フロマージュと葡萄酒のマリアージュ ―3―
どれくらい時間がたったのだろう。うとうとしていたお玉は何やら慌ただしい物音に起こされた。普段は静かな伯爵邸が、にわかに慌ただしいのは醸造所の火事以来だ。
何だろう、嫌な予感がする。お玉は不安が込み上げてきた。
「お玉様!」
その時、屋根裏部屋の扉を開けて飛び込んできたのは執事だった。顔は青ざめている。底知れぬ恐怖がお玉の体を走る。
「お玉様、大変です。伯爵様が怪我を負われました」
「――っ!」
怪我? お命には別状ないのだろうか? お玉のみぞうちがせりあがる。不安で胃液を吐きそうだ。
「昨夜、自動車で事故を起こされたそうです。運転手は足を骨折、伯爵様は頭を打たれて意識がないまま病院に運ばれたそうです」
お玉はめまいを感じて、近くにある壁に手をついて目を瞑った。指が震える。ショックでパニックが起こりそうだ。しかし、今はパニックを起こしている暇はない。
「どこ、どこの病院ですか?」
お玉は取るものも取らず、大急ぎで執事と共に病院に向かった。
病院の寝台に横たわる愛染は、真っ白な顔で頭には包帯を巻いている。真っ白なシャツは鮮血で赤く染まっていた。
「愛染様!」
「おや、お玉ちゃん」
緊迫した空気の中、やんわりとした声がお玉の名前を呼んだ。その時、お玉は寝台の横にいる人無事に気が付いた。
「羽毛田先生」
「やあ、お玉ちゃん久しぶりだね」
「お久しぶりです」
「お玉ちゃん、こっちに来て伯爵の名前を呼んであげてみて。君が呼びかけたら目を覚ますかもしれないよ」
お玉は頷くと、寝台の横に膝をつき、青白い横顔の愛染を見つめた。
固く閉じだれた瞳に不安を掻き立てられ、愛染の手を握った。握った手は温かく、幾分、気持ちが楽になる。
「愛染様……」
小さく囁いた。微かに愛染のまつ毛が動いたような気がする。
「愛染様、お玉です。愛染様、起きてください」
お玉の声に反応するように、愛染が苦しそうに呻いた。
「……頭が、痛い」
「愛染様!」
愛染は苦痛に眉間にしわを寄せ、ゆっくりと目を開いた。
「愛染様! 私がわかりますか?」
「おや、すごい、本当に目が覚めた。まるで眠れる森の美男子」
羽毛田が嬉しそうな笑みを漏らした。その冗談に愛染の眉間のしわが深くなった。
※
愛染は脳震盪と診断された。
入院の話を蹴って無理矢理帰宅したのは、それから二日後のことだ。
帰宅しての絶対安静が言い渡されたため、お玉はつきっきりで看病した。なにより、愛染が一時もお玉を傍から離そうとしなかった。
「……お玉」
愛染は目を覚まして、傍にお玉がいないと不機嫌になる。お玉は急いで仮眠を取っていた椅子から立ち上がった。
「愛染様、どうかされましたか?」
「……何でもない」
愛染は安堵したように、目を瞑った。おでこに巻かれた包帯が痛々しい。
「お薬を飲まれますか?」
「イヤ……。それより葡萄酒をくれ」
「いけません!」
お玉は呆れた。こんな時でも葡萄酒を飲みたがるとは。
「……では、水を飲ませてくれ」
お玉は、愛染の口元にコップをあてがい、ゆっくりと水を含ませる。最後に口元をハンカチでぬぐった。
「お薬は?」
「いらん……」
愛染は痛み止めの薬を飲みたがらない。
「……ここに居ろ」
愛染は腕を伸ばしお玉の手を握ると、抗いがたい睡魔に屈した。
お玉は、寝台の端に腰かけると、愛染の金色の髪を優しく梳いた。細くて奇麗な髪は、指の間からキラキラと零れ落ちていく。長い睫は、青白い頬に影を落とし、鼻筋が通った端正な横顔。
美しい人だ。
男性に対して美しい、というのは不適当かもしれないが、本当に彼は美しい人だと思った。
「ここに居ます。ずっと傍に居させて下さい」
お玉は、ひとつ、大きな欠伸を漏らす。日中夜、愛染の看病に明け暮れていたお玉の身体には疲労がたまり、瞼が鉛のように重い。眠気は限界だった。
お玉は寝台に滑り込み、子猫のように愛染横に擦り寄りまどろみに引き込まれていった。
――夢を見た。
小さな子供が泣いている。
金色の髪に、瑠璃色の瞳を持つ、美しい子供だ。
屋根裏部屋の隅っこで、その子は膝を抱えて泣いている。
銀色のペンダントに涙が零れ落ちた。
悲しくて、寂しくて泣いている。
お玉がそっと金髪の子供の頭を抱え、胸に引き寄せて抱きしめた。
『泣かないで、私が傍にいるから』
ボーンボーンと大きな振り子時計が鳴る。
不思議なことにその振り子は、お玉が屋根裏部屋で見つけたあのペンダントだった。
ボーンボーンと振り子時計の音が耳を打つ。
お玉はゆっくりと瞼を開いた。辺りは薄暗い。頭痛のする愛染のため、重厚なカーテンを閉め切っているためだ。
「……夢?」
お玉は寝ぼけ眼で、視線を泳がせた。振り子時計の振り子は、いつもと変わらない。
お玉が自分の胸に抱きしめているのは、成人した愛染だった。
逞しく美しい長躯。整い過ぎた顔立ち。穏やかな寝息を立て、金色の髪がぐしゃぐしゃだ。その寝顔に幼い頃の面影を垣間見る。
お玉は微笑みを浮かべると、「傍に居ます」と小さく呟き、再び目を閉じた。
次に目が覚めた時、お玉は後ろから愛染に抱きかかえられるようにして横たわっていた。愛染の顎が頭の上に乗り、腰に腕が回され、がんじがらめに抱きしめられている。まるで抱き枕だ。
(ど、どうしましょう)
愛染を起こさないように、寝台から抜け出すのは至難の業だ。少しだけ体を動かしただけで、愛染の腕に力がこもり、お玉をさらに強く抱きしめた。
「お玉」
擦れた声がお玉の耳朶をくすぐる。熱い吐息のような声にお玉の胸が震えた。
「愛染様」
吐息のように擦れた声は、睦言を囁き合うそれだ。
愛染の手がお腹から胸へと移動する。緩慢な動作に背筋が震えた。うなじに愛染の唇を感じ、切ない吐息が漏れる。
愛染はお玉の着物の袷から素肌に手を滑らせた。小さな胸のふくらみを、大きな手のひらが包み込む。着物ははだけて白い肩が露出する。愛染はその肩に何度も口づけを落とした。
「あっ、愛染様……、いけません。怪我が……」
「怪我がなんだ」
愛染は帯を解く衣擦れの音に酔いしれる。帯と一緒に着物を脱がす。現れた緋色の長襦袢がお玉の抜けるような白い肌の対比で目がくらみそうだ。白いシーツに広がった黒髪は扇情的で、潤んだ瞳と赤らんだ頬は蠱惑的だ。
「……愛染様、いけません。……お体に障ります」
お玉の抵抗は、力がない。形だけの抵抗だというのは愛染にはすぐに分かった。
「お玉、二度と、――二度と私を拒まないでくれ」
愛染の苦しそうな声に、お玉は最後の抵抗を止め、愛染の首にそっと手を回した。それを合図に愛染の手が腰ひもに伸びる。
胸元を飾っていたクロスを失い、罪深い快楽から己を守る術はない。
――甘美なる背徳に堕ちていく。