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フロマージュと葡萄酒のマリアージュ ―2―

 

 梅沢男爵からの求婚。

 お玉は“怖い”と思った。

 梅沢男爵の一途なる想いが、怖かった。その想いに(こた)えられないのは百も承知だからだ。しかも、お玉は元女工。華族でも令嬢でもない。梅沢男爵ほどの人を騙し続けている自分に嫌気がさす。


「私のようなさもしい者、梅沢男爵のようにご立派な方には相応しくございません」

「お玉殿!」

「この度のお話は私には分不相応。どうかお忘れください――」




 しかし、梅沢男爵は諦めなかった。日を改めて伯爵邸に訪問したのだった。


「梅沢男爵、突然の訪問、何用か?」


 愛染が口元の冷笑を浮かべ、来客用に用意させた白ワインで唇を湿らした。今宵のように蒸し暑い夜は、爽やかな冷たい白ワインが美味しく感じられる。しかし、目の前の男の顔を見るとその美味しさも半減だ。

 梅沢男爵は愛染の冷たい視線を正面から見つめ返した。

 応接室には張りつめた空気が流れる。梅沢男爵は愛染の瞳を見据えながら、ゆっくりと口を開く。


「お玉殿との結婚をお許し願いたい」

「――!?」


 愛染が目を見開いた。今しがた耳にした事が信じられないといった表情だ。


「お玉殿を私に下さい。一生かけて大切にいたします。順序は違いますが、すでにお玉殿には求婚いたしました。ですから――」


 ガシャンと硝子(ガラス)の割れる音が部屋にこだました。愛染の手の中でワイングラスが割れ、手から流れ落ちる赤い血が白ワインに混じる。


「お玉をくれ、だと?」


 目の前が怒りで真っ赤に染り、どす黒い嫉妬が身体の底から湧きあがる。


「――お帰り願おうか」


 愛染は指から流れる血を見つめながら、押し殺した声で言った。


「……返事は“否”という事のようですね」


 梅沢男爵は口の端を上げて不敵に笑った。張りつめた緊張感が極限まで高まる。

 こんな場所にあのお玉殿を置いておくわけにはいかない。と梅沢男爵は決意をより一層固めた。


「私は諦めませんよ。例え伯爵の承諾がなくとも結婚は出来ます。彼女が不幸になるようならこの屋敷からさらってでも――」

「お玉に二度と近づくなっ!」


 血が逆流する。硝子(ガラス)が手に食い込むが、痛みをまったく感じない。


 ――私からお玉をさらうだと!!


 愛染と梅沢男爵が沈黙したまま睨みあった。息苦しいほどの緊迫感。数時間にも数秒にも思われた。先に視線を外したのは梅沢男爵だった。

 梅沢男爵は中折れ帽子をゆっくりとかぶる。


「お玉殿は、豪奢な籠の中で飼われるような暮らしは似合いませんよ」


 そう言うと、梅沢男爵は静かに踵を返した。

 静まり返った応接室には、愛染のどす黒い怒りが沈殿していた。


「……お玉に求婚しただと?」


 お玉から何も聞いていない。それより、二人はいつの間に出会ったのだ? 私の知らないうちに密会していたのか? 愛染の猜疑心がギスギスと音を立て始める。鋭い痛みが胸を引き裂く。


「お玉をくれだと?」


 ふざけた事を、と愛染は嘲笑う。



 ――お玉は私のモノだ。誰にもやらない。



 ※


「お玉!」


 愛染が疾風迅雷の勢いでお玉の部屋に踏み込んできた。乱暴に開け放たれた扉に、お玉は飛び上がって驚く。


「愛染様! まあ、お怪我を――」


 お玉は目を見開き、急いで駆け寄った。愛染の手から血が滴り落ちる。


「大変! すぐに手当をしなくては、執事を呼んできますね」


 執事を呼びに行こうと、愛染の横を通り過ぎようとした時、突然、手首を強く掴まれ引き戻された。


「お玉」

「愛染様?」


 愛染の藍色の瞳に怒りの色が宿っている。


「梅沢男爵と二人っきりで会ったのか?」


 質問ではなく、確認だった。お玉の驚き狼狽えた表情は肯定を意味した。


「あの男に、求婚されたのも、本当か?」

「――愛染様!」

「答えろっ!」


 お玉の肩を掴み、乱暴に揺さぶる。お玉はショックで血の気を失い、今にも倒れそうだ。


「ほ、本当です。でも――」


 その場でお断りいたしました。と続けるつもりだった言葉は愛染の口によって塞がれた。

 愛染はお玉が逃げ出さないように力いっぱい抱きしめ、噛みつくような濃厚な口づけを落とした。


「――んん、あ、愛染様!」


 愛染はお玉を寝台に放り投げ、すかさず自分の体重をかけて組み敷いた。愛染はお玉の抵抗をもろともせず、首筋に顔を埋め、脚を股の間に自らの身体を割り込ませ、着物の上から胸を揉む。


「痛い、イヤ、止めてください!」


 お玉は恐怖で涙が零れ落ちる。どんなに引っ張っても叩いても、体格差のある愛染の体はびくともしない。


「止めてください、愛染様! ひっ、怖い!」


 怖い、怖い、コワイ。涙がとめどなく零れ落ちる。

 愛染の手はお玉の内腿を乱暴に愛撫し、撫で上げていく。


「イヤ、止めてください!!」


 お玉は懇親の力を込めて叫んだ。その声で愛染はお玉の首筋から顔を上げた。辛そうに顔をしかめている。


「他の男と目も合わせるなと言っただろう。私を裏切るのか?」


 かすれた声で愛染が訊いた。お玉は涙を流し、必死に逃げようとする。


「お前も、私を拒むのか」



 ――父や母のように、祖父母のように、私を否定するのか?



「拒むのか?」


 擦れた声は小さく震え、過去が去来する。思い出したくない過去。

 祖父母に虐げられ、忌み嫌われ、孤独に泣いた日々。

 全てを封印したはずだった。いつの間にタガが緩んで、幼い子供の様に孤独に震える自分がいる。捨てられるのを恐れる自分がいる。


「……お玉」


 寝台に組み敷かれたお玉の黒髪は乱れ、着物は太腿まではだけている。あられもない姿で恐怖に震え、悲しそうに涙している。

 いつの頃から、お玉に笑顔がなくなったのだろう。取り澄ました、まやかしの笑顔など、お玉の笑顔ではない。“大和撫子”になれと命じたのは愛染自身だ。しかし、昔のお玉が懐かしくてたまらない。


「――っくそ!」


 愛染はお玉を肩に担ぐと、部屋を飛び出し階段を駆け上った。

 屋根裏部屋は暗くて湿気を帯びていた。

 愛染はお玉を屋根裏部屋に連れてくると、外から錠を降ろしてお玉を閉じ込めた。

 閉じ込めて置くことしか、お玉を繋ぎ止めておく方法を思いつかない。


「愛染様!!」


 お玉が閉じ込められた屋根裏部屋から叫んでいる。愛染は奥歯をきつく噛みしめ唸るように吠えた。


「お前は私のモノだ! 何処にもやらない!」


 扉越しに、お玉の息を飲む声が聞こえた。愛染の心が引き裂かれ、激痛に悶える。この屋敷には居たくない。


「車だ、車の用意をしろ!」


 愛染は階段を駆け下りると、怒りに任せ大声を出し嵐のように屋敷を後にした。

 屋根裏部屋に閉じ込められたお玉は、力が抜けたように茫然と座り込んでいた。



 ※


 どれくらい時間が経ったのだろうか。お玉は膝を抱えて、ぼんやりと月を眺めていた。

 埃の積もった板張りの床、硬くて質素な寝台、小さな椅子、傾斜した屋根の天窓から月の光が差し込んでくる。

 愛染は怒りにまかせてお玉を屋根裏部屋に監禁したのだ。愛染の怒りを思い出すだけ、ブルッと身震いする。


「……愛染様」


 お玉は自分を抱え込むように、両膝を力強く抱えなおした。

 愛染は結局、お玉の体を奪わなかった。力任せに無理矢理奪うことも出来たのだが、最後の最後で思いとどまった。女中など主人(あるじ)のお手付きになる事の多いご時世。もし、あのまま愛染に無理矢理体を奪われていたら……。

 お玉は旋律を覚えた。

 恐ろしかったと思うと同時に、あのまま奪って欲しかった、と思う気持ちが混雑している。


 “お前は私のモノだ! 何処にもやらない!”


 その言葉に心が震えた。

 例えそこに愛がなく、ただの所有欲でも嬉しかった。何処にも行くつもりなどない。監禁する必要などないのに。お玉の心はすでに囚われている。梅沢男爵の求婚だって断った。どうして、最後まで話を聞いてくれないのだろう。


「愛染様のおたんこなす」


 お玉は胸に引き寄せた膝の間に顔を伏せた。伏せた瞬間、目の端に何か光るものが移った。


「……何かしら?」


 屋根裏部屋の端っこに“何か”が落ちている。


「これは何かしら?」


 お玉が手に取ったものは、シンプルな卵形のペンダントだ。何時の頃からあったのか、随分埃をかぶっている。


「変わった形ね」


 埃をかぶったペンダントを(たもと)でこすると、カチッという音がした。


「こ、壊した!?」


 一瞬焦ったお玉だったが、ペンダントは開くような構造だった。

 ペンダントの中にはセピア色の写真が入っていた。左側に凛々しい日本人男性。右側に異国の女性。美しい女性だ。


「愛染様に似ておられるわ」


 このお二人は愛染様のご両親なのだと、お玉は直感した。

 女性の瞳の色は愛染様と同じ、瑠璃色なのかしら? お玉はペンダントをそっと撫でた。裏側に文字が彫ってある。

 月明りに照らしてよく見てみる。


  “Mon fils le precieux”


 異国の文字だ。なんて書いてあるのだろう? お玉は首を傾げた。


「これは、愛染様にお渡しした方がいいわよね」


 なぜ、このような侘しい所に愛染様のご両親のペンダントがあるのだろう。まるで忘れ去られたかのように……。

 月明りに照らされた銀色のペンダントは、寂しくも凛とした銀色に輝いていた。


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