしゃ)な洋館が並び、人力車が走る、西洋と東洋が混じり合う、お洒落で華やかな時代。それでいて、どこか退廃的で虚無的な時代。




「松平伯爵様。食前酒(アペリティフ)は、いかがなされますか?」


 タキシード姿の給仕人が聞いた。

 松平伯爵こと、松平愛染(まつひらあいぜん)は、ぞっとるほど美しい顔をわずかに動かし、給仕人を睨んだ。

 日本人と仏蘭西(フランス)人の混血児である愛染は、冷たく整った容貌の美男子だ。こげ茶色の絹のような髪、深い藍色の瞳。黒いタキシードが、すらっとした長身によく似合っている。


「シャンパーニュを」


 愛染のかすれた低い声を聞いた給仕人は、深く一礼すると、逃げるように、裏へ引っ込んだ。

 愛染は、そんな給仕人の態度を嫌というほど知っている。いくら鎖国が解け、自由恋愛を謡う時代でも、それは口先だけのこと。珍しい混血児は、奇異の瞳に晒されるのだ。


「うちの従僕を許してやってくれ」


 愛染は、テーブルの上座に座る、竹光子爵に目を向けた。

 竹光子爵は、紋付袴を着込み、鼻の下に立派な白髭を蓄えた威風堂々とした老人だ。その横には、親子ほど歳の離れた子爵婦人、夢乃が座っている。夢乃は、日本髪を結い、西陣織の艶やかで美しい着物をまとい、あだっぽく笑っている。その瞳は、愛染の秀麗な横顔を貪欲に見つめていた。

 竹光子爵邸の生活は、まさに和洋折衷(わようせっちゅう)である。洋風の生活を取り入れた屋敷に、靴を脱いで上がり、畳を敷いた和室に豪華な寝台を置き、その上で眠る。普段着は和服を着て、時折、洋装。食事も椅子に腰掛け、和食中心でたまに洋食を頂く。


「お父様、わたくしも“シャンパーニュ”を頂きたいわ」


 甘えた声を出したのは、竹光子爵の前妻が産んだ長女、彰子(あきらこ)舶来品(はくらいひん)のドレスに身を包み、ぬばたまの黒髪を、複雑に結い上げ、大きなビロードのリボンで括ってある。幼さの残る顔には念入りに化粧が施してあった。時々、愛染を盗み見しては、頬を赤らめている。

 愛染は乳母日傘(おんばひがさ)で育った我が侭な令嬢を見ただけでも、虫唾が走る。


「彰子、お前にはまだ早い」


 竹光子爵が、目尻にシワを寄せて、優しく彰子をたしなめた。彰子は、頬を膨らませ、可愛らしく拗ねて見せる。おそらく鏡の前で何時間も練習したのだろう。

 その白々しい遣り取りに、愛染は口の端を上げて、冷笑を浮かべた。人嫌いの愛染が、竹光子爵の晩餐会にわざわざ足を運んだのは、他ならぬ葡萄酒のため。巨大な貿易業を営む竹光子爵から、素晴らしい葡萄酒が手に入ったと、連絡を受けた愛染は、舌鼓を打ちながら竹光邸に赴いたのだ。

 しかし、そこに儲けられていたのは、お見合いの席だった。竹光子爵は、強大な権力を持つ松平伯爵と、縁続きになりたいのだ。


(この強欲爺)


 愛染は、葡萄酒を飲んだら、彰子を袖にして、早々に自宅に帰るつもりだった。結婚なんて人生の墓場だ。

 ほどなくして、細身のフルートグラスに入った、シャンパーニュが愛染たちの前に置かれた。シャンデリアの光に照らされた黄金色(こんじきいろ)のシャンパーニュは、エトワール(星)の瞬きのように輝き、真珠のネックレスのような繊細な気泡がグラスの底から立ち上がっている。


「それでは、乾杯」


 竹光子爵の乾杯の音頭に、愛染はシャンパーニュを軽く持ち上げた。シャンパーニュをゆっくりと味わう至福の時だ。ひとくち口に含むと、繊細な泡が舌を刺激する。華やかさと気品にあふれた味だ。


「どうだい、仏蘭西から取り寄せたんだ」


 シャンパーニュを一気にあおった竹光子爵が、満面の笑みを浮かべて聞いてきた。


「素晴らしい」


 愛染は素直な感想を述べ、再びシャンパーニュを口にする。


「ハッハッハ、松平伯爵のお墨付きだ。さあ、お前も飲め!」


 竹光子爵は、夢乃に飲むように促した。しかし、夢乃はあだっぽく笑うだけで、シャンパーニュに手を付けようとしない。


「たしか、松平伯爵様は、仏蘭西に留学されていらしたのでしたわよね」


 夢乃が言った。


「その通りだ。松平伯爵は、仏蘭西から持ち帰った技術で、日本にはまだ珍しい葡萄酒の醸造所を作り上げたお方だ。葡萄畑からワイン製造、販売のワイナリーのオーナーだ。その経営手腕にはワシでさえ舌を巻く。ハッハッハ」


 答えたのは竹光子爵だった。高らかに笑う竹光子爵は、明らかに愛染にゴマをすっている。

 愛染は空々しい美辞麗句に辟易(へきえき)していた。聞こえないふりをして、ゆっくりとシャンパーニュを味わう。無視された竹光子爵は気を悪くする事もなく、シャンパーニュのお代わりを催促していた。


「おや、夢乃。どうした、飲まないのか?」


 一向に減る事のない夢乃のシャンパーニュを見ながら、竹光子爵は不思議そうに聞いた。


「お義母様は“吸血鬼”になるのが怖いのよ」


 彰子が口を尖らせて言った。


「まあ、彰子さん!」

「あら、そうじゃない。葡萄酒を飲むと西洋の鬼“吸血鬼”になるって、皆さん言っておられるわ。シャンパーニュも葡萄酒の一種でしょ」

「嫌だわ、彰子さん。そんな噂に惑わされてはいけませんわ。それに御本人を前に、失礼ですよ」


 夢乃がそわそわと、うろたえている。それに気を良くしたのが、彰子。彰子は夢乃をどう困らせてやるか、日夜考えていたのだ。

 彰子は意地の悪い笑みを浮かべた。


「あら、美貌の“吸血鬼伯爵”が来られるって、首まで無鉛白粉を(はた)いておられたのは、どなたでした? それに、いつもよりお着物の襟ぐりが広く深く開いておりますわよ。とても良く、首筋が見えますもの。舶来品の高価な香水までつけて、そんなに吸血鬼伯爵に襲われたかったのですか?」


 彰子がしたり顔で笑った。図星を突かれた夢乃の顔が、恥辱でみるみる赤く染まる。


「まあ、まあ、何てことを。本当にこの子ったら、奇抜な本ばかり読んで、変に想像力が付いてしまったのね。松平伯爵様、彰子さんが、失礼を申し上げて、誠に申し訳ございせん」


 夢乃は愛染に向き直り、困ったように微笑みながら謝った。愛染は冷淡な視線で2人を見据える。その冷ややかな視線に夢乃も彰子も、ぞくぞくと震えを感じた。

 人間の生き血を吸う “吸血鬼”。

その噂は何時の頃からか、まことしやかに囁かれるようになった。ぞっとするほど容姿端麗であり、鮮血のように紅い葡萄酒。ワイナリーのオーナーでもある伯爵を、(ちまた)の人々は“吸血鬼伯爵”とあだなし、恐怖に怯えている。

 愛染にしてみれば、根拠のない荒唐無稽な噂話に、嫌気がさしていた。


「松平伯爵様、本当ですの、乙女の生き血を吸うというのは?」


 彰子が、愛染をうっとりと眺めながら聞いた。


「彰子! いい加減にしなさい」


 彰子の慇懃無礼(いんぎんぶれい)な言葉に、娘を溺愛している竹光子爵の怒声が重なった。彰子は父親の雷に一瞬身を縮ましたものの、客前で叱られた恥と、怒りに顔を赤く染めた。その怒りは継母(ままはは)である、夢乃に向けられる。


「お義母様は、どうしてシャンパーニュを飲まないの? 吸血鬼になるのが怖いからでしょ!」

「馬鹿をおっしゃらなで!」

「じゃあ、今すぐ飲んで下さらない?」


 つんざくような声で、彰子言うと、夢乃は我が侭な継子にため息を付いた。夢乃は竹光子爵が味方に付いたことで余裕が生じ、落ち着いた態度に戻っていた。


「後で言おうと思っていたのですが、いたし方ありませんね」


 そう言うと、夢乃は竹光子爵に向き直った。


「あなた、わたくし、やや子が出来ました」


 夢乃が恥じらいながら頬を赤らめて言うと、竹光子爵は目を皿のようにして驚いた。


「やや子!? なんと、聞き間違いではないだろうな。赤子が出来たと申すのか」

「はい。ですから、わたくしはお酒を控えているんですの」


 竹光伯爵は、満面の笑みを浮かべて、夢乃の手を労わる様に包んだ。夢乃は恥ずかしそうに、眼を伏せた。


「なんと、この歳で、新たな子を授かるとは。松平伯爵、騒がせてしまって申し訳ありません。しかし、コレが喜ばずにはおられましょうか。さあ、もう一度乾杯しよう」


 竹光子爵はフルートグラスを握り、真っ白な八字髭をいじりながら、にやにや笑っている。


「冗談じゃないわ、お父様、騙されちゃ駄目」


 彰子が勢いよく立ち上り、椅子が大きな音をたてて後ろに倒れた。


「いったい何の事です、彰子さん。行儀が悪ですわ」


 夢乃は柳眉を潜めて、彰子を見上げた。


「お腹の子は、お父様の子ではないわ、庭師と仲良くなって出来た子よ」


 衝撃の言葉に、竹光子爵は開いた口がふさがらない。夢乃がみるみる顔を赤らめる。図星なのか、潔白による怒りから来るものか、それは分からなかった。


「まあ、なんて事を!」

「私見たのよ、庭師とお義母様が――」

「彰子さん、なんてはしたない事を。いくら継母だからといって、そんな嘘を付いてまで、わたくしを陥れたいの」

「真実よ、わたくしは見たの、しかも庭師だけではないわ。さすがは娼妓上がりだわ、床上手でいらっしゃること」

「まあ、なんて事を! 母に向かって何て口を聞くのです!」

「貴女は、母じゃないもの、貴女はただの妾よ。そのお腹の子も、私の弟でも妹でもないわ」

「彰子さんは、やや子に嫉妬しているんだわ。父親の愛情を奪われると思って」

「あばずれ! よくもそんな口から出まかせを」

「いい加減になさいまし! これ以上わたくしを愚弄する事は許しませんよ」


 女同士が、客を前に罵り合うとは、見るに耐えない光景だ。愛染は苦々しくシャンパーニュを飲み干した。慎ましく、しとやかで凛とした“大和撫子”は大正デモクラシーの波に飲まれてしまったようだ。

 愛染は優雅な動作で、椅子から立ち上がった。


「松平伯爵?」


 愛染の突然の行動に慌てたのは、竹光子爵だ。不安そうな六つの瞳が愛染を見つめている。

 静かになった部屋を見渡し、愛染はゆっくりと口を開いた。


(いとま)させて頂く」

「お待ちください、我が家の女どもが無礼な態度を取ってしまって申し訳ない。お前たちは今すぐ部屋に下がりなさい」


 踵を返して帰ろうとする愛染に、泡を食った竹光子爵が必死に食い下がってきた。


「お父様! コレはわたくしの、お見合いでしょう。わたくしが居なくては意味がないのではなくって?」

「彰子、お前はもう黙っていなさい」


 竹光子爵が(いさ)めるものの、彰子は地団太を踏み、その場に留まった。

 愛染は、端整な顔に、ぞっとするほど冷酷な笑みを浮かべた。


「彰子殿。ご存知ですか。吸血鬼は、汚れなき生娘の血しか飲まないそうです。あなたの血は不味くて飲めたモノではないでしょうな。私も娶るなら、清らかな処女(おとめ)を選びますよ」

「ど、どういう意味です!」


 彰子は顔を真っ赤にして叫んだ。


「お分かりでしょう。私は貴女のような、はしたない我が侭娘を娶るつもりなど毛頭ない」

「ひ、酷いわ。あんまりだわ」


 愛染は冷淡に告げ、泣き叫ぶ彰子に背を向けて、竹光子爵邸を後にしたのだった。



 銀座煉瓦街。

 煉瓦作りのお洒落な洋館が立ち並び、アーク灯が夜の街を明るく照らす。その中をまだ珍しい黒塗りの高級自動車が走っていた。

 愛染は自動車の皮張りの後部座席に深く腰を下ろし、ベストの内ポケットから金の懐中時計を取り出した。短針が八時を指している。

 無駄な時間を過ごしてしまった。愛染は苛立だしく、白い手袋とシルクハットを脱ぐと、座席に放り投げた。


(何が吸血鬼だ)


 思い出すだけでも腹が立つ。愛染は幼い頃から日本人と仏蘭西人の混血児として、好奇と畏怖の瞳に晒されてきた。

 愛の逃避行に出奔した両親に捨てられ、爵位継承のためしぶしぶ引き取った祖父母からは気味が悪い、と存在を疎まれ、何処へ行っても愛染は異端児だった。彼は孤独の中で、もがき苦しんだ。

 そんな幼少期を過ごした彼は、すっかり捻くれてしまい。人嫌いで偏屈な大人に成長していたのだ。


(愛など、くだらん幻想だ。女で身を崩すなんて愚かな事だ)


 愛染は、愛を欠片(かけら)も信じていなかった。自分を捨てた両親を恨み、愛を恨み、自分を守るために、心が凍り付いていた。

 竹光子爵も陰では、妻に裏切られているではないか、お腹の赤子はおそらく間男(まおとこ)の子供だ、と愛染は冷笑を浮かべた。


(まったく、欝陶しい雨だ)


 愛染は自動車の窓に当たる雨粒にさえ苛立ちを感じた。数日前から降り続ける雨。街頭が寒々と光り、夜の町を暗澹(あんたん)と照らしている。

 こうした寒々しい夜は、暖かい柔肌が恋しくなる。人嫌いとは言え、立派な成人男性。希に花街を利用して、仄暗い行灯の揺らぎの中、無言で肌を交わす。

 運転手に進路変更の指示を出そうとした時、車がブレーキを軋らせ、急停止した。


「何事だ」

「申し訳ございません、人が――」

()いたのかっ!?」

「いえ、人が道路に倒れているのです。危うく轢くところでした」


 奇妙な感覚に襲われた愛染は、突発的に自動車から飛び降りた。泥水がズボンに跳ね、冷たい雨が顔に当たる。冷戦沈着な彼らしくない行動だ。


「松平伯爵様!?」


 運転手の慌てた声を無視して、愛染は倒れている女に歩み寄った。

 車の前に倒れている女は、薄汚れ、小柄で、まだ幼い少女のようにも見えた。無情にも雨に打たれ、まったく動く気配がしない。


(死んでいるのか?)


 愛染が女の手首を取り、脈を診た。


(生きている)


 しかし、このままにしておけば、降りしきる雨が女の体温を奪い、確実にお迎えが来るだろう。小汚い仔猫でも、一度拾ってしまったら再び捨てる事は出来ない。愛染は舌打ちすると、女を抱き上げた。


(――軽い)


 その女は驚くほど軽かった。のけ反った白く、細い喉。はだけた着物の胸元から、鎖骨がくっきりと浮かび上がっている。まともな食事を取っていない証拠だ。


「松平伯爵様」


 運転手がこうもり傘を広げて、愛染の上にかざした。


「放って置くわけにはいかんだろう。連れて帰る」


 愛染は、ずぶ濡れの女を抱えたまま、黒い自動車に乗り込んだ。




 ゴシック建築にフランス式庭園の豪華絢爛な松平伯爵邸。それはまるで西洋のお城(シャトー)。雨降る深い闇に浮ぶ“吸血鬼の館”だ。


「風呂の用意をしろ」


 愛染は帰宅するなり、大理石の玄関で主の帰宅を待っていた執事に指示を下した。

 ずぶ濡れの女を抱えて帰ってきた主に、一瞬虚をつかれた初老の執事だったが、そこはプロ。何も聞かず、素早く湯の用意に取り掛かった。

 愛染は女の帯をほどき、着物を解くと、猫足の浴槽につけた。暖かい湯が女の冷え切った身体を温める。

 愛染はシャツの袖を捲り上げ、貧相で小汚い仔猫を洗うように、女の身体から泥や垢を洗い落とした。女の身体は肋骨が浮かび上がり、鶏ガラのように痩せこけていた。今にも折れそうなほど細い腕には、火傷の跡、首には擦れたような切り傷、痣だらけの身体。


(虐待でも受けていたのだろうか)


 ふと浮かんだ疑問に、愛染は腹の底から怒りを覚えた。胸の奥がざわつく。この哀れな女を守りたい、守らなければならない。愛染の内に、沸々と庇護欲が生まれてきた。


(何を馬鹿な、見ず知らずの女だぞ)


 愛染は突飛な考えを打ち切るように、頭を振ると、女の身体を清潔な布で拭き、男性用の浴衣を着せた。

 とんと使う事のなかった客室の家具には、全て白いシーツがかけてある。通いの家政婦は朝にならなければ遣って来ない。仕方がないので愛染は、自分の寝台に女を寝かせ、暖かい布団をかけてやった。天蓋付きの巨大で豪奢(ごうしゃ)な寝台に、女の小さな身体がこじんまりと収まる。

 一息ついた愛染は、濡れた絹のシャツを脱ぎ捨て、紺色の着物に着替え、貝口に帯を締めると、革張りのクラシックチェアーを寝台の近くまで運び、腰を下ろした。


(田舎から出てきたばかりの娘だろうか?)


 貧富の差が著しい社会だ、田舎の貧しい農家が、娘を花街や酌婦(しゃくふ)に売りに出す事は珍しくない。愛染は女の垢抜けない顔を見ながら、そう考えた。

 静かな寝息が聞こえる。自室に誰かを連れてきた事は、未だかつてなかった。だが不思議に、この女は、昔から此処にいたような奇妙な感覚に陥る。愛染は、自分の奇妙な感覚に当惑しつつ、女を観察した。

 がさついた紫色の唇、青白い顔、落ち窪んだ両目、伸びっぱなしの艶のない黒髪。お世辞にも美しいとは言えない女だ。

 愛染は椅子から立ち上がると、寝台の端に腰を降ろした。女の冷たい唇に親指を這わせ、女の暖かい息を確認する。きつく閉じられた瞼。一向に目を覚ます気配がしない。


(何か、悪い病気ではないだろうか)


 そう考えると、愛染は居ても立ってもおられず、呼び鈴をならした。有能な執事の行動は早い。愛染が医者を連れて来るように指示を出すと、一時間もしない内に、医者がやって来た。

 医者は見事に禿げあがった頭を、手ぬぐいで拭きながら部屋に入ってきた。丸眼鏡をかけ、八字髭を蓄え、黒い鞄を持っている。

 愛染は診断中も、女の傍を離れようとしなかった。


「それで?」


 愛染は聴診器を鞄に仕舞う医者に、鋭く尋ねた。


「極度の疲労と栄養失調ですね」

「それだけか?」

「首の切り傷、腕の火傷には、軟膏を塗っておきました。後は患者の意識が戻ってからでないと、何とも言えません」

「何故、意識が戻らない」

「今は体身体が休養を欲しているのでしょう。今夜は暖かくして、しっかり休ませてやることです。明日の朝また来ます」


 医者は、山高帽を被ると、伯爵家専用の自動車に乗り込み、雨の中を病院に帰って行った。


「ヤブ医者が!」


 愛染は窓際に立ち、去り行く車に向かって吐き捨てた。胸に巣くった不安は、女が目を覚ますまで、そこに居座るだろう。


(不愉快だ)


 何故、自分が見ず知らずの女のために、心を痛めなければならないのだ。愛染はイライラと頭を掻きむしると、この世で一番心休まる場所。ワインセラーに向かったのだった。

 地下室のワインセラーに降りた愛染は、寝かせられている葡萄酒を見ながら、何時ものように、心休まるのを待った。しかし、脳裏に浮かぶのは、女の青白い顔ばかり。胸が疼く。あの女と離れていたくない。


(くそっ、私の頭はいかれたのか?)


 愛染は赤い葡萄酒を一本手に取ると、自室に戻り、ゴブレットグラスに深紅の液体を注いだ。グラスを持ったまま長椅子に横たわり、寝台で眠る女を見つめた。


(まだ、青くて小さく、酸っぱい葡萄のような女だ)


 愛染は寝かしつけた葡萄酒のような豊潤(ほうじゅん)な女が好きだ。なまっちろい女なんか、味気ない。

 きっとこの女が目を覚ましさえすれば、自分のいかれた頭も治るだろう。朝になったら、女を家から放り出せばいい。そうすれば、静かな日常が戻って来るはずだ。愛染はその考えに満足して、グラスの縁に口をかけて、芳醇(ほうじゅん)な葡萄酒を楽しんだ。


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